仏教の開祖。紀元前にインドにご誕生。
釈迦牟尼如来。仏陀。
そして、今から3,000年前、人類を救わんがためにインドに出現され、教えを説かれたのが釈尊(ブッダ)です。
釈尊はシャカ族の王子として誕生され、なに不自由なく成長し、結婚。ヤショーダラ妃との間にはラーフラという男児が誕生しました。しかし、それからほどなく、人々のさまざまな苦悩に直面し、わがことのように悩まれました。また、生老病死をはじめとする人生の根本的な苦しみを見つめ、どうすれば人生の苦しみを解決することができるかをひたすら考えられました。
そして、間もなく家族とも別れを告げ、王位の継承も放棄して出家されました。激しく厳しい修行の結果、難行苦行は肉体をいたずらに損なうものだと捨て、瞑想されるようになりました。そして30歳の時、菩提樹のもとで悟りを開かれたといわれています。
その後、釈尊は約50年間にわたって、主に北インドを中心にさまざまな人々に教えを説きつづけました。そして釈尊が各時期、各地方で説かれた教えは、のちにそれぞれが一つのまとまりを持ったスートラ(お経)、すなわちテキストとして編纂されます。こうして釈尊の説いた教えは数多くのスートラとなって残され、伝えられてきました。各スートラに盛り込まれた教えは一様ではありません。スートラによって教えの内容が大きく違っているのは、釈尊が、その人その人の抱えている悩み、置かれている状況、能力などを考慮され、それぞれにふさわしい教えを説いていかれたからです(応病与薬)。そして最晩年、ついにその集大成として、もっとも偉大な教え、最初から説こうと心に秘めていた教えを説かれました。それが法華経(妙法蓮華経)です。この法華経には当時の人々を釈尊と同じ仏とする力があるだけではなく、はるか未来の人々まで救う力があります。
法華経以前の教えでは、釈尊はインドに現れ、修行して始めて悟りを得たと説かれていますが、法華経では釈尊の本体(本地)は久遠本仏であり、もともと悟りを開かれていた方が、釈尊として世に出られたのであると明かされます。つまり、歴史上の人間釈尊の奥に、人間釈尊を超えた久遠本仏の存在を明かされたのが法華経だということができます。ここに、それまで説かれてきた仏のいのちは有限で寿命が尽きれば人々を救う力もなくなるとされてきたのに対して、永遠不滅の命を持ち、久遠の過去からはるか永遠の未来にわたって衆生救済を続けられる久遠本仏がその全貌を顕されたのです。
さらに、釈尊は80年間のご生涯を終え、この世からお姿をかくされることになっても、未来の人々のために久遠以来のお弟子であった上行菩薩に御題目を授け、未来の衆生の救済を託されたのです。御題目こそ、法華経だけでなく、すべてのスートラが生み出されるもととなり、釈尊のあらゆる修行とお悟りがこめられている「成仏の法」だからです。
鎌倉時代、1253年、立教開宗される。
尊称 高祖日蓮大菩薩。
日蓮聖人は1222年、千葉県小湊にご誕生。16歳で出家、その後、鎌倉、比叡山で学ばれるうち法華経の真髄に触れ、「乱れた世の中を正し、苦しみあえぐ人々を救うには法華経の信心しかない」との結論に達せられました。 32歳の時、千葉、清澄山にて立教開宗(教えを立てて宗を開く)。御題目(南無妙法蓮華経)を声高らかに唱えられました。
そして、その日から当時乱立していた多くの仏教宗派に対して、御題目の信心こそが真実の教えであることを精力的に訴え、他宗をお折伏し、ご弘通をされたのです。それにより真実の法華経の行者ゆえの迫害が始まり、終生、「大難四カ度小難数をしれず」といわれるように法難につきまとわれますが、そのたびにご加護をいただかれ、ひるまず法華経のご信心をすすめられます。 大難四ヵ度の中でもっとも厳しかったのが1271年に起こった「龍口ご法難」とそれに続く「佐渡ご流罪」です。 しかし、龍口ご法難では、いままさに日蓮聖人の頚が役人の手によって斬られようとしたとき、煌々と光る「毬のようなもの」が顕れ、役人は恐れおののき斬首は中止となりました。
また、佐渡島では、最初、聖人の命を狙った阿仏房夫妻の教化を手始めとして、そのお徳を慕って周囲の人々が次々に入信。地頭の本間氏もひそかに御題目に帰依するようになり、ご在島足かけ3年半の間に聖人の環境は大きく変わりました。また、この間に、末法の衆生が帰依すべき御本尊を明かされた「観心本尊抄」、そして上行菩薩の後身であるとの自覚を示された「開目抄」、法華経の行者が持つべき覚悟を説かれた「如説修行抄」を著されました。「観心本尊抄」と「如説修行抄」とご晩年、身延山で著された「四信五品抄」とをあわせて「当家三部の如説抄」といい、当宗でもっとも大事な御書とされています。
このようにご自身がご加護いただき現証を顕されただけでなく、多くの人を御題目によってお救いされ、数々のお計らい・・現証利益をあらわされたのです。「日蓮仏法をこヽろみるに道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」と目に見える現実の証拠、また、個人でいえばその人の心と体に顕れること、さまざまな事象こそ現証で、それこそがまさに教えの正邪の決め手であり、最も説得力のあるものです。正しい信心が確立されてこそ、“国”は安らかに人々は心身共にほんとうに幸せになれるというのが日蓮聖人の基本的なスタンスです。 私たちは聖人の教えに忠実に、修行としては、経文を読誦はせず、「本門八品所顕、上行所伝、本因下種の南無妙法蓮華経」と御題目をお唱えする口唱行を実践しています。
室町時代に日蓮聖人の教えを再興。
尊称 再興正導門祖日隆聖人。
日隆聖人は1385年、越中国射水郡浅井嶋村(富山県高岡市郊外)で足利氏の縁戚、桃井家(父・尚儀、母・益子)のご長男としてご誕生されました。
幼名を長一丸といい12歳で地元の遠成寺に入寺出家して、深円と称されるようになりました。この頃から日隆聖人のご勉学は当時の学僧をはるかに凌いでいたようです。
後、18歳で京都の日蓮宗の本山、妙本寺に入られ日霽上人を師として慶林坊日立とお名前を改め、本格的に行学(修行と学問)二道に精進されたのです。
しかし、当時の妙本寺はすっかり貴族化してしまっていました。妙本寺の跡をとった公家出身の月明もその例にもれず、武士が出入りして寺の風紀は乱れ、さらに日蓮聖人の教えの筋も曲げられてしまう状態でした。具体的に申しますと、日蓮聖人は「本迹の相違は水火、天地の違目也」と、法華経の中でも後半の本門を重んじられました。しかし、月明は「本迹一致」といって後半の本門も前半の迹門も同じだと主張しました。
そこで、日隆聖人は同志とともに改革運動を起こされ、二度、三度と月明を折伏しましたが聞き入れませんでした。そこで、妙本寺を離れ別に弘通の拠点を設けて、正しい教えをひろめられるようになりました。この頃、『日立』から『日隆』とお名前を改められました。
月明は日隆聖人等により再三、折伏され、それを聞き入れないと寺を出てしまったことを逆恨みして刺客を送り、日隆聖人の命を狙うようになりました。しかし、現証によって難をのがれられ、命を取りとめられたのです。
そのご生涯の間、現証ご利益によって日隆聖人は旅先の各地で御法をひろめられ、教線は大いに拡大しました。他宗の僧侶でもその徳を慕い聖人に帰伏する者が続出しました。当時の弘通(布教)活動は寺ごと村ごとといったように大変スケールも大きく、近畿、北陸、中国、四国地方、あわせて十四カ寺の建立を果たされ、さらに後進の弟子たちが教えを誤らないよう三千余帖といわれる多くの著述をされました。
1464年、80歳にて端座合掌のまま御題目をお唱えしながらご遷化(亡くなられること)になりました。
日蓮聖人のご再誕(生まれ変わり)として、そのご精神と教えをそのまま再興されたので、特に蓮師後身、再興正導、門祖日隆聖人と尊称しています。
日蓮聖人から日隆聖人、日隆聖人から日扇聖人に至るまで代々の先師がとぎれることなく続いています。
江戸~明治時代にご活躍。1857年、本門佛立宗をご開講。
尊称 佛立開導日扇聖人
日扇聖人は1817年、京都でご生誕、生家は代々文人の家系で、聖人も9歳の頃から当時の芸術年鑑「平安人物誌」にのるくらいの俊才で、書や絵画をよくしました。また、25歳で公家、千種有功の屋敷で源氏物語の講義をされるなど若くして有名になっていました。その後、江戸にも遊学され松崎慊堂の門人となられました。
26歳のとき母の死に遇い、強く無常観に打たれ仏教に興味をもたれました。そして、人生に懐疑を抱かれ諸宗遍歴を重ねられます。そんなある日、京都での書会が縁となり、教化をうけて深く法華経に帰依、入信。やがて当時の法華宗の本山・本能寺の貫主・日肇上人を講主として本門八品講をつくられました。本門八品とは法華経の後半(本門)の中で日蓮聖人がいちばん重要とされた所で、菩薩行(人のために我が身をなげうつこと)が強調されています。
1848年、聖人はもと本山・妙蓮寺貫首・日耀上人のもとで出家されましたが、様々な迫害をうけ、ついに僧侶としての生活を断念されました。なぜ迫害をうけたのかと申しますと、日肇上人、日耀上人と日扇聖人は当時、葬式専門となっていた宗門のあり方に反対していたからです。聖人は、葬式や死者回向専門の仏教界を改革し、現実に苦悩する人々に一筋の光明を与える真の仏教者として、一生の間、活躍されました。
そしてついに、1857年、本門法華宗の中で本門佛立講を京都に開き、後には由緒ある宥清寺を本拠地として教えを弘められました。その教導の方法は「御講」を中心に信徒宅で法会を営み、聖人が要点を和歌にまとめて詠む「御教歌」を中心に教えを説かれました。
また、信者の悩みに応えて御題目口唱をもっぱらにする「助行」をみずから実践し、また、自立的に信徒同士で行えるよう指導されました。
こうして、み仏のみ教えのとおり、御本尊の前で懸命に御題目をお唱えしますと、御題目の経力によりさまざまな現証利益があらわれ、またたく間に近畿一円に信者がふえました。
1881年、日蓮聖人の600回遠諱には、15,000人が参詣したほどです。これは当時としては驚くべき数です。その後も困難の中、信心の改良に努められました。その改良の特徴は、
1 | 日蓮聖人の教えに忠実に、原則として経文読誦を禁止。御題目口唱中心に改良。 |
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2 | 御題目の御本尊以外に心を移し、拝むことを禁止、純粋無垢な信心を持つよう指導。 |
3 | 出家(僧侶)と在家(信者)の平等を訴えられ、両者の協調、僧俗一体の弘通、菩薩行をすすめられたこと。 |
晩年にはさらに厳しく御弟子と信徒を教導、1890年7月17日、74歳をもって静かにそのご生涯を閉じられました。聖人は大勢の弟子を養成されましたが、その中から日聞上人が第二世講有を継がれ、その後、歴代の講有が連綿と続き今日まで宗門と本山が守られてきました。