原罪と罪障の違い
Q キリスト教で説く原罪と仏教で説く罪障はどのように違うのですか。
 まったく違います。キリスト教で説くところの原罪というのは、アダムとイブが神の命に背いて原罪を作った。それが人間の背負う罪となったが、イエス・キリストがその罪を贖ったといいます。また神は神を信じるものを救い、信じないものを裁くとも説きます。
一方、仏教ではそのような罪は説かないし、私たちが誰かによって裁かれるということも説きません。

Q ブッダ(仏)は人々を裁かないのですか。
 裁きません。もし、罪というものがあるとすれば、それは他からもたらされたものではなく、自分自身が作ったものなのです。もし、裁く者がいるとすれば、それは自分自身が自分を裁くことになるのです。なぜなら、私たちが日常生活で行っていること、語っていること、考えていることは私たちの心にインプットされて種となり、カーマ(業)を形作っていくからです。
仏教でいうところの罪とは、自分自身の行いによって作った悪しきカーマのことです。人間は、それぞれたくさんの過去世を持っています。そうした過去世において積み重ねてきた悪しきカーマを罪障と呼ぶのです。

Q ある人は大変幸せな境遇に生まれ、ある人は大変不幸な運命を背負って生きている。またある人は健康で、ある人は病弱である。こうしたこともカーマのしからしむるところなのですか。
 それは大変難しい質問です。すべての結果をカーマのしからしむるところというふうにみなすことはできません。それとカーマには個々人が持っているカーマ(不共業)と家族とか社会といった集団が共有しているカーマ(共業)もあります。それから物事は因と縁の複雑な相互作用によって生じるのですから、単純に考えるわけにはいかないのです。

Q カーマと運命とはどう違うのですか。
 カーマは自分以外の誰かが定めたものではありません。過去に自分が形づくり、方向づけたものなのです。そして今、私たちは未来の自分のカーマを作りつつあるのです。つまり、何か自分を超えた何者かが自分の運命を決めるのではありません。

Q カーマはどんなふうに形づくられていくのですか。
 私たちは見たり、聞いたり、味わったり、匂いをを嗅いだり、肌で快・不快・寒い暑いを感じたりします。これを五官といいます。これら五官を通して心が働きます。これを仏教では意識とか六識といいます。精神分析学の創始者、シグムント・フロイトは無意識の世界を探求しましたが、仏教でもこのような無意識の世界を説きます。これを仏教ではマナ識とか七識といいます。
仏教ではこうした無意識の奥にさらにアラヤ識、あるいは八識と呼ばれる心があると説きます。そして、私たちが日常生活で見たり、聞いたり、考えたり、語ったり、行ったことはすべて、このアラヤ識に種子となって記録され、保持されていきます。
なぜ種子というかといいますと、アラヤ識に送り込まれ、記録され、保持されたものは私たちの近い将来から、未来世にかけての自分自身の運命を形づくる精神的なエネルギー、力となるからです。

Q アラヤ識に記録された種子は死んでからも、次の世界に持ち越されていくのですか。
A 
それは大変大事な質問です。私たちが死を迎えますと、六識とマナ識は消滅してしま います。しかし、アラヤ識はエネルギーとして存続していくのです。ですからアラヤ識 に記録された種子も未来へと持ち越されていくのです。
そうやって私たちが過去世から持ち越してきた種子のなかで、今の自分の人生に悪い 作用を及ぼすものを仏教では罪とか罪障と呼ぶのです。
私たちは皆、そのような罪障を過去世から持っています。そこで、私たちは御題目を唱える前に、まず、「無始已来謗法罪障消滅」と祈るのです。

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