「一緒に入門」「できたてほやほや」の心で


○度(ど)しがたい凡夫(ぼんぶ)を救済せんとの慈悲


先月は「『無智の信心』を大切に」、というテーマで「無智宗」の本来の意味、智慧と知識の問題、「妙の世界へ入る」のは「いのちといのちの感応」だということ等について記しました。

  今月は「元来罪障が深くてが度(ど)しがたく、救済しがたい末法の凡夫を、何とかして救い、成仏へ導こうとして、み仏がお説きくださったのが最高真実の教えである法華経であり、さらには本門八品所顕上行所伝本因下種のお題目であること」と「ご信者、特にお役中がこの『位弥下』の教えをいかに体認し、後進のご信者や法燈相続に臨むべきであるか」について記したいと存じます。


  「教弥実位弥下」とは『摩訶止観輔行伝弘決(まかしかんぶぎょうでんぐけつ)』(妙楽大師)という、天台大師の『摩訶止観』を解釈した書に示される語で、「正(まさ)しく権実(ごんじつ)を判ず、教弥実(きょういよいよじつ)なれば位弥下(くらいいよいよくだ)る。教弥権(ごん)なれば位弥高し」とあるのに拠(よ)ります。

 要は、み仏の教えも真実の教えであればあるほど、その教えで救われるのは能力の劣った下根下機(げこんげき)の人にまで及ぶ、反対に教えが方便(ほうべん)・権教(ごんきょう)であるほど、その教えで救われるのは能力の優れた人に限られてくる、ということで、実教と権教の「救済力の違い」を判定される御文です。

  お祖師さまはこれに基づきつつ次のように仰せです。

「教弥(いよいよ)実なれば位弥下れりと云ふ釈(しゃく)は此意(このい)也。四味三教(しみさんぎょう)自(よ)り円教(えんぎょう)は機(き)を摂(せっ)し、尓前(にぜん)の円教より法華経は機を摂し、迹(しゃく)門より本門は機を尽(つく)す也。教弥実位弥下の六字に心を留(とど)めて案(あん)ずべし。(乃至)止観第六に云く、前教(ぜんきょう)の其位(そのくらい)を高くする所以(ゆえん)は方便の説なればなり。円教の位下(ひく)きは真実の説なればなり。弘決(ぐけつ)に云く、前教といふより下(しも)は正(まさ)しく権実(ごんじつ)を判ず。教弥実なれば位弥下く、教弥権なれば位弥高き故にと」

(四信五品抄・昭定1296頁)



右の御文の原文はすべて漢文で、ここでは訓み下しで拝見させていただきました。少々難しいと存じますが、大切な御文ですのでまず頂戴しておきます。御文の中の「弘決(ぐけつ)に云く、前教より下(しも)は」の意味は、先に紹介した『摩訶止観輔行伝
弘決』の文言の引用で、「摩訶止観の原文で『前教の其位云々』とある以下の一文の意は、権教と実教の救済力の違いを判定しているもので、これを要約すれば教弥実位弥下(きょうみじついみげ)、教弥権位弥高(きょうみごんいみこう)ということだ」ということです。その他の文言の一つ一つの説明は省略いたします。

要は、教えが真実であればあるほどどんな救い難い者でも救うことができる。それは法華経本門の教えに極まり、御題目こそ真実の中の真実の教えであるから、どれほど能力の劣った下根下機(げこんげき)・三毒強盛(さんどくごうじょう)の末法の凡夫でも成仏へと導くことができる力を有している。いいかえれば、私ども末法の罪障の深い凡夫のすべてを救済できる経力を有するのは上行所伝の御題目しかないということです。


  この権教と実教に対する判定は、一見反対ではないかとも思われます。つまり、教えが高度になればなるほど優秀な者でなければ理解できず、劣った者にはそれなりの初歩的な教えが適しているのではないか、というわけです。けれどもそうではないのです。なぜならこれは教えの「救済する力」についての判定なのです。そのことが理解し易いよう、古くからいろいろな譬喩が用いられます。

 例えば、薬についていえば、軽い病気や怪我ならちょっとした売薬や消毒で十分対応できるし、体力や免疫力の高い人なら少々の疾病などはほおっておいても自分の力で治すことができる。ところが重病・重症ともなればそれなりの医療・投薬・手術などが必要になる。ましてや、難病や重篤な症状ともなれば、これは最高の対応が求められる。末法の衆生はいわば重病中の重病で、しかも自身の体力も気力も免疫力も最低の状態であるから、どうしても最高の薬・医療を施す必要がある、というわけです。
ここでは御題目こそ最高この上ない良薬であり、どんな重病も治すことができるのだということを、疾病の程度と用いる薬との対応関係に譬えるのです。いわゆる「応病与薬(おうびょうよやく)」ということから、劣った者にこそ救済力の優れた真実の教えを施す必要性を説くのです。

  また別の譬えでは太陽の高さと、その光の届く範囲にも擬(ぎ)せられます。つまり、高度の低い朝の太陽の光は高い山の頂上などしか照らすことができないが、南中して真上に昇った太陽の光はどんな深い谷底にまでも届く、つまり、最も低い場所、どん底の衆生にまで救済の光を及ぼすというのです。
  ここではもちろん南中した太陽の光が御題目の経力に、それ以前の低い位置の太陽の光の及ぶ力が法華経以前に説かれた方便・権教に比せられているのです。ちなみに「方便」とは「真実最終の目的に導く手段手だて」の意で、ここでは「さし当たっての手当としての応急処置、教え」というほどの意です。「権教」の権は仮()りという意で、ここでは「真実ではなく、そこに至る手前の教え」というほどの意です。方便にせよ、権教にせよ、真実の教えではなく「当座の便宜的な処置」ですから、実教・御題目ほどの救済力はないのです。


○「易しさ」も大切な要件


  また、大学生ほどにもなれば相当な理解力を持っていますから、ちょっと教えられたり、ヒントを与えられたりしただけでも、いわば一によって十を知る、ということもありますが、小学生の理解力、ましてや幼児ともなればとてもそうはまいりません。よほどかみくだいて分かり易く、十全な教えでないととても手に合いません。「真実最高の教えである御題目をただ信じ唱えるだけで成仏という最高の果報がいただける」という「易(やさ)しさ」も「教弥実位弥下」の教えの大切な要件になってくる理由です。
  この視点から見ると、当宗の特色を示す、いわゆる「十二宗名(しゅうみょう)」についても、例えば先月学んだ「無智宗」「信心宗」はもとより「易行宗」や「経力宗」、さらには「名字即(みょうじそく)宗」「口唱宗」「事相(じそう)宗」等すべてに通じ、関連するのが「位弥下」の教えだということに気がつきます。

  凡夫の凡智を捨て、我(が)を捨てることによって仏智をいただく(無智宗)。それも信心によってそのすべてがいただける(信心宗)。それもただ御題目を受持信唱する(口唱宗)という易しい修行でよい(易行宗)。理論では解らず信ずることができないところを妙法の経力つまりご利生によって信じさせていただく(経力宗)。心のありようを正すことからではなく参詣し、実際に口に唱える、つまり姿形(すがたかたち)から入っていく(事相宗)といったことのすべてが、だれでもできて、だれもが得心し腑(ふ)に落ちて、結果だれもが大果報に与(あずか)れる、ということに照準を合わせているのです。「名字即」というのも、極く大雑把にいえば、めい想や観法などによって悟りを開くことのできる能力を持(これを観行即位[かんぎょうそくい]と申します)たず、悟りの中味も何も全く解らず、「ただ信じて御題目の名前(名字)だけを唱えることしかできない位」を申します。そんな下位・下機の凡夫である末法の私共をいわば正客(しょうきゃく)にしてくださるのも、正(まさ)しく「位弥下」の教えだからこそなのです。

実際的・具体的な、現代のお互いに即した「位弥下」のありようについては次号で記したいと存じます。


・付記

十二宗名(じゅうにしゅうみょう)覚え方の文

過去宗(かこしゅう)・下種宗(げしゅしゅう)・経王宗(きょうおうしゅう)

事 相(じそう)・無智宗(むちしゅう)・信心宗(しんじんしゅう)

易 行(いぎょう)・経 力(きょうりき)・口唱宗(くしょうしゅう)

名字即宗(みょうじそくしゅう)・位弥下宗(いみげしゅう)

直入法華折伏宗(じきにゅうほっけしゃくぶくしゅう) 


※経王宗=本門経王(ほんもんきょうおう)宗   

※位弥下宗=教弥実位弥下(きょうみじついみげ)宗


門祖日隆聖人御聖教【「十二宗名」の出典】

「日蓮宗と云者、過去宗也、下種宗也、本門経王宗也、事相宗也、無智宗也、信心宗也、易行宗也、経力宗也、口唱宗也、名字即宗也、教弥実位弥下宗也、直入法華折伏宗也。」

(十三問答抄上巻、在世下種ノ事・宗義書第二巻16頁)

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