―逆即是順・ご罰即ご利益―
○逆即是順…転換・逆転の妙理
前回は、「縁起(えんぎ)[因縁生起(いんねんしょうき)]」の理法を始点として「順縁」と「逆縁」を説明し、妙法に対して「末法の凡夫はおしなべて逆縁の衆生」ではあるけれども、逆らい誹謗(ひぼう)せしめてでも妙法と縁を結ばしめ、それによって衆生の仏性を啓発・開顕せしめる「逆化折伏」の菩薩行が大切であることや、上行所伝の妙法は、そうした末法の逆縁の衆生をこそ救済し、成仏せしめんがために、み仏が上行菩薩に授けられたものであるから、その意味で、み仏のご本意も御題目自体も逆縁をこそ正意とする(逆縁正意)のであるから、佛立信徒、特にお役中はこの意を体してご奉公させていただくことが大事である旨申しあげました。
なお念のため申し添えさせていただきますと、このシリーズの㉜「自覚の宗教と啓示の宗教」では、仏教は基本的に衆生一人ひとりに、自己に内在する成仏の可能性・素質(仏性)の自覚を促そうとする宗教で、殊に上行所伝の妙法こそが私ども末法のすべての衆生の仏性を開く(開顕・啓発)いわば「マスターキー」であり、開く方法が妙法の受持信唱なのだということを申しあげました。㉝の「逆縁正意(ぎゃくえんしょうい)と逆即是順(ぎゃくそくぜじゅん)」(1)は㉜を受けてのもので、「仏性の自覚を促すマスターキー」とも言うべき「上行所伝の妙法」ではあるけれども、私ども末法の衆生は三毒〈貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)〉が強く、愚かであるため、折角の妙法なのに実際には反発こそすれ、これを素直に受持信唱できない「逆縁」の者ばかりであるため、み仏はそれをも見越されて、逆縁の者をこそ救済すべく上行所伝の妙法をお授けくださったのであり、したがって私どもは、自分自身もそうであるけれども、他の宗外者に対しても、反発を覚悟で、いやむしろこちらから進んで妙法を勧め、折伏し、反発・反抗を激発させることによって逆縁を結び、これを縁としてついにはお教化をさせていただく「逆化折伏」の菩薩行が大切であることを申したわけです。要は、「自覚を促す」といっても、現実には「逆縁」を結ぶことによって仏性が開顕・啓発されていくのだということです。そういう意味で、㉜と㉝は一連の内容となっていますので、その点ご承知おきください。
なお前回「毒鼓(どっく)の縁」に触れましたが、その説明がございませんでしたので捕足しておきます。この「毒鼓の縁」というのは『涅槃経』の如来性品(にょらいしょうぼん)に「譬へば人有りて、雑毒薬(ぞうどくやく)を以て用いて大鼓(だいこ)に塗り、大衆(だいしゅ)の中に於て之を撃(う)ちて声を発(いだ)さしむ。心に聞かんと欲すること無しと雖(いえど)も、之を聞けば皆死するが如し。(乃至)声を聞く者有れば、有らゆる貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・愚癡(ぐち)、悉(ことごと)く皆滅尽す」とあるのがその典拠です。つまり「毒鼓の音を耳にした者がすべて死するように、正法(妙法)の声(おと)を聞かせることによって本人の意志にかかわらず縁を結ばせ、三毒を滅して成仏へと導こうとする教化法」なのです。ですから「毒鼓の縁」は、「逆縁を結ぶ」「逆化折伏」とほぼ同義の語として用いられるのです。
日蓮大士は次のように仰せです。
「謗法の者に向(むか)っては一向(いっこう)に法華経を説くべし。毒鼓の縁と成さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し。(乃至)信謗(しんぼう)共に下種(げしゅ)と為(な)ればなり」
(教機時国抄・昭定242頁)
「当世の人、何となくとも法華経に背(そむ)く失(とが)に依(よ)りて、地獄に堕(お)ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強(し)ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし。謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」
(法華初心成仏抄・昭定1426頁)
当世末法の衆生は皆、過去久遠(くおん)以来今日(こんにち)まで妙法を信受したことがなく、このままだと必ず堕獄する「定業(じょうごう)堕獄の凡夫」ばかりなのであるから、とにかく強いてでも妙法を勧め聞かせることが大切である。もしも素直に信受する者は定業を能転(のうてん)して成仏することができるし、反発する逆謗・逆縁の者も、まさしく「毒鼓の縁」となって、ついに成仏へと導くことができるからである。常不軽菩薩の「不軽折伏」のご奉公もこれと同じ心である、との意です。なお、不軽菩薩の姿や「不軽折伏」については、このシリーズの②③、「不軽菩薩の心をいただく」(1)(2)を参照いただきたいと存じます。
さて、今回のテーマである「逆即是順」について申しあげたいと存じます。まずこの語の訓(よ)みは「逆即(すなわ)ち是(こ)れ順なり」で、「逆」は逆縁、「順」は順縁ですから、「逆縁がそのまま順縁である」つまり、「仏法に違逆・反抗することが、そのまま180度転じて、仏法に随順・帰依することになる」という意です。
この語の出典は、天台智顗(ちぎ)の『法華文句(もんぐ)』を扶釈(ふしゃく・解説)した妙楽湛然(みょうらくたんねん)の『法華文句記(もんぐき)』(巻8之4・大正蔵34巻312C)に、「唯(ただ)円教(えんぎょう)の意は逆即是順なり。自余(じよ)の三教(さんぎょう)は逆順定(さだ)まるが故に」とあるのがそれです。これは『法華文句』(巻8下)に、釈尊に敵対し殺害しようとまでした極悪人の代表ともいうべき提婆達多(だいばだった・デーヴァダッタ)が仏から天王如来の授記(じゅき)を得たことについて、「逆(ぎゃく)を行ずるに因(よ)って而(しか)して理順(りじゅん)ずるは即ち円教(えんぎょう)の意にして、余教(よきょう)の意に非(あら)ざるなり」(大正蔵34巻114頁C)とあるのを釈したものです。
「なぜ提婆達多のような仏法違逆の極悪人に成仏の授記があるのかというと、それは法華経が円教(えんぎょう)だからこそ逆即是順の理を認めるからである。法華経以外の余教[蔵教(ぞうきょう)・通教(つうぎょう)・別教(べっきょう)の三教(さんぎょう)]では順逆は固定されたものであって、逆即順などということは到底是認し得る道理ではないのだ」という意味です。
因みに「蔵(ぞう)・通(つう)・別(べつ)・円(えん)の四教(しきょう)」というのは、天台智顗が仏一代の説法を、その説かれた内容によって四種に大別したもので、これを「化法(けほう)の四教」といい、中では円教が最も円満具足・円融の教えであり、特に法華経こそは純円(じゅんえん)であると判定されるものです。「法華純円」「法華円宗(えんじゅう)」(「南無久遠の御文」に「円宗守護」とある円宗もこの意)等の語もあります。なお「化法(けほう)」というのは教化の為に説かれる教法(きょうぼう)の内容そのものをいい、これに対して、具体的な説き方、つまり化導の方法やあり方を「化儀(けぎ)」と申します。
さて話を元に戻します。要は、法華経以外の余経[方便(ほうべん)・権教(ごんきょう)、蔵・通・別の三教を説く経典等]では順縁の成仏は認められていても、逆縁の成仏は認められていない。その逆縁の成仏を「逆即是順」の理によって明らかにするところに法華円教の大きな特徴、余教に優れた有難さがあるということです。なぜなら、私共末法の衆生はすべて三毒強盛(さんどくごうじょう)・罪根甚重(ざいこんじんじゅう)で、提婆に等しい定業堕獄(じょうごうだごく)の逆縁の輩(やから)であり、純円の妙法の受持信唱によって逆即是順させていただく以外には、定業能転し成仏の果報をいただく道はないからです。
日蓮大士は仰せです。
「法華経の心は当位即妙(とういそくみょう)・不改本位(ふかいほんい)と申して、悪業を捨てずして仏道を成(じょう)ずるなり。天台の云く、他教は但(ただ)善に記(き)して悪に記せず。今経(こんきょう・法華経のこと)は皆(みな)記す等云云。妙楽の云く、唯(ただ)円教の意は逆即是順なり。自余(じよ)の三教は逆順定まるが故に等云云」
(波木井三郎殿御返事・昭定749頁)
法華経に示されたみ仏のご本意・お慈悲の有難さは、罪根甚重の極悪人である末法の荒凡夫であり、下根下機(げこんげき)で、余教では度(ど)し難い名字即(みょうじそくい)位の者を、その位のままに逆即是順して成仏せしめようとするところにある、との意です。
「逆即是順」の姿の代表は、先にも記した提婆のいわゆる「悪人成仏」の姿ですが、法華経には、基本的には同じ観点から拝見できる譬喩がいくつもあります。
「長者窮子(ぐうじ)の譬(たとえ)」(信解品第四)、「良医病子(ろういびょうし)の譬」(如来寿量品第十六)もそうです。
○「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬」と「良医病子(ろういびょうし)の譬」
・「長者窮子の譬」
信解品(しんげほん)は、その前の譬喩品(ひゆほん)第三の教説を受け、舎利弗(しゃりほつ)が授記(じゅき)を受けたことに随喜した迦葉(かしょう)・目連(もくれん)等の四大声聞(しょうもん)が、自身は小乗の教えをもうこれで最高だと思って満足し、菩薩の大乗の法を求めようとする志願も持たないでいたところへ、希有(けう)の大法を与えられたことを随喜し、その喜びを譬をもって述べる章で、有名な「無量珍宝不求自得(むりょうちんぽうふぐじとく)」[無量の珍宝、求めざるに自(おのずか)ら得たり]、「無上宝聚不求自得(むじょうほうじゅふぐじとく)」[無上の宝聚、求めざるに自ら得たり]の御文もこの品が出所です。なお当品の「無貪無著無復志願(むとんむじゃくむぶしがん)」[貪(とん)なく著(じゃく)なく復志願(またしがん)なし]の文は、開導聖人の師である無著日耀(にちよう)上人と、開導聖人の無貪清風のお二人の号の依文(えもん)だと拝されます。
さて「長者窮子の譬」の概要は次のようなものです。長者は仏、窮子は声聞等の小乗教徒をさします。
「金持の長者に一人息子がいたが、何の理由、何の不足があってか、幼くして親の家を出、困窮のはてに浮浪の乞食となって長年流浪する。父は子をさがし求めていたが、ある町に止(とど)まって大富豪となっていた。その大邸宅を通りかかった息子は父を識別することもできなかったが、父は一目で息子をそれと見、自邸に雇って便所掃除から始めさせる。長者は自身も便衣に身をやつし、息子に近付いては次第に啓発し、終(つい)には自覚を呼び覚(さま)して父子の関係を明かし、全ての財産を譲り与える」
ここで私が特に注意したいと思うのは次の御文です。
「譬へば童子、幼稚無識(ようちむしき)にして父を捨てゝ逃逝(じょうぜい)して遠く佗土(たど)に到りぬ」(開結191頁)
これは譬喩の冒頭で、ここから話が始まるのですが、ご覧のようになぜ恵まれた家と父を捨て、家出をすることになったのか、その理由の説明は極めて簡略で、ただ「幼稚無識 (ようちむしき)捨父逃逝(しゃぶじょうぜい)」とあるだけです。
思うに、折角自分に与えられている結構な境遇でも、本人は果報拙(つたなく)くしてそれと有難く受け止めることができず、却(かえ)って反発し遠離(おんり)しようとするということでしょうか。「幼稚無識」とはそういうことでしょう。それは「我見(がけん)」ばかり強く頑固で、世間のことも、父の心も、何も分っていないくせに、つまらぬ意地ばかり強情に張り、自分から幸せに背を向けてしまう「愚かさ」であり、「幼稚さ」だと存じます。自分でも自分のことがよく分っていない。それも含んでの「無識」なのでしょう。
折角の身に余る大法を与えられながら、果報拙くして拙劣な小乗の教えに執着し、御題目というこの上ない大法(無上の宝)に理由もなく反発し罪障を累(かさ)ねて末法まで生死流転を繰り返してきて、今やっと改めて妙法にお出値(であ)いすることができた私共も、いわばこの「幼稚無識」に他ならないと申せましょう。
さらに卑近な例を申せば、傍らから見ればそれなりに恵まれた家に居りながら、なぜか親や家族に不満を持ち、反発して家を出た息子や娘が、外へ出てはじめて家や親の有難さが身にしみ、それがきっかけで、家族関係が修復されるのも同じ理(ことわり)ではないかと存じます。
一度は違逆・反発しながら、その逆縁がきっかけとなり、それが転じてついには順縁となる「逆即是順」の姿はこういうところにも感得できるのではないでしょうか。そういえば、以前はけんかばかりしていた夫婦や友人同士が、後に却ってこの上ない固い絆で結ばれたり、幼い時は意地悪ばかりし合っていた男女が長じて結婚したり、悪人が自身の悪業を縁として改心するや、一転して普通以上の善人に生れ変わったり、ということも世間には少なくありません。こうしてみると「逆即是順」というのは本当に奥深い、法華経ならではの妙理だというのも、何となくうなずけるような気がいたします。
「良医病子の譬」についてはこのシリーズの㉓「妙法こそ大良薬(だいろうやく)」の中で既に概説もしてありますので、譬喩の概略はそれを参照いただきたいと存じます。ただここで注意しておいていただきたいのは、まずこの譬の中でも、父である良医の留守に子が毒薬を飲んだ理由は全く示されていないこと、また帰宅した良医が最高の毒消しの良薬(妙法のこと)を与えて飲むように勧めるのに、反発してどうしても飲まない点です。経文には次のようにあります。
「余の心を失へる者[余失心者(しっしんじゃ)]は(乃至)而(しか)も肯(あえ)て服(ふく)せず。所以(ゆえ)は何(いか)ん。毒気深く入って[毒気深入(どっけじんにゅう)]本心を失へるが故に此の好(よ)き色(いろ)ある薬に於いて美(よ)からずと謂(おも)へり。(乃至)毒に中(やぶ)られて心皆顛倒(こころみなてんどう・しんかいてんどう)せり」(開結424頁)。
大良薬(妙法)を飲まない(信唱しない)のは、重度の中毒(三毒強盛・毒気深入)のため錯乱状態で正しい判断や行動ができず、良薬を素直に認識できないで疑ったり反発したりしている、いわば逆さまにしか見ることができない愚かさ(心皆顛倒)の中にあるからです。けれども、そんな彼らも良医である父が旅先で死んだ〈実には非滅現滅(ひめつげんめつ)の入滅―仮りの入滅〉と知らされるや、深い悲しみの中ではじめて父の真の慈愛の心に思い到り、やっと素直な心になって〈常懐悲感(じょうえひかん) 心遂醒悟(しんすいしょうご)〉良薬を服(の)み、さしもの苦しみからも救われる〈即取服之(そくしゅぶくし) 毒病皆愈(どくびょうかいゆ)〉のです。
父が名医でありながらその子が毒を服んだのも愚かなことなら、名医たる父の最高の処方の良薬に文句をつけて逆らい、素直に服まないのも実に愚かなことです。でも逆縁とはそういうものなのでしょう。しかし、そうした反抗・違逆が縁となって、却って父の深い慈悲心を知ることとなり、一転して父の教えに随順し、良薬を服んで苦悩から救われるのですから、これも「逆即是順」の姿でしょう。三毒強盛・定業堕獄の末法の凡夫が、妙法に反発しながら、しかもついには妙法を信唱することによって成仏の果報をいただくのも同じです。それは、良医たる父をみ仏に、毒気深入の失心者で心皆顛倒の子を末法の荒凡夫たる私共に、それぞれ置きかえてみれば何となく腑(ふ)におちることではないでしょうか。
○逆転の発想―「ご罰即ご利益」
「逆即是順」を少々荒っぽく換言すれば「逆転の発想」・「転換の妙理」だとも申せるのではないかと存じます。普通なら「もうダメ」と定まった事が、それ自体を機縁とし、一転して素晴らしい方向に進む転換点となるのですから。例えば信者とは名ばかりで信行に背を向けていた人が、医者にもサジを投げられるような重病を患い、もうダメだという時になってはじめて必死に御題目にすがり、それで奇跡的に助かって、これが機縁で本物の信心をつかみ、それからは別人のような強信者になるというようなこともありますね。また、もし仮りに助からなかったとしても、本当の信心を決定(けつじょう)することができて、見事な臨終の姿をあらわすということもあるでしょう。
開導聖人は御教歌に仰せです。
○逆縁は御罰(ごばち)あたりて信心の
おこるところを御利益といふ
「逆即是順」の妙理は「ご罰即ご利益」ということにも通底します。
逆縁の凡夫が妙法に反抗し、結果御宝前からのお折伏たるご罰をいただいた。それで終ってしまえばご罰も単なるご罰で終わってしまう(いや、そのままだと更に悪い方向に進む)けれど、ご罰によって本人が自らの誤りに気付き、懺悔(さんげ)・改良して本当の信心を起こすことができれば、そのご罰は単なるご罰ではなく、そのままご利益に転じるわけです。これは、世法の上でもよく分ることです。例えば何か失敗をしたときのことを考えてください。学生が模擬試験で失敗した。それは失敗には違いないけれど、その失敗をただ悔やんでいるのではなく、失敗によって自分の弱点に気付き、反省して努力精進した結果、大事な本番では成功した、となれば先の失敗がそのまま成功の基(もとい)だったことになります。
なお付言すれば、「罰」というのは決してみ仏が私共を憎いと思って当てられるものではありません。「罰が当たる」、「罰を当てられた」などと申しはいたしますが、実のところ凡夫がみ教えに背き、勝手に誤った道を進むから、自身で苦境に陥(おちい)るのです。
御教歌にも仰せです。
○うかうかとする故どぶへはまる也
罰は仏がおあてなさらぬ
さらに次のような御教歌もございます。
題・折伏は御慈悲の最極(さいごく)
○罰といふ御(おん)折伏のなかりせば
われらに信は起(おこ)らざらまし
(十巻抄第三・如説抄拝見 完・扇全14巻416頁)
同じ「ご罰」でも受け止め方で実に180度違ってきます。叱られたり、注意されたりするのは誰しも歓迎し難いものですが、よくないことをしている、誤った道を進んでいるのに、注意も忠告もしてもらえないよりは、忠告してもらった方が有難いはずです。
「ご罰」はいわばみ仏・御宝前からの有難い忠告・折伏なのです。「ご罰」は「折伏」であり、「折伏は慈悲の最極」だと受けとめさせていただくことができれば、「ご罰即ご利益」となるのです。
世法の商業活動などでもこれは申せます。例えば、従来は単なる産業廃棄物として捨てられ、そのことが企業の不利益となり重荷になっていた物が、視点を変えて見ると、同じ物が大いに価値のある物として生まれかわり、利潤をも生み出すことができるというようなことはいくらでもあります。卑近な物では生ゴミもそうです。生ゴミを生ゴミとしてしか見なければ、回収、焼却、二酸化炭素やダイオキシンの発生など全てがマイナスへばかり向うのですが、これを微生物等で処理すれば却って価値のある有機肥料になって、すべてがプラスに転じますね。ゴミが有用な資源になるのですから。
法華経の「逆即是順」の妙理は、「ご罰即ご利益」はもとより、総じてダメだと棄(す)てられ、否定され、マイナス評価しか与えられなかったものを、活かし、肯定し、さらにはプラスの評価へと逆転せしめる、いわば「発想の転換」・「逆転の発想」を促すものなのです。
「妙とは蘇生(そせい)の義なり」(法華題目抄・昭定402頁)とは、実に言い得て妙だと存じます。
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