―「忍難弘経(にんなんぐきょう)」を覚悟の受持(じゅじ)を―
○「提婆達多(だいばだった)こそ善知識(ぜんちしき)」
前回は、「逆縁正意(ぎゃくえんしょうい)と逆即是順(ぎゃくそくぜじゅん)」(2)―逆即是順・ご罰(ばち)即ご利益(りやく)―のテーマで、次のようなことを申しました。
「逆縁」がそのまま「順縁」になる「逆即是順」の理は、いわば転換・逆転の妙理であって、それが認められ説かれるのは、円融(えんゆう)・円満の最高の教え(円教[えんぎょう])である法華経なればこそのことであること。だからこそ釈尊に敵対し、殺害しようとまでした極悪人の提婆達多(だいばだった)でさえ成仏の授記(じゅき)を得られたのである。そしてこのことは、実は提婆に等しい罪根甚重(ざいこんじんじゅう)・定業堕獄(じょうごうだごく)の荒凡夫(あらぼんぶ)たる私共末法の衆生も、妙法の受持信唱によってこそ定業を能く転じて成仏の果報にあずかることができるということを示してくださっているのだ、ということなのです。また法華経の中に示された「逆即是順」の姿の例として「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬(たとえ)」(信解品)や「良医病子(ろういびょうし)の譬(たとえ)」(如来寿量品)の父と子の関係(仏と末法の衆生の関係)―反発・反抗(逆縁)を通じ、それが順縁に転じていく姿―も紹介させていただき、同じ妙理は「ご罰」がそのまま「ご利益」に転じる「ご罰即ご利益」の理法にも通底していることにも触れ、次のように結びました。
〈法華経の「逆即是順」の妙理は「ご罰即ご利益」はもとより、総じてダメだと棄(す)てられ、否定され、マイナス評価しか与えられなかったものを、活かし、肯定し、さらにはプラスの評価へと逆転せしめる、いわば「発想の転換」・「逆転の発想」を促すものなのです。「妙とは蘇生(そせい)の義なり」(法華題目抄・昭定402頁)とは、実に言い得て妙だと存じます〉。
こうした「逆を順へ」、「悪を善へ」、「罰をご利益へ」と転換せしめて受けとめていく積極的な姿勢や発想のあり方は、法華経の「善知識(ぜんちしき)」の把え方でもよくわかります。
「善知識」(ぜんぢしきとも)は、悪知識の対語で、単に「知識」ともいい、「善友(ぜんぬ)」「勝友(しょうゆう)」等とも申します。①正法を説き、人をして仏道に入らしめ、成仏へと導く人、②仏道に縁を結ばしめる人のことを意味する語です。いわば仏道における「よい先生」「指導者」のことです。
法華経には次のようにあります。
「爾(そ)の時の王とは則(すなわ)ち我が身是れなり。時の仙人(せんにん)とは今の提婆達多是(こ)れなり。提婆達多が善知識に由(よ)るが故に、我をして[中略]具足(ぐそく)せしめたり。等正覚(とうしょうがく)を成(じょう)じて広く衆生を度(ど)すること、皆(みな)提婆達多が善知識に因(よ)るが故なり」
(提婆達多品第12・開結346頁)
釈尊が前世に王であったとき、妙法を頂戴するために師として仕えた阿私仙人(あしせんにん)こそが提婆達多の前世の姿だったのです。その阿私仙が今は提婆と生まれ、釈尊に敵対し、迫害を加えているわけですが、「実は提婆達多こそが私の善き師であり、彼のおかげで私は成道して仏となることができたのである。さらには私がこうして広く衆生を済度しているのも、彼が善知識となってくれたおかげなのだ」と仰せなのです。この阿私仙に対して王が仕える様について経文には「法の為の故に精勤(しょうごん)し給侍(きゅうじ)して」、「情(こころ)に妙法を存(ぞん)ぜるが故に、身心懈倦(しんじんけけん)なかりき。普(あまねく)く諸(もろもろ)の衆生の為に大法を勤求(ごんぐ)して、亦(また)己(おの)が身(み)及び五欲(ごよく)の楽(らく)の為にせず。故(かるがゆえ)に大国(だいこく)の王と為(な)って勤求して此(こ)の法を獲(え)て遂(つい)に成仏を得ることを致せり」(開結346頁)等とあります。
王が妙法を勤求し、精勤給侍する姿については、このシリーズの⑦の「参詣の大事(3)―給仕について―」で、『身延山御書』(昭定1912頁)の御文も頂きながら、やや詳しく触れておりますのでご参照ください。なお「精勤」とか「勤求」の語も、後に触れる「精進」や「憶持不忘」とも関連がありますので、少しだけ心に留めておいてください。
日蓮聖人は次の如く仰せです。
〈相模守(さがみのかみ)殿こそ善知識よ。平左衛門(へいのさえもん)こそ提婆達多よ。(乃至)摩訶止観第五に云く「行解(ぎょうげ)既(すで)に勤(つと)めぬれば三障四魔(さんしょうしま)紛然(ふんぜん)として競(きそ)ひ起(おこ)る」文。(乃至)釈迦如来の御(おん)ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに人をよくなすものは、かたうど(方人)よりも強敵(ごうてき)が人をばよくなしけるなり〉
(種種御振舞御書・昭定971頁)
第8代執権(しっけん)・北条時宗(ときむね)[相模守]こそが、日蓮にとっては善智識である。また平左衛門尉頼綱(へいのさえもんじょうよりつな)こそが、日蓮にとっては釈尊における提婆達多の如き存在(つまり善智識)である。天台の『摩訶止観』にも、信行に精進し、信心増進すれば、必ず様々な怨嫉迫害(おんしつはくがい)が競うようにむらがり起こる、とあるのもそのような意でいただかねばならない。釈尊のためには提婆達多こそが第一の善知識であった。今末法の世相を見ても、真実に人を成長せしめるのは、その人の味方よりも、その人にとっての強敵・ライバルなのである、との意です。
北条時宗は、日蓮聖人当時の鎌倉幕府の政権担当者として、お祖師様とその教団に弾圧・迫害を加えた最高責任者ともいうべき立場にあった人ですし、平左衛門尉頼綱は、竜の口の法難をはじめ、直接弾圧を指揮した張本人です。でも、こうした迫害を加えた大敵ともいうべき人々こそが、聖人にとっては善智識であり、自分を鍛え、信心を増進せしめ、成仏と導いてくれた人なのだと仰せなのです。
常識的には、それこそが善知識・善友だと思われる自分の身内・味方である人よりも、一見「悪知識」としか思えない敵対・迫害する人の方が、実は自身にとっては善知識なのだという受けとめ方も、まさしく逆転の発想であり、ここにも法華経の説く「逆即是順」の妙理の具体的な姿と、その受けとめ方、頂き方が如実に示されていると存じます。
それでなくとも末法のお互い凡夫は、元来が易(やす)きに流れやすく、「善師をば遠離(おんり)し、悪師には親近(しんごん)す」(如説抄第1段)る傾向が顕著です。だからこそお役中は、願わくはこのみ教えを自身に学ばせていただき、さらに一歩を進めて、むしろ敵対する人、逆らう人、また自身にとっての逆境をこそ、いわば善知識として頂戴していただきたいのです。
ただ注意してほしいのは、いわゆる独善に陥らないことです。自身にとっての逆境や敵対・反発のすべてが自身の正しさの証明だとの思い込みは禁物です。やはり一方で謙虚な心を大切にしなければなりません。凡夫が自分の我見(がけん)に基づいて行動すれば、それは当然反発を招きます。もし自身が誤っていて、その為に周囲の反発をひき起こしているのだとしたら、その批判は謙虚に受け止め、自身が改良しなくてはならないのは当然です。にもかかわらず、自身は常に正しく、相手が誤っていると思い込み、その批判が即「善智識」であり、いわば「法難」だから、これに屈せずさらに頑張ろう、などと考え、反省するどころか、一層発奮されたりするのは、これは周囲にとって実に迷惑な話です。
釈尊や日蓮聖人における「善知識」のいただき方は、あくまでも正法たる法華経の教え、妙法の信心に随順しつつ、「自己反省」を忘れないあり方の中でのものだということを忘れてはならないのです。
我見をまじえた勝手で極端な考えを、あたかも絶対の正義のようにふりかざす行為が、ややもすると「原理主義」に同ずる危険性を有することについては、このシリーズの㉛「謗法を戒める―信仰の純正化(3)―原理主義に陥らぬよう―」で記した通りです。
「憶持不忘(おくじふもう)」等については次回で記します。
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