㊲育成の大事
2016年3月14日(月)
 

 

―育成に「手入れ」の感覚・観点を―

 

○「佛立菩薩を増やそう」のスローガンで

 

前回まで2回にわたって、「『憶持不忘(おくじふもう)』と『勇猛精進(ゆみょうしょうじん)』」のテーマで、日蓮聖人の「善知識(ぜんちしき)」の把(とら)え方や、当宗の「受持(じゅじ)」(憶持不忘)が、難に値(あ)うことを覚悟しての受持であり、そのように持(たも)ち難い[此経難持(しきょうなんじ)]にもかかわらず、不退転で忍難弘経(にんなんぐきょう)に励ませていただくところに「勇猛精進」の真骨頂があることを、『開目抄』や『佐渡御書』、そして『如説修行抄』の御文をいただきながら拝見いたしました。そして開導聖人の御教歌・御指南によりつつ、「憶持不忘」と「勇猛精進」を現代のお互いに即していえば、「おのが心の敵(かたき)」である「心内の三類」[貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)]の三毒(さんどく)や疑迷(ぎめい)・不信・懈怠等の謗法)に打ち克ち、信心を忘れぬように信行に勤(いそし)ませていただくことが、いわば「せめてものいただき方」ではないか、と申しあげました。

 なお、「憶持不忘」(受持)については次のような御指南もありますので紹介させていただきます。

「信心起(おこ)りて持(たも)ち奉る時は、唱へ死(じに)と思ひ定むるなり。持つとは暫(しばら)くも心にわすれずあるを云(いう)也。忘るゝ間なきを持つと申すなり。(乃至)忘るゝ間なくば懈怠起(おこ)らず、悪念おこらず、悪友にさそはれず。(乃至)持つは、うち任せ奉る也。故に忘れだにせずば時々(じじ)御守護也」 

(御抄教拝見二・扇全11189頁)

 

さて、今回は「育成」がテーマです。このテーマに関連するものとしては、このシリーズの⑱(平成156月号)「法燈相続の大事(1)」―「あとつぎづくり」と「信教の自由」―で、いわゆる法燈相続を念頭に置いて記しており、また③(平成141月号)の「不軽菩薩の心をいただく」(2)―「相手に対する真の尊敬」と「自ら求め続ける心」を大切に―も関係します。併せてご覧いただけたらと存じます。当然重なる部分もあるわけですが、できるだけ重複は避けたいと存じます。

 

さて本年(平成17)は「佛立開講150年」の奉賛ご奉公も第三年度、ご正当の前年にあたり、「本山記念参詣」(今年は7布教区)も始まります。

 すでにご承知のごとく、宗門は目下、ご開講の本旨を体し、「御講から弘まる」をメインテーマに、「弘まる御講」となるべく宗門を挙げて“御講の改良実践”に努めているところですが、新年の『年頭のことば』で講有上人は次のごとく仰せです。

〈佛立信仰の原点は「祈り」であり、(中略)その祈りは「菩薩の祈り」「ご弘通の祈り」でなければなりません。(中略)

 佛立開講150年奉賛ご奉公の「御講の改良実践」も、「佛立菩薩を増やそう」とのご奉公も、すべて「口唱の改良」にかかっていることを肝銘(かんめい)し、(中略)〉云々。

 

 そして次の開導聖人の御指南を頂かれます。

「妙法五字は日蓮が神(たまし)ひと仰(おおせ)られたり。我等御弟子旦那等(おんでしだんなとう)此(この)菩薩行の御流(おんながれ)をくまん者、此要法五字(このようぼうごじ)を弘めんが為に身(み)を労(ろう)し、心を尽(つく)して、唱死(となえじに)にしぬるを、真実の御弟子旦那の見識(けんしき)と思ひ定むべき也」

(暁鶏論〈ぎょうけいろん〉上・扇全1195頁)

 

 因(ちな)みに今年の宗門の「弘通方針」では「佛立菩薩を増やそう」をスローガンに掲げつつ次のように記されています。

 

〈「御講から弘まる」というメインテーマには、“御講の改良実践によって弘まる御講になり、それによって御法の弘め手が生れれば自(おの)ずとご弘通は進捗(しんちょく)する”という心がこめられています。(中略)

“御講の改良実践”については①「参詣者を増やす」こと、そして、目ざすべき“ご弘通の成果”とは②「教化」(新しい教化親を増やす運動)と、③「育成」(新しい役中を生み、育てる運動)そして④「法燈相続」(法燈相続を確実にする運動)の実(じつ)をあげることと申せましょう。〉

 

 また「宗務方針」でも山内宗務総長が、〔2〕の「弘通活動について」の中で、〈御講の改良実践を通じて、参詣者を増やし、新しい教化親を増やし、新しい役中を生み育て、法燈相続を確実にするご奉公を展開してまいります〉と記し、また〔3〕の「役中後継者養成と青少年の育成対策」でも、〈後継役中の養成と青少年の法燈相続は宗内の永遠の課題ですが、何としてでも実質的成果が上がるよう、リーダー研修会等を実施して促進をはかります〉と記し、さらに〔4〕では「教務の研修と意識改革」の大切さにも言及されているのです。

 

 そもそも「教化」の語は「法華経」の中でも50回も使用されているという一事によってその重要さがわかります。その意は「教育感化(きょういくかんか)」「教導転化(きょうどうてんげ)」等だとされますから、本来の意に「教え育て、感化せしめる」「教え導くことによって人格を転じ変化せしめる」という意味があります。

 

 特に「従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん)第15」には「教化」はもとより「化」「化度(けど)」の語が多出し、「教化衆生」(開結397頁)「教化令発心(りょうほっしん)」(同413頁)、「教化示導(じどう)」(同410頁)等と頻出します。仏の真実の教法たる妙法の教えによって衆生を感化し、発心せしめ、菩提・成仏へと導くことを指す語であるわけです。それはまさしく凡夫たる衆生を、凡夫ながらに菩薩へと転化せしめる営為に他なりません。つまり、妙法の受持信唱によって「凡夫を菩薩へと生まれかわらしめる」、これが「教化」の中身に他ならないわけです。このように、「教化」と「育成」は本来が一体不可分のものなのです。したがって「佛立菩薩を増やそう」とのスローガンは、当然ながら、教化と育成の両意を含むものであり、育成も重んじる本来の教化(菩薩行)の大切さを改めて提唱しているものだとも申せます。当宗の教えの内容はつまるところ「妙法の自唱他勧による菩薩行」であり、その目的は「菩薩行による自他の成仏、皆帰妙法・浄仏国土の顕現」です。そしてこのことは『妙講一座』の「五悔(ごげ)の要文(ようもん)」が「凡夫が菩薩(如来使)へと生まれかわる姿」を示すものであり(シリーズ⑬「懺悔[さんげ]の大事」(1)参照)、「宗風」が「弘通・教化に資し、浄仏国土顕現を期せんとする佛立信者のあるべき姿、佛立菩薩像を規範として宣明している」(シリーズ②参照)こととも通底します。

「育成」は、こうした「教化・菩薩行」の本意をよく踏まえ、これにそったあり方でなくてはならないわけです。

 

○「育成」に「手入れ」の感覚・観点を

 

「育成」に関する御教歌・御指南は実に多くあり、また観点・心得等も多岐にわたりますが、ここではまずその代表的なものをいくつか挙げさせていただきます。

 

御教歌

(1)「教弥実位弥下(きょうみじついみげ)」の心で

 題・教弥実位弥下の六字に心をとゞめてこれを案(あん)ずべしと四信五品抄にあるを※「これを案ずべし」は「宝暦版」の文章か?

○奥深くわくる達者も足弱(あしよわ)の

    ためには戻れ法(のり)の山口(やまぐち)

 

 題・四五抄 教弥実位弥下の御(み)こゝろ

○中々にあゆまれぬ子はせなにおひ

    つれてゆくこそおや心なれ

 

(2)甘やかさず厳しく折伏し鍛えよ

 

○愚(おろか)なる親は己(わ)が子をかあいとて

    あまやかすのはにくむ也けり

 

○かあいさに気随(きずい)きまゝにそだておく

    子の身ばかりの不仕合(ふしあわせ)なし

 

○折伏をせずにおくのは無慈悲なり

    せめたればこそ信者とはなれ

 

○よしや子がうらまばうらめおやなれば

    気随気侭(きずいきまま)にそだてぬがおや

 

(3)お世話(手入れ)の大事

 

 題・折伏は慈悲第一

○捨(すて)おかばおのれそだちにわるうなる

    弟子も植木もせは(世話)しだいなり

 

○我宿(わがやど)の捨(すて)そだちなる菊の花

    さかとんぼりにをどりてぞさく

 

○すておきて教える人もあらぬ子の

    遊ぶをみれば悲しかり鳧(けり)

 

開導日扇聖人御指南

○「仏教に随自(ずいじ)・随他(ずいた)の二門あり。随自の時は、人の意(こころ)をかんがみて気入(きにい)り、いひたき事も云(いわ)ぬと云(いう)やうの事をせず。俗に曰(いわく)、づけ/\物いふ也。仏説のまゝを守る也。我(われ)をほめられ、世に用(もち)ひられんとするやうの弱きへつらひ少しもなし。(乃至)いやならおきな。頼んで持(たも)たす法でなし。頼むとならば授くべし。なれども幼稚に教ふることなれば、ことをわけて、おこ(怒)らぬやうに程よく論(ろん)[](さと)すべし。これ大慈大悲也」   

(末法折伏の時也の事・扇全1710頁)

※随自意(ずいじい)…み仏がご自身のご本意に随い真実を説くこと。〔折伏〕

※随他意(ずいたい)…み仏が衆生(他人・相手)の心に合わせ随って説くこと。〔摂受(しょうじゅ)〕

○「持(たも)ち始(はじめ)は小児をそだつるが如し。気随気侭(きずいきまま)をさせぬやう、行儀よく謗法をあらたむべし」    

(講談要義上下・扇全3268頁)

○「当機相応談(とうきそうおうだん) すてそだちの子にかしこきはなし。身を持(も)ちたる者まれ也。(乃至)愚人(ぐにん)をたらし育てにせしは(あやまり)也」 

(鶏鳴暁要弁〈けいめいあかつきようべん〉下・扇全10156頁上欄)

○「当宗は折伏宗也。慈悲の最極(さいごく)也。

師匠はきびしきがよい。たらし随他に育(そだて)たる信者は皆経力(みなきょうりき)をしらず。親の教へは厳重なるが子の為也」 

(和国陀羅尼〈やまとだらに〉・扇全14313頁)

○「物を教へるのには心をしづめてゆる  と教へる事。(乃至)信徒に教へ置(おき)もと思ひて、心のみいら(焦)れすれども、かためて一度(に)教へていくものではなし。故に一口宛(ひとくちあて)、とっくりと合点(がってん)のゆく(まで)教へねば、生教(なまおし)へにては教へぬも同じ事也」    

(名字得分抄(中)・扇全14131頁)

○「楠正成(くすのきまさしげ)の語に、ほめるときには必ずいましめの言(げん)をまぜよ」 

(開化要談(宗)・扇全13368頁)

○「当講内は初心(しょしん)の人をそだつるを第一と心得(こころう)べき也。初心が後心(ごしん)になるもの也。謗法あらばあらく呵責(かしゃく)せず、よくわけのわかるやうに説き示すべし。謗法を見かくし聞(きき)かくしはする事叶(かな)はず。開山(かいさん)曰、謗法人たりとて憎むにあらず。地獄に落(おつ)るをあはれと思ふよりの折伏ならば、只強気(ただつよき)にいひはり、問答ごし(腰)になりて追ひちらすにあらず。其(そ)れ時による事也。もとの慈悲をわするゝ事なかれ」

※「開山」…門祖日隆聖人

(青柳厨子〈せいりゅうずし〉法門抄第二・前書・扇全311頁)

○「されば堅信(けんしん)の行者より、堅信の子を生み出(いだ)す事肝要也」 

(法場必携・扇全8233頁)

○「植木の性(しょう)、その地により、せわやきてかひあるとかひなきと、捨置(すておき)てよくそだつものとそだてにくきと種々(しゅじゅ)也。地も相応不相応あり。植木の性によりて同じやうにはいかぬ。(乃至)植(うえ)かへて付(つ)くまでが大事也。 信者教化も講元(こうもと)組長は植木やの如し。勉強し下(たも)ふべき也」 

(誡勧〈かいかん〉両門・扇全5281頁)

 

 こうして拝見させていただくと、新入の教化子やご信者、法燈相続の対象たる弟子に対しては、根本に慈悲の折伏の心(随自意)を踏まえながらも、親が子に対する親心で、親身になり、また初心者で未熟な相手の能力や性分(機根〈きこん〉)に合わせ、「位弥下の心」(シリーズ⑨⑩)で易しく少しずつ教え導き、育成していくことが大切であることがよくわかります。つまるところ「植木の性によりて同じようにはいかぬ。(乃至)植木やの如し。勉強し下ふべき也」ということです。植木屋は、植木の性分に応じて「世話」をし「手入れ」をして育てるのが仕事です。ところがこの「手入れ」の大切さを見失いつつあるのが現代人なのです。養老孟司(たけし)氏は、そのことを近著の中で次のように言っています。

〈「手入れ」は、自然とつきあうときにだけ必要なのではない。身づくろい、化粧、子育てなど、日常生活のあらゆる場面に関わって、いる。(中略)心の底に「手入れ」という気持ちがあるかどうかで、小さな判断すら変わってくる。「手入れ」とは、まず自然という相手を認めるところから始まる。(中略)自然は予測不能だと述べた。子供の将来を予測することは完全には出来ない〉

〈勿論「手入れ」というのは、だから加減がむずかしい。(中略)相手のおかれている状態を知り、これからどのように変化するのかを、あるていど予測しなければならない。それには対象と頻繁(ひんぱん)に行き来し、相手のようすに合わせて手の加え方を決めていく必要がある。(中略)「手入れ」と「コントロール」は違う〉 

(『いちばん大事なこと』集英社新書100102頁)

 氏の言う「コントロール」は機械的な完全制御のことであり、換言すれば、こちらの思惑通りに相手を型にはめようとすることです。これに対して「手入れ」は、相手の特性を認め、現在の状態を見極め、さらに今後の変化も予測しつつ、しかるべき手を加えていくあり方です。人間も自然の一部ですから、当然そうあるべきだというわけで、この姿勢・観点は開導聖人が仰せの「植木の世話」「植木屋の勉強」と相通ずると存じます。「捨置き」「捨育ち」はいわば「手つかずの自然」「素っぴんの顔」であり、「コントロール」は「人工植林の杉山」や「整形の顔」に、「手入れ」は「里山」や「程よく化粧された顔」に当たるでしょう。「手入れ」を「育成」で申せば、いきなり、無理にこちらの思惑通りの信者の型にはめようとするのではなく、まず相手の資質や能力を認めつつ、その中に眠っている資質(仏性)を啓発し、自覚を促すよう、適切なお世話(手入れ・折伏)をして、次第に佛立信者へ、菩薩へと育ててゆくということになるでしょう。ただしここで注意すべきは、基本に慈悲の折伏心を忘れず、摂受(しょうじゅ)に流されないことです。

 また適切な「手入れ」には、相手の情況の把握が不可欠です。「頻繁な行き来」の大切さはそこにあります。

 さらに付言すれば、育成し、信心をつかませる要諦は「経力・現証」を感得させることです。そのためには「助行」に連れ参詣させることも効果的です。しかし何にせよ、実際に一つひとつ手を取って教えることが基本です。元来が「手入れ」には「努力・辛抱(棒)・根気」が求められるのです。参詣・お給仕・ご有志の仕方はもとより、お塔婆の申し込み方、祈願の仕方等々を、相手に付きそって一つずつ現場で教え導いていくことが大切なのです。「庭訓(ていきん)」というのは「家庭の教訓。躾(しつけ)」の意ですが、元は、孔子が庭を横切ってゆく息子の伯魚(はくぎょ)を呼びとめ、その都度一つずつ訓導していったことに由来する語だとされます(論語・季氏第16の第13段・岩波文庫377頁参照)。ご信者の育成にも、親が子に折りに触れてその都度一つずつ指導・訓育していく「庭訓」の姿勢、現場でまめに教えていくあり方が求められているのです。

 最後に、近代になって作られたとされる諺(ことわざ)を一つ紹介しておきます。いわく

「三つ叱(しか)って五つ褒(ほ)め七つ教えて子は育つ」

『岩波ことわざ辞典』によれば「子供を叱るのは少しにし、多くほめてたくさん教えてやるのがよいということ」とあり、「可愛くば五つ教えて三(み)つほめて 二つしかりて善(よ)き人(ひと)にせよ」等の古歌などの影響もあるようだと付記されています。なお、同辞典の編集に携(たずさ)わった編集部が出した『ことわざの智慧』(岩波新書・別冊7)にはこうあります。

「誰しも叱られるより褒められる方がうれしいにきまっている。うれしければこれからも学んで行こうという気になろう。そういう気持ちを持ち続ける子がよく育たないわけがない。教育の極意というべきである。

 三・五・七という奇数は良い数とされる。叱る、褒める、教えるそれぞれの割合を示しているのだが、厳密な比率をいうものではない。叱るのは褒めるより控えめに、といった程度の指標だろう」     (同書・155頁)

 なお東京工大名誉教授の芳賀綏(はがやすし)氏は近著『日本人らしさの構造―言語文化論講義―』(大修館書店・平成1611月刊)の中で、次のように指摘しています。

〈アジアも含めた諸外国の対人意識・文化が凸(とつ)型であるのに対して日本の文化・対人意識は概して凹(おう)型である。それは「やさしさの対人意識」であって、相手を傷つけたくない、相互依存を前提としている。そしてそれは相手を傷つけないかわりに自分へのいたわりを求める甘えも含んでいる〉(取意。正確には同書40頁以下参)。このように基本的に攻撃型ではなく受容型が日本人の意識・文化の特性だとすれば、相手にもよるでしょうが、実際上の現場での対人的な折伏・育成のあり方もよほど柔軟であることが求められていると申せましょう。

 凹形・受容型で傷つき易い相手に対して、「手入れ」の感覚を取り入れた折伏というのは具体的にはどういうものでしょう。

 例えば相手の誤りを注意する際、「これはどうしたの?あなたほどの人が」といった表現や姿勢はどうでしょう。これなら基本的には相手を認め、その人格を尊重しながらの注意ですから、決定的に傷つけることなく改良・発奮を促すことができそうです。

 

 

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