仏教のススメ

 

―「原理主義」に陥(おちい)らぬよう―

 

 

○進行する静かな大変革

 

 前回と前々回の2回にわたり、「平等と差別(不二と而二)―ジェンダー・フリーに寄せて―」のテーマで記し、仏教の「不二(ふに)と而二(にに)」の観点からの「ジェンダー・フリー」の概念の基本的な説明を試み、「男女共同参画の社会の中での佛立宗のお役中のあり方は?」という視点も、これからのお役中には求められている旨申しあげました。

 

この問題につき付言いたしますと、「時代の風」(平成16年4月11日・毎日新聞朝刊)で、川勝平太氏(国際日本文化研究センター教授)は次のように指摘しています。

 

「(前略)いまや、高等学校への進学率は97%で、ほぼ全員が高校に進学しており、実質的に義務教育と変らない。

 大学(短期大学を含む)への進学率は50%。つまり、高卒の2人に1人が大学に進学している。この高い進学率の背景には女子の進学率の上昇がある。平成期に入ってから16年間、女子の大学進学率の高い年の方が多いのだ。これは現代の日本社会で進行している静かな革命である。というのは、平成元年に18~19歳で大学に入学した人は、現在では34~35歳、言い換えると、18歳から34、35歳までの青年の学歴は男女で差がなく、あと10年すると44、45歳まで、また20年すると54、55歳までがそうなる。つまりこれから20年のうちに、日本の働き盛りの年齢層で男女に学歴差がまったくなくなる(ただし、大学院への進学率は現在10%をこえたが、女子の大学院進学率はまだ男子の半分だ。しかし、確実に女子の大学院進学率も上昇しており、早晩、対等になるだろう)。

 そのことから女性の社会的地位は確実に上がっていくと予想される。

「元始、女性は太陽であった」と平塚らいてうが1911年に雑誌『青鞜(せいとう)』の発刊の辞にかかげて婦人の地位向上の運動をおこして以来、その成果が実り、女性の地位はついに男性と対等になる。日本の社会は、卑弥呼(ひみこ)が女王であった時代を過ぎてからは、男子が圧倒的な優位をしめしてきた。それがくつがえる。2000年来の大変革である。女性にとっては、男女同権に向けた男との戦いにもまして、女性同士の競争が熾烈(しれつ)になるだろう。日本のすみずみにおいて、ますらおぶりの男性的価値から、たおやめぶりの女性的価値が重きをなすようになるだろう。(後略)」

 

「ジェンダー・フリー」も「男女共同参画社会」も、もう現在のものなのだということです。「意識変革とその実践の努力はお役中の急務だ」と申さねばなりません。

 

 さて今回は「謗法を戒める…信仰の純正化」というテーマです。

 

このテーマに深く関連するものとして、このシリーズの「懺悔(さんげ)の大事」(1)(2)(平成15年1、2月号、シリーズの⑬⑭及びそれをまとめ補足した⑮)があります。例えば⑭では次のように記しました。

 

「まず懺悔すべきは妙法不信(謗法)の罪です。お互いの命の根源ともいうべき妙法を信ぜず、誤った生を繰り返す事で重ねた罪(根本罪障)を懺悔するのです。(中略)

 お互いは方角を誤った旅人、あるいは脱線した列車にも譬えられます。進んでいるつもりが、目的地からは離れるばかり、いや前進すらできず無駄な労力を費やしているのです。一刻も早くそれに気付き、方角を正し、レールを復旧して乗せ直さねばなりません。根本さえ正せば、ずっと楽に本来の目的地に到達できるのです。」

 

「謗法」というのは「真実の大法(法華経本門八品に顕され、久遠のみ仏から上行菩薩に付属された御題目・妙法)を謗(そし)ること」つまり「妙法不信」ということに他なりません。そしてこの「不信」(違背)というのは必ずしも積極的に誹謗(ひぼう)し敵対することだけを意味するものではありません。消極的に「信じない」ことも、さらには無関心で妙法の存在そのものも知らず、結果的に妙法に背いた生き方をしている場合も含みます。言い換えれば、積極的に妙法を信じ行じていない限りすべて「不信」であり、「謗法」なのです。

 

私どもが「無始已来謗法罪障消滅(むしいらいほうぼうざいしょうしょうめつ)」と『無始已来の御文』で言上申しあげる「謗法」というのがまさしく謗法の根源であり、根本なのです。過去遠々劫来(おんのんごうらい)、無数の生を繰り返すなかで、意識的にせよ、無意識的にせよ、今日(こんにち)まで妙法を信ぜず行ぜず、誤った生を繰り返し、その為に罪(謗法罪)とその罪による成仏の障(さわ)り(罪障)とを積み重ねて来た、この謗法による罪障を消滅させていただけるよう、只今からは妙法を受持信唱し、成仏の果報をいただくまで(仏身に至〈いたる〉まで)もう決してはなしません(持奉〈たもちたてまつ〉る)、と言上申しあげるのですから、この御文こそ根本の謗法と罪障を懺悔し、改良をお誓いする御文なのです。

 

○謗法を戒める―信仰(信心)の純正化

 

 謗法を改めるということは、先にも記したように「信心の角度を正す」「修正する」ということです。従来の誤った方角、角度を妙法に正対するよう改めると同時に、今後もその角度がズレたりすることのないよう、常に注意し続けていくことが大切なのです。「指南」の原意はコンパス、羅針盤のことだということも⑮で申しあげた通りです。角度は、ほんの1度、1分、1秒でも誤れば、遠い先では道を大きくはずれることになります。「謗法はいわば信心の角度違いなのだから、たとえわずかでも誤れば目的地(成仏)には到達できない。よくよく注意をするように」というのはこのことです。とにかく「方角を正し、まっすぐに進み続けること」が大事なわけです。

 

 当宗の「宗風」第四号(決定〈けつじょう〉)に「……悪世末法(まっぽう)の求法(ぐほう)の道に迷惑(めいわく)せぬよう用心し、妙法に一心帰依(いっしんきえ)して……決定無有疑(けつじょうむうぎ)の素懐(そかい)に住(じゅう)する」と明定(めいてい)とされているのも、こうした観点からいただくこともできます。「求法の道に迷惑せぬ」というのはまさしく「成仏を期して、妙法の正しい信心の道を誤り迷うことのないよう」ということで、その為にはフラフラせず「妙法に一心帰依」せよと示されるわけで、これは当然ながら、第三号(止悪〈しあく〉)の「習損(ならいそん)じを戒め、謗法を折伏する」ことと一体となっています。

 

 ここで開導日扇聖人の御指南をいくつか頂戴しておきます。

 

①「法に背(そむく)を謗と云(いう)也」(上欄)

 「祖師の御(み)をしへにまかすか、我が迷ひのおもはくにまかすか。これによりて信不信、賞罰顕然(しょうばつけんねん)也。」
(開化要談・教・扇全1423頁)

 

②「謗法は障(さわり)也。

 (乃至)謗法あらば信者たりとも御利生(ごりしょう)顕(あらわ)れず。(乃至)御題目を願ふ外(ほか)に余所(よお)を頼むを謗法と云也。」

(本門正機信入抄・扇全11217頁)

 

③「謗法となる筋(すじ)と信心の用心とを常に御(おん)心がけ候て(乃至)成仏の叶(かな)ひがたきは只これ謗法にあり。謗法だにまぬがれたらば、成仏は掌(たな)ごゝろにあり。」

       (御書抄・全・扇全15332頁)

 

○諸(もろもろ)の悪の中には謗(ぼう)法華経第一の極悪重罪也。

○諸善(しょぜん)の中には題目信唱第一の極善(ごくぜん)大福也と云々。」 

(末法折伏要学抄・扇全9115頁)

 


以上要するに当宗においては、ただ上行所伝の妙法の受持信唱こそが信行の根本なのであり、妙法の一向口唱、一心帰依が肝心なのであって、これに反するもの、不純なものはすべて「謗法」となり、そうなると現証の利益はもとより、成仏の果報など到底いただけないことになるのです。「謗法を戒める」ということは、そういう意味で「信仰の純正化」を意味するわけです。「妙法不信」という根本的な謗法がもととなって、懈怠(けだい)をはじめ信行ご奉公の具体的なありようにつき、さまざまな謗法が生じてきます。

 


次回には、謗法の中身についてもう少し具体的に記すると同時に、いわゆる「原理主義」との対比を通して、誤って原理主義に陥らないための用心についても触れたいと存じます。

2015年3月27日(金)
 

 

 ─「ジェンダー・フリー」に寄せて─


○「男女共同参画」とは

 前回は「平等と差別」という問題について仏教でいう「不二(ふに)と而二(にに)」という視点からの見方を紹介しつつ、この観点からいわゆる「ジェンダー・フリー」という概念の基本的な説明を試みました。

 

 もっとも、前回も申したように、この問題は、私自身随分至らない点が多いわけですから、「ともに入門」ということで、一緒に勉強し、考えてまいりたいと存じます。

「不二」と「而二」についてもう一度申せば、「不二」は「同一性」であり、「而二」は「相違」「個別性」「不同性」を意味します。それが「而二不二」と熟字すれば「個性はありながらも本質的には同一である」(同一性の重視)という意になり、反対に「不二而二」となると「本質的には同じでありながら現実的・具体的には個性的・個別的である」(個別性の重視)という意味になります。これを男女でいえば「而二不二」は「男と女は性別は異なるけれど人間という意味では同じだ」となり、「不二而二」だと「人間という点で男も女も違いがないが、性という点から見れば男女の性別がある」ということになります。それは同性であっても、何であっても同一性と個別性はあるわけですから、あらゆるレベルや範疇(はんちゅう)についていえることです。特に生物や自然(天然)のものについていえば全く同じ個体は一つとして存在しません。木でも虫でも、たとえ同じ種であってもすべて個体差があります。それが「而二」ということです。

 

 ところが、人間は、歴史的・文化的・心理的に、例えば男はこうあるもので、女はこうあるべきだという決めつけや典型・モデルがあって、本来なら同一・平等であるべき部分までそのように考えず誤った差別をしている場合もあれば、反対に、相違に基づいて区別すべきところを同一視してしまうこともあるわけです。

 

 ここで「ジェンダー・フリー」や「男女共同参画」に関連して、最近問題になっている卑近な例をいくつか挙げてみましょう。

 

①大相撲春場所(大阪場所)の優勝者に対し大阪府知事が土俵上で「知事賞」を授与してきた慣例があるが、太田知事になってから「女性である」ことが、大相撲のしきたり(神事としての伝統で、女人が土俵に入ることを禁制する)に触れるとして、土俵上での授与を相撲協会側が拒否してきたことが物議をかもしています。

 特に今年(平成16年)は、3月14日の初日を控えた12日、市民グループの過去3回にわたる要請を受けた府の監査委員会が「知事が女性であることを理由に土俵上での授与を拒んでいるにも拘わらず、この賞のために公金50万円を支出するのは、男女共同参画社会のあり方としては適切でない」旨、府側に勧告したことが報道されました。

 

②某自治体のパンフレットのイラストで、女の人の乗っている自転車に前カゴをつけたところ、それが「買い物は“女の仕事”だと決め付けているような印象を与える」としてボツになった例もあります。

 

③先頃の関西テレビ『とくダネ!』では、日本人男性の約3割が、洋式トイレでの小用を座ってしているというアンケート結果が紹介されました。因みに、ほとんどの外国人男性は「立って」しており、日本の調査結果に驚いています。「立ってするとしぶきでトイレを汚すから、座って!」という妻の要請によるというのが一番の理由だそうですが、「男は立って、女は座ってするのが当然だ」と、何の疑いもなく思い込んできた筆者にはショッキングな結果でした。2人の息子にもそう教えてきたのですが、これも一種の決め付けであり、「ジェンダー・バイアス」なのでしょうか。確かに洋式トイレは、構造的には座用を主に作られているようです。しかし、これこそ性別による体の器官の相違にも関係します。できるだけ汚さぬよう注意をし、汚した場合は自分でキレイにするということで、折り合いは付けられないかと存じます。

 

①の神事等における「女人禁制」は、主として女人に対する不浄観等に根ざす場合が多く、これは山岳信仰や神社・仏閣・社域・寺域等における「結界」等にも関係している場合があります。ただし、大峯山などは女人禁制であるのに対し、熊野は生理中の女性でも入山できますから、いろいろです。祭りでもそうですね。古来の伝統もあり、そう簡単には参りませんが、どちらかといえば開放されていく傾向にあるかと存じます。なお、当宗には、この種の「禁制」は全くありません。

 

②の前カゴ付きの自転車は、そんなに神経質になる必要があるのかと存じます。自治体のパンフだから神経質になっているのでしょう。因みに筆者の自転車は、前にも後部にもカゴが付いていて、それが重宝です。ただ関西弁の「ママチャリ」[買物自転車]という呼称などは、使い方によってはやはり問題になりそうです。

 

○ご奉公の中での役目の分担・協力にも「男女共同参画」の観点を

 

 ご奉公の中でまず問題になるのは言葉遣(づか)いでしょう。人前で、何の抵抗もなく自然に「妻」と言えず、ついつい「家内」などと言っている私などは既に問題ありです。でも女性も自分の夫のことを「主人」とか「檀那」とか呼んでいる方は結構多いようです。でも、それでお互いに問題がなければ、まずはよしとしていいのではないかと存じます。あまり神経質になると却(かえ)ってギクシャクしてしまいますからね。お祖師さまが「や(箭)のはしる事は弓のちから、くも(雲)のゆくことはりう(竜)のちから、をとこ(男)のしわざは女のちからなり」(富木尼御前・昭定1147頁)と仰せのように、女性としては「夫のあり方は、つまるところ妻である私次第だ」くらいに思っていたらいいのだと存じます。実際のところ多分にその通りだとも思われますから。

 

 ただ役務やご奉公においては、今後はやはり「男女共同参画」はさらに進めるべきかと存じます。現在でもすでに組(部)長や教区長をはじめ、各種役中さんの半分前後は女性がなさっておいでです。もっともこれが事務局の幹部や責任役員等になると急に数が減少し、さらに宗門レベルになれば責任役員は男性ばかりであり、宗会議員でも女性は現在(当時)1名のみ(58名中)です。こういう点はやはり少々気になります。お教務について申せば、女性の数は極く少なく、国内の寺院で女性の住職は現在ありませんし、夫のある女性教務もありません。念のため申しておきますが、これは結果的に現状がそうなのであって、制度上は何の差別もありません。でも実際には、当宗では若い女性が剃髪得度する例はまずありません。やはり種々の困難があるのです。剃髪や結婚はもとより、教務さんの学校等の受け入れ態勢も、女性にとっては男性以上の困難が伴うようです。これも将来問題になる可能性は無きにしもあらずです。

 

 次に各種のご奉公の現場について考えてみます。

 

①最初に御講席に関連した問題です。

 まず自宅で御講を奉修させていただく際、席主が夫の名であれ、妻の名であれ、準備等、本来分担協力してさせていただくのが理想ですが、実際には一方に任せっ切りのこともあります。こういったところから少しずつでも協力していけたらと存じます。また参詣者の席などについても役目柄というのは別として、とにかく男性は前、女性はその後という風に決め付けるのはどうでしょう。一般世間の慣習も大きく影響していますから、急にどうこうはできにくいものでしょうが、それが当然という感覚は(特に男性の)、今後は改めていく必要があります。「女だてらに」とか「女子供が」といった感覚や言葉も要注意です。

 

②次に、具体的な各種のご奉公は、例えば設営や撤収などの力を要するご奉公なら、やはり男子青年会や壮年会が中心になるでしょうし、ご供養の調製なら力を要するところは男性が、細かな作業は女性が中心となるという分担・協同が大切になるでしょう。それらは自然にそうなっているはずです。男女の性別によって、肉体的な性差は当然あるのですから、それに基づく相違があるのは当然です。でも、性別とは関係のない作業については、共同参画すべきであり、双方の見方や意見が出され、それを共に考えた方がよい企画や結果が期待できることが多々あろうと存じます。

 

 同じ人間であり、同じ佛立信者であっても、男女をはじめ種々の共通点や相違点があるのですから、要はそれをちゃんと認識しつつよりよい関係やあり方を築きあげていく努力が、私たちにも求められているのです。

「男女共同参画の社会の中での佛立宗のお役中のあり方は?」という視点も、これからのお役中には求められていると存じます。

 

 

 ─「ジェンダー・フリー」に寄せて─

 

 

 

○「男女共同参画」とは

 

 

 

 前回は「平等と差別」という問題について仏教でいう「不二(ふに)と而二(にに)」という視点からの見方を紹介しつつ、この観点からいわゆる「ジェンダー・フリー」という概念の基本的な説明を試みました。

 

 

 

 もっとも、前回も申したように、この問題は、私自身随分至らない点が多いわけですから、「ともに入門」ということで、一緒に勉強し、考えてまいりたいと存じます。

 

「不二」と「而二」についてもう一度申せば、「不二」は「同一性」であり、「而二」は「相違」「個別性」「不同性」を意味します。それが「而二不二」と熟字すれば「個性はありながらも本質的には同一である」(同一性の重視)という意になり、反対に「不二而二」となると「本質的には同じでありながら現実的・具体的には個性的・個別的である」(個別性の重視)という意味になります。これを男女でいえば「而二不二」は「男と女は性別は異なるけれど人間という意味では同じだ」となり、「不二而二」だと「人間という点で男も女も違いがないが、性という点から見れば男女の性別がある」ということになります。それは同性であっても、何であっても同一性と個別性はあるわけですから、あらゆるレベルや範疇(はんちゅう)についていえることです。特に生物や自然(天然)のものについていえば全く同じ個体は一つとして存在しません。木でも虫でも、たとえ同じ種であってもすべて個体差があります。それが「而二」ということです。

 

 

 

 ところが、人間は、歴史的・文化的・心理的に、例えば男はこうあるもので、女はこうあるべきだという決めつけや典型・モデルがあって、本来なら同一・平等であるべき部分までそのように考えず誤った差別をしている場合もあれば、反対に、相違に基づいて区別すべきところを同一視してしまうこともあるわけです。

 

 

 

 ここで「ジェンダー・フリー」や「男女共同参画」に関連して、最近問題になっている卑近な例をいくつか挙げてみましょう。

 

 

 

①大相撲春場所(大阪場所)の優勝者に対し大阪府知事が土俵上で「知事賞」を授与してきた慣例があるが、太田知事になってから「女性である」ことが、大相撲のしきたり(神事としての伝統で、女人が土俵に入ることを禁制する)に触れるとして、土俵上での授与を相撲協会側が拒否してきたことが物議をかもしています。

 

 特に今年(平成16年)は、3月14日の初日を控えた12日、市民グループの過去3回にわたる要請を受けた府の監査委員会が「知事が女性であることを理由に土俵上での授与を拒んでいるにも拘わらず、この賞のために公金50万円を支出するのは、男女共同参画社会のあり方としては適切でない」旨、府側に勧告したことが報道されました。

 

 

 

②某自治体のパンフレットのイラストで、女の人の乗っている自転車に前カゴをつけたところ、それが「買い物は“女の仕事”だと決め付けているような印象を与える」としてボツになった例もあります。

 

 

 

③先頃の関西テレビ『とくダネ!』では、日本人男性の約3割が、洋式トイレでの小用を座ってしているというアンケート結果が紹介されました。因みに、ほとんどの外国人男性は「立って」しており、日本の調査結果に驚いています。「立ってするとしぶきでトイレを汚すから、座って!」という妻の要請によるというのが一番の理由だそうですが、「男は立って、女は座ってするのが当然だ」と、何の疑いもなく思い込んできた筆者にはショッキングな結果でした。2人の息子にもそう教えてきたのですが、これも一種の決め付けであり、「ジェンダー・バイアス」なのでしょうか。確かに洋式トイレは、構造的には座用を主に作られているようです。しかし、これこそ性別による体の器官の相違にも関係します。できるだけ汚さぬよう注意をし、汚した場合は自分でキレイにするということで、折り合いは付けられないかと存じます。

 

 

 

①の神事等における「女人禁制」は、主として女人に対する不浄観等に根ざす場合が多く、これは山岳信仰や神社・仏閣・社域・寺域等における「結界」等にも関係している場合があります。ただし、大峯山などは女人禁制であるのに対し、熊野は生理中の女性でも入山できますから、いろいろです。祭りでもそうですね。古来の伝統もあり、そう簡単には参りませんが、どちらかといえば開放されていく傾向にあるかと存じます。なお、当宗には、この種の「禁制」は全くありません。

 

 

 

②の前カゴ付きの自転車は、そんなに神経質になる必要があるのかと存じます。自治体のパンフだから神経質になっているのでしょう。因みに筆者の自転車は、前にも後部にもカゴが付いていて、それが重宝です。ただ関西弁の「ママチャリ」[買物自転車]という呼称などは、使い方によってはやはり問題になりそうです。

 

 

 

○ご奉公の中での役目の分担・協力にも「男女共同参画」の観点を

 

 

 

 ご奉公の中でまず問題になるのは言葉遣(づか)いでしょう。人前で、何の抵抗もなく自然に「妻」と言えず、ついつい「家内」などと言っている私などは既に問題ありです。でも女性も自分の夫のことを「主人」とか「檀那」とか呼んでいる方は結構多いようです。でも、それでお互いに問題がなければ、まずはよしとしていいのではないかと存じます。あまり神経質になると却(かえ)ってギクシャクしてしまいますからね。お祖師さまが「や(箭)のはしる事は弓のちから、くも(雲)のゆくことはりう(竜)のちから、をとこ(男)のしわざは女のちからなり」(富木尼御前・昭定1147頁)と仰せのように、女性としては「夫のあり方は、つまるところ妻である私次第だ」くらいに思っていたらいいのだと存じます。実際のところ多分にその通りだとも思われますから。

 

 

 

 ただ役務やご奉公においては、今後はやはり「男女共同参画」はさらに進めるべきかと存じます。現在でもすでに組(部)長や教区長をはじめ、各種役中さんの半分前後は女性がなさっておいでです。もっともこれが事務局の幹部や責任役員等になると急に数が減少し、さらに宗門レベルになれば責任役員は男性ばかりであり、宗会議員でも女性は現在(当時)1名のみ(58名中)です。こういう点はやはり少々気になります。お教務について申せば、女性の数は極く少なく、国内の寺院で女性の住職は現在ありませんし、夫のある女性教務もありません。念のため申しておきますが、これは結果的に現状がそうなのであって、制度上は何の差別もありません。でも実際には、当宗では若い女性が剃髪得度する例はまずありません。やはり種々の困難があるのです。剃髪や結婚はもとより、教務さんの学校等の受け入れ態勢も、女性にとっては男性以上の困難が伴うようです。これも将来問題になる可能性は無きにしもあらずです。

 

 

 

 次に各種のご奉公の現場について考えてみます。

 

 

 

①最初に御講席に関連した問題です。

 

 まず自宅で御講を奉修させていただく際、席主が夫の名であれ、妻の名であれ、準備等、本来分担協力してさせていただくのが理想ですが、実際には一方に任せっ切りのこともあります。こういったところから少しずつでも協力していけたらと存じます。また参詣者の席などについても役目柄というのは別として、とにかく男性は前、女性はその後という風に決め付けるのはどうでしょう。一般世間の慣習も大きく影響していますから、急にどうこうはできにくいものでしょうが、それが当然という感覚は(特に男性の)、今後は改めていく必要があります。「女だてらに」とか「女子供が」といった感覚や言葉も要注意です。

 

 

 

②次に、具体的な各種のご奉公は、例えば設営や撤収などの力を要するご奉公なら、やはり男子青年会や壮年会が中心になるでしょうし、ご供養の調製なら力を要するところは男性が、細かな作業は女性が中心となるという分担・協同が大切になるでしょう。それらは自然にそうなっているはずです。男女の性別によって、肉体的な性差は当然あるのですから、それに基づく相違があるのは当然です。でも、性別とは関係のない作業については、共同参画すべきであり、双方の見方や意見が出され、それを共に考えた方がよい企画や結果が期待できることが多々あろうと存じます。

 

 

 

 同じ人間であり、同じ佛立信者であっても、男女をはじめ種々の共通点や相違点があるのですから、要はそれをちゃんと認識しつつよりよい関係やあり方を築きあげていく努力が、私たちにも求められているのです。

 

「男女共同参画の社会の中での佛立宗のお役中のあり方は?」という視点も、これからのお役中には求められていると存じます。

 

 

 

─「ジェンダー・フリー」に寄せて─

 

○「差別」と「区別」「差違」

 

 前回は「無常」について『徒然草(つれづれぐさ)』の一節なども引用しながら、「自身も含めてすべては無常であるが、だからこそ一日一日を大切に」ということを申しあげました。ただ、前回は触れませんでしたが、「諸行無常」といえばすぐに生命の無常、生老病死の迅速(じんそく)であることに意識が向かいますが、「無常」によって感得すべきものは、決して悲観的な価値観や感懐だけではありません。「無常だからこそ今が大切」という、現在の価値を高からしめる価値転換はもちろんのこと、もう一つ「すべては遷(うつ)り変り、変化する」からこそ、例えば「現在が苦しくとも、それが善い方向に変わっていくことも可能」であるというプラス方向での受け止め方もできるのです。


つまり、「冬はいつかは春になる」という把(とら)え方もできる訳です。「すべては変化する」とはそういうことでもあります。何時かは知らないが、刻一刻臨終に近づいているのは厳然たる事実ですが、だからこそ今を大切に、というのと同時に、今と未来をよりよい方向に変えていく、それを自身の努力はもとよりのこと、妙法の経力を頂いてさせていただこうというところに、このご信心の妙味があるのだと存じます。


さて今回は「平等と差別」というテーマです。これも随分大きな問題ですから、そのほんの一部を、特に役中さんにも必要だと思う範囲で触れておきたいと存じます。

 最初にちょっとお断りしておきたいのは「差別」という言葉の意味です。現代の用語で「差別(さべつ)」というと「法の下(もと)の平等」に反するような、人種、性別、家柄等による非合理的ないわれのない差別、つまり人種差別とか女性差別等の社会的、文化的、心理的な偏見に基づく蔑視や不平等なあり方を指しますが、仏教でいう「差別(しゃべち)」は、決してそういう意味ではなく、現代用語で言うなら「差違」「相違」「区別」等の意味で用いています。この点どうか誤解のないようにお願いします。私もできるだけそうした誤解を招かないよう、注意はいたしますが、どうか混同・誤解をなさいませんよう、この点よろしくご注意ください。

 

○「不二(ふに)」と「而二(にに)」

 

 前回にも引用させていただいた開導聖人の御指南に「能所(のうじょ)不二(ふに)の上に而二(にに)なりの事」(扇全17338頁)という出典がありました。これは「道場」に関する御指南で、法華経如来神力品第二十一の中の「若於僧坊(にゃくおそうぼう) 若白衣舎(にゃくびゃくえしゃ)〈乃至〉是中皆応起塔供養(ぜちゅうかいおうきとうくよう)〈乃至〉当知是処即是道場(とうちぜしょそくぜどうじょう)」[若(もし)は僧坊においても、若は白衣の舎(しゃ)にても、〈乃至〉是中(このなか)に皆塔(みなとう)を起(た)て供養すべし。〈乃至〉当(まさ)に知(しる)べし、是処(このところ)は即(すなわち)これ道場也](『妙講一座』所収)の「即是道場」の理解の仕方についての説明でもあります。


どういうことかと申しますと、この御文は、み仏が、寺(僧坊)であろうと、在家の信者の家(白衣舎)であろうと、山や谷間や曠野(こうや)であろうと、それがどこであっても、御題目(御本尊)をおまつりして御題目をお唱えすれば、そこは皆「道場」なのだと仰せになっているという御文です。この「即是道場」とあるのを根拠に、「自宅にも御宝前があるのだから、これもお寺と同じく道場に違いがないはずだ。だから、特にお寺や御講席に参らなくても自宅でしっかりお看経(かんきん)をあげていれば十分で、何もわざわざ遠くまで参詣しなくてもいいでしょう」、というご信者の質問に対して、「いや確かに道場という意味では同じ一つのもの(不二)だけれど、同じ道場でもその中にも能所(のうじょ)という違い、区別がある(而二)のだよ」、というのが「不二而二[ふににに]」(不二にして二)ということなのです。


「能所(のうじょ)」というのは、このシリーズの通番の⑤(平成14年5月号)で少し説明したように、「能」は元来が漢文の「能(よ)く……す」という能動の意であり、「所」は「……せ所(ら)る」という受身・受動の意に基づくもので、例えば「能化(のうけ)」は化導をする側、「所化(しょけ)」は化導を受ける側であり、仏と衆生、師匠と弟子等もそれぞれ能所の関係になるわけです。前回で「本(もと)」と「末(すえ)」と記したのも、こういう意味に基づく「本末(ほんまつ)」です。念のため申しますと、み仏においても久遠の本仏は「能」、他の諸仏・迹仏(しゃくぶつ)はすべて「所」ですし、み仏に対すれば衆生は、すべて「所化」です。


末法のお互い衆生はすべて三毒強盛・定業(じょうごう)堕獄の凡夫なのですから「師弟(してい)ともに凡夫」であることは同じ(不二)ですが、その同じ凡夫であっても師弟という違い・区別はやはりある(而二)ということになります。仏教でいう差別(しゃべち)というのは原則としてこういうことです。


もっとも小乗仏教はもとより大乗仏教でも法華経以前は五逆(ごぎゃく)罪を犯した極悪人はもとより、声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)の二乗(にじょう)、女人(にょにん)等は成仏できないとされていました。これはやはり不平等で差別的な教えだといわれても致し方ないと存じます。しかし法華経はそうではありません。極悪人も、二乗も、もちろん女性も、誰であろうと妙法を信じ唱えて菩薩行に励めば、すべて成仏できるのだと申します。その意味で「平等」です。ただし、先にも記したように、末法のお互いはすべて未下種(みげしゅ)の凡夫ですから、妙法を受持信唱しない限りは定業(じょうごう)通り堕獄する、という点でも平等です。こういう基本的な平等の上での「師弟」であり、「教講」であり、「役中」と「一般信者」という能所の別・差違・区別があるわけです。さらに申せば、同じ役中や信者でも、十人十色で皆違います。これも「而二」です。


これを世間でいえば老若男女おしなべて人間であるという点においては全く同じ(不二)だけれど、その中でも老幼、男性と女性、親と子といった違いもあれば、さらに個性もあるということですね。

 もっとも、この違いが「男女の性別で上下がある」という考え方になると、これはいわゆる「女性差別」に他なりません。これは誤った考え方ですが、程度の差はあっても、どこの社会にも、そうした差別が現代でも存在しています。これを正しい方向に変えていこうとするのが「女性学」であり、いわゆる「ジェンダー・フリー」という概念です。


現代のお役中はこういった問題もある程度承知しておく必要があり、それは今後ますます重要になってくると存じます。私自身、この問題に関していえば、改良すべきところが多々あるわけで、決して偉そうなことは申せません。文字通り「一緒に入門」ということで、極く基本的な理解だけでもさせていただきたいと存じます。

 

○「女性学」と「ジェンダー・フリー」

 

 いわゆる「女性学」や「ジェンダー・フリー」に関する書籍は、少し大きな書店へ行けば専門のコーナーが設けられており、関係書はそれこそ山ほど刊行されています。ちなみに私が参考にさせていただいたのは『女性学教育・学習ハンドブック=ジェンダー・フリーな社会をめざして』(新版・国立女性教育会館 女性学・ジェンダー研究会編著 有斐閣[ゆうひかく] 2001年刊)です。


同書によれば、「女性学は1960年代末の第二フェミニズム運動の中から生まれたが、女性差別の撤廃(てっぱい)は、『国連女性の十年』をつうじて世界の女性たちの共通目標となり、『女性差別撤廃条約』や『北京行動綱領』へと結実していった」ものです。そして「女性学が誕生以来、ここ四半世紀の間に生み出した主要概念の一つが『ジェンダー』(社会的・文化的な性別・性差別)である」とあります。したがって「女性学」でいうジェンダー概念は「男女の上下、優劣、支配服従の関係を維持するための装置」なのです。もう少し説明すると、「ジェンダー」(Gender)とは、「一般に、オス、メスといった生物学的な性のあり方を意味するセックス(sex)に対して、文化的・社会的・心理的な性のあり方をさす用語として使われている。(中略)『男らしさ』『女らしさ』といった固定的な『らしさ』を意味する。セックスは自然が生み出したものだが、ジェンダーは、人間の社会や文化によって構成された性であり、文化や社会において、また歴史の展開に対応して変化する」とあり、さらに「このジェンダーの構図は、家庭・地域社会・学校から職場まであらゆる生活領域において構造化されることで、男性優位の支配メカニズムを支える大きな要因ともなっている」ということです。「ジェンダー・バイアス」とは「ジェンダーに基づく固定的な決めつけ・偏見」等を意味し、こうした「ジェンダーの束縛(そくばく)から自由になった、固定的な性別にとらわれない状況」が「ジェンダー・フリー」なのです。

 「ジェンダー・フリー」に関する講座は、既に多くの大学や短大等に設けられており、自治体・企業・地域等でも研修会などが広範に開催されています。


どうでしょう。この問題に関するお役中の理解は、これからのご奉公の上でもとても大切になってくると思われませんか。

 次回ではもう少し具体的に申しあげたいと存じます。

㉕「御講」こそ弘通の根幹
2014年12月3日(水)
 

―「御講から弘まる」「弘まる御講」―

 

 

○佛立開講150年を期し「御講の改良」を

 

前回は「好きこそ物の上手」のテーマで、信行を好きになることの大切さについて記し、あわせて「物事の上達はかけた時間に比例する」という松岡祐子氏(「ハリーポッター」シリーズの翻訳者)の「祐子の第一法則」や、「将来に向かっての楽しみ(志願〈しがん〉)を持つ」ことの大切さについても触れ、お役中はその平生のご奉公において、自身はもとより、一般ご信者の育成においても、こうした姿勢や方向性を忘れないようにして教え導いていただきたい旨申しあげました。

 


さて今回のテーマは「御講」です。

 申すまでもなく当宗は弘通集団であり、そのいのちは「妙法弘通」です。そしてその弘通の根幹が他でもない「御講」なのです。

 この「御講」が当宗にとっていかに大切なものであるかについて開導聖人は御教歌・御指南等で随所に仰せですが、そのいくつかを頂戴しておきます。

 

題・日蓮大士(だいじ)の御弟子旦那(おんでしだんな)と申すこゝろいかにと人のいひければ

御教歌
御弘通の御奉公とて外
(ほか)になし

      御講まゐりや又つとめたり

(講場必携・完・「妙法弘通」の段・扇全14192頁)

御教歌
講中
(こうじゅう)と成(なっ)

   御講へ参らねば

  講の外(そと)なる人とかはらず

(開化要談・用・扇全13430頁上欄)

御指南

○「我も唱へ人にもすゝむる道は御講を第一のご奉公となす。」

(冨木入道殿御返事お書入・扇全26183頁上欄)

○「当今(とうこん)の如説修行とは我も唱へ人にもすゝむる也。

  真実御弟子旦那の御奉公とは、我も御講を勤め、人の家にも参詣するが御弘通となる也。」
(講場必携・完・扇全14巻197頁)

 

 因みに現在の当宗の宗内法規(宗制)の中でも最高規範とされる「宗綱(しゅうこう)」と「宗法」にも次のように定められています。

「本宗は、御講を弘通及び信行錬磨(れんま)の道場とする。」

(宗綱第12条「御講」)

「御講は、弘通及び信行増進、人格向上の道場である。」

(宗法第21条第2項)

「本宗の信徒は、進んで御講を勤修(ごんしゅ)し、努めて助行に参加して、教化弘通にはげまなければならない。」 

(宗法第23条)

 

 既にご承知のごとく、当宗は平成18年にお迎えする佛立開講150年を期して、昨年来、「御講から弘まる」をスローガンとしてその奉讃ご奉公を進めさせていただいており、昨年(平成15年)10月には宗務本庁に奉賛局も設けられていよいよ本格的なご奉公が進められつつあります。このことは講有上人の今年の『年頭のことば』にも、次のごとく示されています。

〈さて本宗は、開導日扇聖人による安政(あんせい)4112日のご開講から数えて、来る平成18年に150年の記念すべき年を迎えます。

 ご開講は、末法時機相応の妙法五字をもって一切衆生を救済せん、との大慈大悲のご奉公であります。この時にあたって、全宗門人は今(いま)一度ご開講の本旨(ほんし)を再確認し、一層ご弘通に精進(しょうじん)しなければなりません。

 本宗では昨年来、「御講から弘まる」とのスローガンを掲げ、宗門をあげての「御講の改良」を期しております。

「御講から弘まる」―これはご弘通の原点は御講であり、御講こそ信心増進、信行錬磨(れんま)、弘通意欲高揚(こうよう)の道場であることを端的(たんてき)に示すものです。本当の「弘まる御講」にするためには、まず教務諸師が今まで以上に御法門の研鑽(けんさん)に努め、行学二道(ぎょうがくにどう)に精励(せいれい)しなければなりません。またご信者も、御講の参詣に一層励むことが、御講の改良の基本となるのであります。(後略)〉(平成16年『年頭のことば』部分)

 

○ご開講の目的(本旨)と御講の本義

 

 佛立開導日扇聖人が安政4年(1857)1月12日に最初の御講を奉修され、当宗をご開講されたその目的は「宗祖出世(しゅっせ)のご本懐、上行所伝の御題目を広宣流布せしめんが為」(万年永続繁昌記・扇全6巻82頁)でした。したがって「御講」は、法華経本門の久遠(くおん)のみ仏・蓮隆両祖のご本意である「妙法弘通による末法の一切衆生の救済」のための「弘通の道場」であり「信行錬磨(れんま)の道場」なのです。これこそ御講の本義に他なりません。

 

 開導聖人は「御講席は派出所の如し。弘通処也。折伏教化の所也。講内信者の参詣は御弘通の御奉公也」(御講緊要・扇全17334頁)とも仰せです。

「派出所」の意は、根本道場たる本山や各寺院は常設の道場であるが、ご信者宅でも御講席となればその時はその席が道場となる、との意です。これは他のご信者のお宅を借りての御講でも基本的に同じです。

 なおご開講について付言すれば、開導聖人は次のごとく仰せです。

「これは八品堂(はっぽんどう)の席 第一はじめの御講聴衆四人也。後此講(のちこのこう)万人(まんにん)を以て数(かぞえ)んずと思ひおきてたり。」

(清風一代記略図・扇全5202頁)

 このご開講の御講席は、当時の京都の新町蛸薬師(たこやくし)下ル西側(現・京都市中京区錦小路(にしきこうじ)上ル百足屋(むかでや)381番地)の千切屋(ちぎりや)・八品堂・谷川浅七(たにがわあさしち[]宅でした。参詣者は谷川氏夫妻を初め4人とも6人とも記されています。

 

 ちなみにこのご開講の地は、昭和60年に当宗が求めて入手し、昭和61年3月28日に、時の講有であられた第18世講有日地上人の導師のもと「開講聖地(本門佛立宗開講聖地)奠定(てんてい)式」が執行され、「開講聖地」として正式に定められ、以来荘厳管理されています。余談にわたりますが、当時筆者も総務局で主事のご奉公をさせていただいており、当日、本山宥清寺に格護されていた「開講の御本尊」を堀田承要師と共に聖地までお供し、奉安させていただきました。そういうわけで「開講の御本尊」を間近で拝見させていただいたのですが、護持者の氏名は「谷川浅七郎」と記されておりました。もっとも「郎」というのはいわば「男子」の一般的な呼称ですから(例えば「源九郎義経[くろうよしつね]」の「九郎」は、父・義朝[よしとも]の九番目の男児の意)、開導聖人当事にあっても「郎」は省略しても差し支えなかったかと存じます。現に開導聖人も、ご承知の上で、御指南等では「浅七」と記されておいでです。

 

○当宗信行のすべてがこもる御講の大切さ

 

―悦んで勤修・参詣を―

 御講には、口唱、祈願、回向、大恩報謝、布施供養、御法門聴聞(ちょうもん)、奨(将)引、育成、法燈相続、教化等、当宗の重要な信行ご奉公のすべてがこもっています。この御講の重要性をまず再認識し、奉修と参詣の両方に精一杯尽力し、心を尽くすことが大切なのです。

 開導聖人は御指南に仰せです。

「我もつとめて 他参もか(欠)けず

○御講 他参せず   我つとむ

    我つとめず  他参する

 他をさそふあり さそはぬあり

 チラ  参り  勝手づとめ

   (乃至)

 されば弘通広宣を思ふ信者、当講繁栄を思ひて御講の為に心を尽(つく)し参詣をもして人に勧(すす)め云々」

(三界遊戯抄三・扇全6巻372頁)

○「悦(よろこ)んでつとめ 悦んで供養す。

   悦んで参詣し 悦んでう(受)くる。

 此の一事を常にかへりみよ。」

(要法は根本本地なる事・扇全1783頁)

 

○まずお役中から率先改良を

 

 当宗のいのちは妙法弘通による衆生救済であり、当宗は弘通集団です。その当宗の根本こそ御講であり、御講こそが当宗信行の根幹なのです。その御講のあり方は、何といってもまず、お教務とお役中の姿勢や努力、熱意にかかっています。「弘まる御講」となるよう、まずお役中から率先して各種の御講参詣・御講奉修に励み、奨(将)引にも努めさせていただくことが大切なのです。

 御講がご弘通の源(みなもと)であり、ご弘通の力となるよう改良・精進させていただきましょう。

 

※付 記

 なお「御講」に関連するものとしては、この「新役中入門」のシリーズの中でも既にいくつか触れています。その主なものを次に記しておきますので、参照していただければ幸甚に存じます。

◎「参詣の大事」(1)(2)(3)……シリーズ通番⑤~⑦(平成14年5月号~7月号)

(1)は「お寺参詣・御講参詣の大切さを知る」

   ※「道場の能所(のうじょ)」について

(1)は「参詣の要素」……「親近(しんごん)

(3)は「参詣の要素」……「給仕」

◎「懺悔(さんげ)の大事」(1)(2)……シリーズ⑬⑭

(平成15年1月号、2月号)

 御講で拝読する『妙講一座』の「五悔(ごげ)」の御文の概略等

◎「稽古(けいこ)の大切さ」(2)……シリーズ⑰

(平成15年5月号)

 特に、御講の参詣奨(将)引やご披露について。

㉔好きこそ物の上手
2014年11月19日(水)
 

―物事の上達はかけた時間に比例する―

 

○「好きこそ物の上手なれ」

 

前回は「妙法こそ大良薬(だいろうやく)」―色香美味(しっこうみみ)と五感(ごかん)の共働(きょうどう)―というテーマで、法華経如来寿量品第十六に説かれる「良医病子(ろういびょうし)の譬(たとえ)」を紹介しつつ、六根互用(ろっこんごゆう)・五感の共働について解説し、妙法五字が「色香美味 皆悉具足(かいしつぐそく)」たることを信心によって感得させていただくことの大事を記しました。

 今回は「ご信心の上手」になるには「好きになる」ことが大切で、そのためにはやはりこつこつとした「積み重ね」や「努力」がまず大切だということを申しあげたいと存じます。

 

さて「好きこそ物の上手なれ」とは人口に膾炙(かいしゃ)した諺(ことわざ)ですが、これを「ことわざ辞典」などでみると次のようにあります。

「好きこそ道の上手」「好きは上手の本(もと)」ともいう。好きであることが物事の上達の極意(ごくい)だということ。一方で「下手(へた)の横好き」など水を差すような諺もあるが、それにしても嫌いで上手になることはまずない。

 一般にどんな物事でも、好きになると関心が深まり、それに割(さ)く時間も長くなり、結果として腕前もあがるものである〉。(『岩波ことわざ辞典』)

〈技術を身につけるにはまず身を入れて修練に時間を注(そそ)ぐ必要があるが、好きなら身が入るだろうし、時間のやりくりにも一生懸命になるもの〉。(『ことわざの智恵』岩波新書・別冊)

 なるほど言われてみればその通りで、何でも上達する為には、身を入れ、時間もかけて続けることが基本です。好きになればそれが苦にならずにでき、そうなると上達も早く、尚張り合いも出て一層身が入る、という善い循環が起こり、ますます上達することになります。

 

 開導日扇聖人は御教歌に仰せです。

 御題・雨降りは車で参詣といふ

御教歌

 何事もすきこそ物の上手なれ

   いのちをさへにをしまざりけり

○御法にとりては此人仏祖のみこゝろに叶ふもの也。

(開化要談九・扇全13巻239頁)

 私共の信行ご奉公の上にも同様のことが申せるわけです。

 因みにこの御教歌・御指南等は明治22年の御筆です。

 御題の「雨降りは車で参詣といふ」とあるのは、後の御指南と合わせて少々説明がいるかと存じます。当時はもちろんどこに行くにも自分の足で歩いていくのが当たりまえの時代です。ところがその日は参詣しようにもひどい雨。まだ道路も舗装などされておらず、道は泥々にぬかるんでおり、しかも着物姿です。参詣ともなれば、衣服もきちんと改めて参るのが当然でした。そんな姿で泥道を歩いて参詣することは、現代の私達にはちょっと分からない無理があったのです。それでも何としても参詣をしたい。それで思い切って人力車を奮発してでも参詣したというのです。

 

 現代は車社会ですし、公共の交通機関も発達しており、道路もほとんど舗装されていますから、「雨が降ったら車で」というのも、まあ当たり前のように感じますが、当時は全く状況が異なっていたのです。貧しい時代の庶民です。平生はあらゆることに随分節倹しているのです。そんなご信者が、参詣ご奉公の為ならと思い切って人力車を雇ったのです。

 それでこそ「御法にとりては此人仏祖のみこゝろに叶ふもの也」との後の御指南のおこころが理解できます。信行ご奉公の為なら、雨や遠さはもとより、さしずめ何千円といった足代もいとわない。ご信心が好きで、参詣せずにはいられない。とにかくどうぞしてやりくりする。自然に「信心第一」となっているわけで、こういうご信者こそが仏祖のご本意に叶い、ご守護もいただくのは当然といえば当然です。

 

 

 

 

 また御教歌の下の句には「いのちをさへにをしまざりけり」と仰せですが、これも世法のことでいえば、例えば釣にせよ、ゴルフにせよ、登山にせよ、本当に好きになってハマッてしまうと、どれほど忙しかろうが、疲れていようが、寒暑も天気ももののかわ、費用も危険も顧みず、とにかく無理からでも何とか工夫・算段をつけ、嬉々(きき)として出かけます。現にウソをついて会社を休んでまで日本シリーズを観戦したり、命がけてドブ川に飛び込んだ野球ファンが少なからずあったことと思い合わせれば、これも時代を超えて通じることだと申せます。傍からは酔狂としかみえなくても、当人にとってはこれ以上の愉しみはなく、それがまたストレス解消、元気の源ともなっているわけで、もうそこには理屈も損得勘定もありません。習い事などでそうなると、当然上達もし、それが嬉しくて更に身が入ることとなります。これが信行の上でなら文字通りの「不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)」(寿量品)の姿です。


○「物事の上達はかけた時間に比例する」

 

 松岡佑子(ゆうこ)さんといえば、超一流の同時通訳者で、日本の出版史上空前の大ヒットとなった「ハリーポッター」シリーズ(日本語版)の翻訳・出版で一躍有名になった女性ですが、この方があるテレビ番組(「はなまるカフェ」平成141029日放送)にゲスト出演した際の言葉が今も強く印象に残っています。ちょうど同シリーズの第4巻(上下)が刊行され、上下2冊で1セットであったにもかかわらず230万部が売れた頃でした。(なお原著者の英国人女性、J・K・ローリングさんが、同書が世界60数カ国で翻訳・出版されたこともあって、過去1年間の収入が230億円に達し、英国の長者番付の上位に入ったというニュースも最近流れました。)

 

 松岡さんは、実は国際基督教大学での専攻は日本史だった由です。ただ英語の発音が以前から好きで、それでずっと英語の勉強は続けていたのだそうです。

「印象に残った」というのは、番組司会者との次のようなやりとりでした。

 司会者…「どうすれば私達も英語が上達できるのでしょう。何か秘訣(ひけつ)は?」

 松岡氏…「語学に近道はありません。『佑子の第一法則』というのがあるんです。それは『物事の上達はかけた時間に比例する』というんです。失礼ですが、大変お忙しいお仕事の中で、英語の学習にどれくらい時間をお割(さ)きになれますか?」

 松岡さんは、以前から英語の音が好きだったとはいえ、ここまでになるには、やはりそれだけの時間をかけ、努力を積み重ねてきたのです。やはり一流の人の言うことは違うと思いました。

 

 開導聖人は別の御指南に仰せです。

「手習(てならい)する子に遊ばしてくれと云(いう)と、ちとやすめと云との二筋(ふたすじ)あり。

 信者口唱に二筋あり。

口唱をたのしむものと

いやがるものとあり。

諺曰(ことざわにいわく)、すきこそ物の上手なれ 真実の御弟子旦那云々」

 (如説修行抄御文段並略註・扇全9巻392頁)

 同じお習字・勉強でも、すぐに嫌になって「遊ばせてくれ」という子と、先生の方が「そんなに根をつめず、ちょっと休んだらどうか」と言うほど夢中になる熱心な子とがあるが、ご信者にも口唱信行の好き嫌いの二筋がある。願わくは信心を好きになれ。それでこそ本当の如説修行のご信者といえるのだから、とのおこころです。

 

 また別の御指南には次の如く仰せです。

「折伏修行に御利益と云(いう)褒美(ほうび)あり。諺曰、たのしみなくてはつとまらぬと。今、本門の信者も御弘通と浄土参拝の志願(しがん)あるによりて、今日(こんにち)のいとなみもものうからず。又今日無事達者にて暮らすも、口唱信行の御蔭也と喜べり。」

(開化要談九・扇全13巻240頁)

 

 お互い、できることなら最初から信行ご奉公を好きになれればそれに越したことはありません。しかし、もしそうでなくとも、まずコツコツと参詣や口唱等の信行に努め、それを積み重ねていけば、そんな中でいつしか興味も深まり、次第に楽しみも感じられるようになって、だんだんに好きになっていくものです。するとまたお計らいも感得して徐々に信心が上達していくのです。また同時に、お計らいを楽しみにして努力していくということも大切ですね。

 

 お役中は、自分のお役のご奉公についてこうしたあり方なり、方向性を持って努力していくことが大事であり、また受け持ちの一般ご信者を育成していく上でも、同様の姿勢で教え導いていくことも考えていただきたいと存じます。

 

 ―色香美味(しっこうみみ)と五感(ごかん)の共働(きょうどう)―

 

良医病子の(ろういびょうし)譬(たとえ)〈法華経如来寿量品第十六〉

 

 前回では、凡夫の欲が貪欲(とんよく)に趣(おもむ)くことによって自他を共に苦しめることのないように制御・抑制する智慧としての「少欲知足(しょうよくちそく)」の教えの大切さを中心に記し、その一方で、自他の真の幸せを求める向上心(真実の大法を求め、自他の成仏を期する大乗の菩薩の心)を持たず、努力もせず、ただ小法に甘んじてそれでよしとする二乗(声聞〈しょうもん〉と縁覚〈えんがく〉)のあり方は「少欲懈怠(しょうよくけだい)」であり、それは卑屈と慢心とが同居し、その間を揺(ゆ)れ動く心として誡(いまし)めねばならないことも申しあげました。

 お役中は、願わくはそのご奉公においてもこの少欲知足の教えを大切にさせていただくと同時に、少欲懈怠とならぬよう注意していただきたいと存じます。

 

 さて今回は、法華経如来寿量品第十六に説かれる有名な譬喩(ひゆ)「良医病子(ろういびょうし)の譬(たとえ)」を紹介しつつ、中でも特に「此大良薬(しだいろうやく) 色香美味(しっこうみみ)」 皆悉具足(かいしつぐそく) 汝等可服(にょとうかぶく)」(此[]の大良薬は色香美味、皆悉〈みなことごと〉く具足せり。汝等服すべし)の御文の意について学ばせていただきたいと存じます。先に申しておきますと、「此大良薬」とは他でもない私どもがいただく上行所伝の御題目のことであり、「皆悉具足」とは万法具足のこと、「汝等可服」は信唱せよということなのですが、「色香美味」とあって、色も香も味わいも優れているという御文については、どのように感得させていただくべきなのか、この点について少し詳しく触れたいと存じます。

 

 いずれにせよまず「良医病子の譬」(開結424426頁)の概略を紹介しておきます(この譬喩は、いわゆる「法華七喩〈ほっけしちゆ〉」の一つで「良医の譬」「良医治子(じし)の譬」等とも称されます)。

 

 ある所に最高の名医がいた。多くの子息がいたが、父の他出中に愚かにも誤って毒薬を服し、毒に中(あた)って悶(もだ)え苦しんでいる所に父が帰宅した。驚いた父は最高の処方によって毒消しの妙薬を調合し、子に与えて言った。「この大良薬は色・香・美味皆(みな)悉く具足せり。汝等服(なんだちふく)すべし。速(すみ)やかに苦悩を除(のぞ)いて復衆(またもろもろ)の患(うれえ)なけん」。

 

 すると多くの子の中でも軽症で判断力を失っていない者(不失心者)は素直に薬を飲み、すぐに回復することができた。ところが重症(毒気深入〈どっけじんにゅう〉)で正気を失い錯乱状態になってしまっていた者(失心者)は、判断力もおかしくなっていたため(心皆顛倒〈しんかいてんどう〉)、良薬を苦(にが)いと言って服さず、更に苦悩を増す有様だった。

 

 そこで名医は薬を飲ませるための一計(方便=巧みなてだて)を案じ、次のように言った。「私は老い衰え死も間近であるが、今からまた他国に行かねばならない。そこで是(こ)の好(よ)き良薬を今留(いまとど)めて此(ここ〉に在(お)く(是好良薬〈ぜこうろうやく〉 今留在此〈こんるざいし〉)。必ず服しなさい。きっとよくなるから」こう言い置いてから他出し、出先から使をやって「お父さんは死んだ」と伝えさせたのだ。

 

 父の死の報に接するや、錯乱していた息子たちも流石(さすが)に驚き悲しみ、「常(つね)に悲感(ひかん)を懐(いだ)いて心遂(こころつい)に醒悟(しょうご)し」(常懐悲感〈じょうえひかん〉 心遂醒悟〈しんすいしょうご〉……深い悲しみに沈むなかでやっと目が醒〈さ〉め、素直な本来の心を取り戻す意)父の薬が大良薬であることも分かって、素直に服したところ、さしもの病悩も皆癒(い)えた。そのことを聞き確かめた名医は再び帰宅し皆に見(みま)えた。

 

 概略以上のような譬え話ですが、この譬喩(長行〈じょうごう〉)の意を重説(じゅうせつ)する偈頌(げじゅ)が「自我得仏来(じがとくぶつらい)」から始まる「自我偈(じがげ)」です。この話の中の名医は久遠(くおん)のみ仏であり、毒を服んで苦悩する多くの子息が衆生です。中でも特に重症患者(毒気深入の失心者)が釈尊滅後末法の私共(三毒強盛〈さんどくごうじょう〉・定業堕獄〈じょうごうだごく〉・未下種〈みげしゅ〉の凡夫〈ぼんぶ〉)であり、今留在此(こんるざいし)の是好良薬(ぜこうろうやく)こそ滅後末法の衆生の為の妙法なのです。名医が方便で他国へ行き死んだと伝えるのは歴史上の釈尊(始成正覚〈しじょうしょうがく〉の仏)の入滅を意味し、実には入滅せず再び見(みま)えるのは、久遠のみ仏の寿命は実は永遠であり、従って釈尊としての入滅は方便のための涅槃[ねはん](非滅現滅〈ひめつげんめつ〉…滅に非〈あら〉ずして滅を現わす)であることを示すとされています。

 

「常懐悲感(じょうえひかん) 心遂醒悟(しんすいしょうご)」は、わけもなく親に逆らっていた子が、思いがけず、親の死に直面し、その悲哀の中でやっと素直な心を取り戻し、信心を起す姿を彷彿(ほうふつ)とさせるようで、そう思って拝見すると説得力があります。いつもそばにいて、疎(うと)ましくさえ感じていた相手も、もう会えないとなると急に寂しく懐(なつ)かしく思われるというのは、誰しも思い当たるところがあるのではないでしょうか。親のお葬式を通じて、意外に法燈相続やお教化ができることが多い理由の一つはここにあるとも申せます。

 

「色香美味皆悉具足(しっこうみみかいしつぐそく)」と「五感(ごかん)の共働」

 

 さて問題は「色香美味皆悉具足」の大良薬である御題目であるのに、私共末法の凡夫は、毒気深入[どっけじんにゅう](三毒強盛)で心が皆顛倒(てんどう)しており、正しい判断能力がなく、すべてさかさまな見方しかできなくて、苦(にが)くて臭いなどと感じ、素直に有難く服する(信じ唱える)ことが中々にできにくいということです。

 この点につき開導聖人は次のように仰せです。

 

題・妙法五字万法具足(まんぼうぐそく)

御教歌

 いろもかもめに見えずしてそなはれる ことは利生に顕れにけり

(開化要談・体・扇全13340頁)

御教歌お書添え御指南

「御供水(おこうずい) 白き水に見えれ共(ども) 色香美味(しっこうみみ)。妙法五字 黒き文字と見え 万法具足はみえず。

 何にても所願具足(しょがんぐそく)するをもて いろか顕(あらわ)るゝは事相(じそう)也」

 

題・絶待妙(ぜったいみょう)

御教歌

世の人を救ふ御法(みのり)のはす[(はちす)]の花 これにくらぶる色も香(か)もなし

(仏法大要・上・扇全1143頁)

 

末法の衆生を救うことができる南無妙法蓮華経の御題目・妙法五字にはみ仏のすべての功徳が具(そな)わっており、色も香りもすぐれ、他に較(くら)べるべくもない最高の御法であることは、凡夫には感知し難いけれども、現証(ご利生)によってそれと腑(ふ)におちる。これを感得すべく、まず素直に妙法を受持信唱させていただくことが大切だとの意です。

 

 御供水は、凡夫の目にはただの無色透明の水にしか見えないが、実は妙法の功徳水であり、色香美味である。御題目は黒い文字としか見えず、その五字七字の中に万法が具足していることは感見し難いが、ご利生という事実・形に対したとき、凡夫にもそれと感得できるのだと仰せです。「絶待妙(ぜったいみょう)」というのは相待妙(そうたいみょう)に対する語で、元来が絶対のもので他と比較相対できない、そういうことをもともと超越しているという意です。

 

 ただ、それにしても、では「色香美味」等はいわば単に譬えなのか、というと決してそうではありません。実はこれは言葉を超えたものであると同時に現実にその通りに感得し得るものなのです。そのことの理解の一助となるのではないかと思う一文を紹介しておきたいと存じます。

 

「この犬おいちいネ」

 

 これは『老いの発見3……老いの思想』(岩波書店・1987年)の中で鶴見俊輔氏が紹介している戸井田道三氏(能と伝統芸能の研究者)の、自身の「おいしい犬―幽玄(ゆうげん)」のメモに拠る文章の一節です。少々長くなりますが次の通りです(同書35頁・一部割愛)。

「昔、私の家に小さな犬を飼っていたことがある。友人が三つくらいの男の子をつれて遊びに来た。その子が小さな犬をダッコしてひどくかわいがった。『この犬おいちいネ』と彼は言った。かわいいという言葉をまだ知らなかったのかもしれない。その場の雰囲気や情況からいって『おいしい』というのはまことに適切であった。まわりにいたおとなどもは皆笑ったが、これ以上にうまい表現は不可能とさえ思えた。

 

 笑ったのは『かわいい』というべき情緒を味覚でいった錯誤(さくご)に対してであった。しかしおとなだってつねにそのような間違ったいいかたはしている。たとえば『苦(にが)みばしったいい男』とか『少し甘い女』などいくらでもある。但しこれは常用されているあいだに味覚の応用とは認められなくなった。やはり適切な言葉として容認されたのであろう。つまり視・味・嗅・聴・触などの感覚器官とそれに対応する言葉とをつなぐ回線がまちがった方が適切だという場合もありうるわけである。それが可能なのはいわゆる五感がひとりの身体に統一されているからで、五感の各々が別に感じられると同時に、いっしょに働いているからにちがいない。(中略)『この犬おいちい』などというのは、たしかにまちがいである。しかし、まちがえることによって分類以前の混沌(こんとん)にさかのぼることにはならないであろうか。混沌をつかまえるためには言語の明晰(めいせき)以前にさかのぼる必要があり、それがあるから身体の自発性が共感覚を刺激する作用をするのではないだろうか」(戸井田道三『忘れの構造』筑摩書房・1984年)

 

 幼児が「この犬おいちいネ」と言ったその言葉は、子犬の暖かさや匂い、柔らかな感触、たべてしまいたいような可愛さ等々、そのすべてを身(からだ)と心の全部でそのまま丸ごと受けとめ、感極まって発せられたものであり、文字通り五識六識が一体となった表現です。そういえば「痛い思い」「甘い言葉」「冷たい仕打ち」「暖かい色」などの表現は実際、無数にあり、すでに日常生活で何の違和感もなく自然に使っています。

 

 仏教では六種の感官能力を眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(に)の六根(ろっこん)とし、これによって六識(ろくいき)が生じ、色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)の六境(ろっきょう)を認識するとされますが、さらに「六根互用(ろっこんごゆう)」といって、各根が互いに他の五根の作用・能力を具することも説かれます。例えば鼻で聞いたり、味わったりもできるわけで「聞香(もんこう)」という言葉もあります。通常の感覚器官は五根(眼・耳・鼻・舌・身)で、これが色・声・香・味・触を感じ認識・識別しているのですが、音や香りや味に色を感じることも決して不思議なことではなく、実は五感が共働し、一体となって、言葉によって分類される以前の本然(ほんねん)のものを体全体で感得することも、私たちにはできるのです。

 

 確かに通常、御題目は眼には黒い文字にしか見えず、御供水は無色透明の水としてしか認識できませんが、ご利生をいただき、歓喜の心で唱え服(ふく)するときは、御題目は輝き、御供水は匂いたつ甘露(かんろ)だと感得させていただくこともできるのです。

「此大良薬 色香美味 皆悉具足」の御文を真の意で感得させていただくには、やはり素直な「柔和質直(にゅうわしちじき)の信心」が要(かなめ)となるのです。

 

―自他の幸せと共存・欲の制御の智慧―

 

○「求不得苦(ぐふとっく)」と「少欲知足(しょうよくちそく)」

 

 前回では「笑顔と喜びを大切に」というテーマで「無財の七施(むざいのしちせ)」の中の「和顔施(わげんせ)」(和顔悦色施[わげんえつじきせ])の教えに基づきつつ「笑顔の効用」とその活用法について記しました。その際、「無財の七施」を「いずれも金銭や財物を与えなくてもさせていただける布施」と記しましたが、出典である「雑宝蔵経」(第六・七種施因縁)の原文には「仏説に七種施有り。財物を損(そこな)なわずして大果報を獲(う)。一に眼(げん)施と名づく(乃至)。二に和顔悦色施(乃至)云々」(大正蔵第4巻479頁上。訓(よ)み下しは筆者)とありますから、より精確(せいかく)には「自己の財物を何も減損することなく大果報を獲得できる七種の布施」というべきかと存じます。

 

いずれにせよ「笑顔」は、財物は全く与えず、自分の物は何も減らしはしないのに、しかも周囲に対する大きな布施となり、同時に自身にも大きな果報がいただけるものなのです。この「笑顔」が自他に及ぼす優れた効果について、現代的な新しい観点の一つとして「表情分析学」でいう「笑顔の四つの効用」も紹介させていただいたわけです。

 

 前回記したごとく、組なら組長さんの「笑顔」が次第に周囲を染め、引きつけて、組全体が明るく前向きに歩んでいく原動力ともなっていただければと願っています。そういう意味で「笑顔」は、結縁、育成、法燈相続はもとより、組内、家庭内、社内等あらゆる組織の活力や円満、そして自他の若返りに大きな効果を発揮するに違いないと存じます。

 

 さて今回は「欲」をいかに制御すべきか、み仏はそれをどのように教えておられるか、というテーマです。

 

 仏教では人間の根源的な欲を「五欲(ごよく)」とします。

①財欲[ざいよく](財物・金銭の獲得欲)

②色欲[しきよく](性欲・性殖欲)

③飲食欲[おんじきよく](食欲)

④名聞欲[みょうもんよく](見栄・体裁・名誉欲)

⑤睡眠欲[ずいめんよく](睡眠・横になって休みたい欲・嗜臥[しが])

 

 この五つの欲はいずれも人間の生存に直接必要な、生命の維持と種の存読に不可欠な欲望だとも申せます。色欲、飲食欲、睡眠欲はもとより、財欲や名聞欲も他の欲を満たし、それらを有利に獲得するためのものと申せます。

 

 この五欲について小乗仏教では概して極力制限し、できれば無くしてしまうことを理想としました。でもこれを徹底すると生物としての人間は死んでしまう他ありません。つきつめれば生存そのものの否定(これを灰身滅智[けしんめっち]と申します)にさえつながるわけですから、これは極端というものですし、人びとにそれを求めることは無理というものです。

 

 大乗仏教、特に法華経の教えはそうではありません。「欲を抑え、本当に必要な程度で満足せよ。それが自他の幸福の根本だ」と教えました。それが「少欲知足」の教えです。

 

 考えてみれば「欲」のすべてが悪いわけではありません。財物も正しい方法で必要なだけ得、それを正しく活用することは決して悪ではありませんし、性欲も正しく用いられることは種の存続のためにも必要であり自然です。総じて欲は善用されれば、自他を生かし、向上させる大切なものなのです。それはあたかも川の水の流れにも譬えられます。適量の水が、川筋にそって然るべく流れていれば、この水はあらゆるものを生かし、活用される有益なものです。ところが、これが枯渇(こかつ)したり堤(つつみ)を破って決壊(けっかい)・氾濫(はんらん)したりすると一転して大変な災厄(さいやく)をもたらすわけです。財欲、性欲、食欲、名誉欲はもとよりですが、睡眠も、これが高じていつもダラダラ横になって、ものぐさ、懈怠となれば、自他の難儀を招きます。要は何事においても両極端でなく丁度いい、適正・適度であることが大切で、これを「中道(ちゅうどう)」と申します。この適度さを超えてあるが上にもさらに得ようと求める貪(むさぼ)りの欲が「貪欲(とんよく)」です。生(しょう)・老(ろう)・病・死の四苦に「求不得苦(ぐふとっく)」「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「五陰盛苦(ごおんじょうく)」を加えて八苦と申しますが、何にせよ「求めて得られない」、総じて「自分の思い通りにならない」というのがあらゆる苦しみの根本です。これは四苦八苦のすべてに通底しています。だからこそみ仏は法華経で次の如く諭されるのです。

 

○「諸苦所因貪欲為本(しょくしょいんとんよくいほん)」(諸苦の所因[しょいん]は貪欲これ本[もと]なり)    

(譬喩品[ひゆほん]第三・開結156頁)

○「少欲知足(しょうよくちそく)」(欲少くして足ることを知る)

     (普賢菩薩勧発品[ふげんぼさつかんぼっぽん]第二十八・同596頁)

 

 文字通り「諸(もろもろ)の苦の原因は貪欲こそが本(もと)である」「欲を少くして少ししか得られなくてもそれで満足することが大切」だとの意です。

 

 因みに仏法の根本理である「四諦(したい)」(苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)[いわゆる八正道]=苦集滅道[くじゅうめつどう])や「十二因縁[十二縁起]」(無明[むみょう]・行[ぎょう]・識[しき]・名色[みょうじき]・六入[ろくにゅう]・触[しょく]・受[じゅ]・愛[あい]・取[しゅ]・有[う]・生[しょう]・老死[ろうし])においても「苦」をいかに制し、離れるかが基本命題です。例えば「十二因縁」の「愛(あい)」は「苦を避け楽を求める根本的な欲求」であり、「取(しゅ)」は「自己の欲求するものへの執着」を意味します。そしてその上に「有」(生存)があり「生」と「老死」がある、とするのです。けれども「苦を避け楽を求め、欲するものに執着する」のは人間の生存の根本ですから、その理由がわかったからといって、それを完全に制することなどほとんど不可能なことです。それは先に申した通りです。やはりここは「少欲知足」の他はないでしょう。でも、この「少欲知足」さえ、凡夫には実際困難なことです。

 

○欲には際限がない―便利・快適・体裁―

 

 際限のない欲に流され、あくせくと生きる戦後から今日までの日本人の姿を堺屋太一氏はその著『風と炎と』(産経新聞社刊・第2部24頁以下)の「便利・快適・体裁」という章で、ほぼ次のように指摘しています。

 

・人間が財物やサービスを求め、消費する目的

①「生存と繁殖」…戦中戦後の食糧難期

②「便利さ」…1950年以降「三種の神器(じんぎ)」(洗濯機・テレビ・冷蔵庫)を求め、インスタント食品が脚光(きゃっこう)を浴びた。

③「快適さ」…60年代から。「3C」(カラーテレビ・自動車[カー]・クーラー)が人気を博し、 “使い捨ては美徳”に。

④「見栄(みえ)と体裁(ていさい)」…特に80年代以降。ブランド商品・高級車・高級マンション・海外旅行などがもてはやされた。

 

 その後のいわゆる「バブルの崩壊」で少しはその勢いにかげりが出たとはいえ、①~④へとそれこそ際限なく追い求めてきた日本人の姿は、まさしく「生涯衣食(えじき)の獄(ごく)につながれ名利(みょうり)の網(あみ)にかゝりて……」(妙講一座)の御文の通りです。

 

 開導聖人は御教歌に仰せです。

①何ごとも気に入らぬこと(が)おほし これがうきよと観念をせよ

[十巻抄(四)・四五抄拝見(完)・扇全14巻450頁]

②何よりも達者(たっしゃ)でくらす御利益を こんなもうけはなしとよろこべ

[鄙振[ひなぶり]一席談・扇全9巻154頁]

③とるならば貪(とん)をはなちて信をとれ 信をはなちて貪をとるなよ

[開化要談(宗)・扇全13巻383頁]

 

②の御教歌の御題等

御題・経云、諸苦所因貪欲為本文

○貪欲は我身(わがみ)を破る斧(おの)也。

御書添え
○少欲知足

「悦ぶべきは人身(にんしん)を得、時機相応の大法にあふ事也」

③の御教歌の御題等

御題・貪欲苦因。諸苦所因貪欲為本文

御書添え「信をとらば諸苦一時に破る」

 

開導日扇聖人御指南

「迷ひの人の上のつたなさ愚かさは、唯(ただ)衣食住の三つ、名聞利養(みょうもんりよう)のためのみに一生を送りて、朝夕(ちょうせき)に営む所(ところ)多くは皆(みな)貪利(とんり)の為のみ。我等の上から之(これ)をみれば不便(ふびん)也。折伏せずしてあられんやは」[扇全13巻147頁]

「末代(まつだい)の愚人(ぐにん)は少欲知足を信唱にかふれば所願具足(しょがんぐそく)也」 [此三冊(上)・扇全11巻 298頁]

 

門祖日隆聖人御聖教

「欲には斉限(際限・さいげん)なし云云。されば貪欲をば水に譬(たと)ふるなり。何(いず)れも流行(るぎょう)を能(のう)として更に留(とどま)る処を知らざるなり」
[名目見聞抄第十二・刊527頁]

〈欲を追い求めても満たされることはなく、そのために苦しみを増すばかりである。際限のない欲に振り回されぬように心せよ。何といっても人間に生を受け、しかもこの真実の大法にお出値(であ)いして、堕獄の定業(じょうごう)を転じ、現当二世の大願を成就させていただける大果報をいただいた佛立信者となったのである。これほどの喜びはないと知らねばならない。「少欲知足」ということは難しいが、そこを御題目の受持信唱によって自然(じねん)に感得させていただくことが大切なのだ〉とのお意(こころ)です。

 

○思い通りにならなくても腹を立てない

 

 お役中のご奉公についていうなら、自分自身のことはもとよりですが、例えば、受持(うけもち)の組内のご信者が、中々思い通りにならない、折角の心が通じない、といったことがあったとしても、それで腹を立てて投げ出したり、叱り散らしたりしても、それではどうにもならず、却って事態が悪化してしまうことにもなりかねません。思い通りにならなくても、たとえほんのわずかでも得るところがあれば、まずそれを喜ぶ心を大切にする、そういうあり方も「少欲知足」のあり方の一つではないかと存じます。焦っても仕方がないのですから。そういう時こそ、落ち着いて、じっくり対処し、一歩一歩進んでゆくことも大切なのです。

 

○「少欲知足」の智慧こそ21世紀の人類共存の規範

 

 バングラデシュの貧(まず)しい村の出身で、自身も飢餓(きが)を経験し、後に世界の飢饉(ききん)に関する研究でノーベル経済学賞(1998年)を受賞したアマーティア・セン氏は、次のように指摘しています。

〈近年は、ほんとうの食糧不足が原因で飢饉が起こったことはなく、別の地域では余っている食糧が、それを必要とする人たちのところへうまく届かないせいで餓死者が出ているのだ〉

 

 これは戦争や紛争はもとより、大国や先進国のぜいたくやエゴのため、分け合えるものも分けない独占が起こり、そのために貧しい国や途上国の人びとが苦しんでいるという現実の矛盾を指摘したものです。ある試算によると、日本人は平均して最も貧しい国の人の約30倍ものエネルギーを消費して生活しているともいわれます。しかもそれでも満足せず、不満を持っているのですから、このままでは文字通り罰が当たっても当然かもしれません。何億人もの人が一日1ドル以下の総生活費で生きているというのに、同じその世界でありながら、一方ではペットまでが肥満で苦しむ、それが今日のこの世界なのです。

 

 宮崎駿(はやお)氏の作品『千(せん)と千尋(ちひろ)の神隠(かみかく)し』などが一貫して訴えているのも、実はこの「少欲知足」ではないかと存じます。氏は言います。「お互いに気を配れば、少しずつでも変わるんですね。(中略)誰かのせいにする方便はありますが、この社会っていうのはみんなの欲の集まりで出来上がっているんです。その欲をちょっとずつ抑えたら、ずっと改善されるのに」(毎日新聞 平成13年8月7日朝刊・「21世紀のレオナルド・ダ・ビンチ~地球を守る次世代へのメッセージ~第3回」より)

 

 そういえばあのアニメでは、ご馳走を貪(むさぼ)り食べた両親は豚になってしまい、それを救う千尋は、幼いながらも風呂掃除などをいとわない心や、財物にとらわれない心を身につけていく、そんなありようが基調にありました。

「中外(ちゅうがい)日報」の社説(平成13年7月28日)にも、「新たな人類の指針として、東洋の思想、とくに仏教の『少欲知足』の智慧が注目されている」として、足利工大教授・安原和雄氏の「少欲知足の智慧をどう実践するかが21世紀の日本の行く末を決める重要なポイント」だとの提言(『仏教経済研究』第29号所掲)が紹介されています。

「少欲知足」の教えは、佛立信心の身近な教え、規範としてはもとより、この世界の未来をも左右する大きな力・影響力を持っているのです。

 

○「小欲懈怠(しょうよくけだい)」はいけない

 

「少欲知足」の教えの大切さはこれまで記した通りですが、だからといって「小欲懈怠」はいけません。

 この「小欲懈怠」というのは同じく法華経の御文で「小欲懈怠なりと雖(いえど)も、漸(ようや)く当(まさ)に作仏(さぶつ)せしむべし」(五百弟子授記品第八・開結283頁)とあるのがそれです。

 

 欲を出すなといっても、それは求める対象によるわけで、二乗の如く、自分は小乗の教えで十分であり、それでも立派なものだと満足し慢心する一方で、「自分はどうせそんなものだ」と卑下し、「大乗の教えで自他の成仏を」という望みを持たず、小法に甘んじてそれでよしとしているのは、慢心と卑屈とが同居している心であって、それではいけない、それはやはり懈怠なのだと戒められる御文です。

 

 欲が貪欲となっては害であり(貪欲[とんよく]・瞋恚[しんい]・愚痴[ぐち]が人を害する三毒とされるのはこの意)これは抑制しなくてはいけないけれど、一方欲そのものは生存と向上の基礎、原動力でもあり、特に自他の救済・成仏を求める菩薩の願いは、それがいかに大願であろうとそれは自他を真に利するものですから、これを抑制する必要はないわけです。そこを誤解・混同してはいけないということです。

 

 なお「少欲知足」について付言すれば、

「未得(みとく)の事法(じほう)に於て多く求めず貪(とん)せざるを少欲といい、已得(いとく)の事法に於て少しく得るも満足するを知足という」(長阿含第十二)とある他、少欲知足の語は法華経以外にも大般涅槃経その他多くの経論に見られます。

 

 またさらに申せば、法華経が漢訳される以前の中国の老子(紀元前6世紀頃の人)の『老子道徳経』(現在最古のものは前3世紀頃までの成立)にも次の如くあります。

「甚だ愛(あい)すれば必ず大いに費(つい)え、多く蔵(ぞう)すれば必ず厚く亡(うしな)う。足るを知れば辱(はずか)しめられず云々」(講談社学術文庫『老子』145頁)

「足るを知る者は富む」(同書113頁)

 こうした「知足」の教え自体は東洋の智慧の底流として古くから存在したのです。

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