次はナポリです。移動方法として、初めは普通の鉄道を利用することになっていましたが、今年からフェラーリ高速鉄道「イタロ」が開通したとのこと、イタリアに来たからには、「フェラーリ」に乗らなければと思い、時速300キロで一路ナポリに向かいました。見よ!これぞイタリアン・レッドです。
ナポリはローマと違い漁業が中心の町、ザワザワとした下町の雰囲気が漂っていました。
ホテルにチェック・インすると、やはり思っていた通り、ローマのホテルと同額にもかかわらず、田舎町だからでしょうか?ランクは大違い、私は内心、少し優越感を取り戻します。
ホテルからのナポリ湾の眺めは素晴らしいものでした。ここで、付け加えますが、5月のイタリアは夜9時ごろまで太陽が燦燦と輝いているのです。1日の長いこと長いこと。こんな遅い時間まで大勢の小さな子供達が、外で遊んでいていいものなのだろうか?と感じながら、ナポリ湾の夜景を眺めていました。
翌日、アマルフィー海岸かカプリ島のどっちに行くかと、大いに迷いましたが、時間的にカプリ島に渡ることになったのですが、これからが大変。8時に朝食をとり、9時に水中翼船に乗船しなければなりません。この船の上下運動の激しいこと、食事をして間も無い船旅ですから、船酔いの人々のラッシュです。私の前の男性が立ったり座ったりしていたので何をしているか分からなかったのですが、次男から船酔いしない様にしているのだと聞かされて納得。
家族のまず最初の犠牲者は妻です。そして、船中で私がガイドブックを読んでいますと、次男が偉そうに、「おやじ、こんな時に本を読んでいると船酔いで、えらい目に合うぞ」と高飛車に言うではありませんか。偉そうに言うなと思いつつも黙って聞いていました。
しかし、カプリ島に着岸し、タラップを降りた瞬間に、偉そうに言っていた次男が、岸壁にへたり込んでしまったのです。そして船酔いもせず平気でいる私に向かって、「やっぱり、おやじが一番強いんだな」と感心していました。口ほどにもないと思い、ここで、また父親としての権威を少し取り戻します。
妻は、かなりの重症で、船酔いが回復するまで一時間以上もかかり、また、カプリ島周遊の小型船に乗船すると聞かされて顔がひきつっていましたが、どうにかこうにか乗船しました。パーフェクト・ブルーの海です。しかし残念なことに、この日は運が悪く、潮が高くて「青の洞窟」には入ることが出来ませんでした。未練 未練 観れん!この次こそ!―つづく―(R・K)
《平成26年に香風寺イタリア・フィレンツェ別院にて講有巡教が奉修されます。ぜひ皆さんお参詣しましょう!!》
本年5月18日より10日間、福岡日雙導師のお招きで、香風寺フィレンツェ別院にお参詣させていただきました。
前日の5月17日には、先住日宏上人の御13回忌を自坊でお勤めし、ローマ3泊、ナポリ3泊、フィレンツェ4泊の旅行日程を立て、15年ぶりの家族4人だけの気楽な旅行をさせていただきました。
長男はイタリア語を少々話すことが出来ますし、又、次男は昨年、イタリアに単身で旅行していましたので、言葉と地理が分かっていれば恐いものはありません。しかし、ここに親としての権威は失墜し、「長幼の序」は「幼長の序」となり、親子としての竪の関係は逆転してしまったことは事実であります。
さて、世界遺産の3分の1を有するイタリア、その首都であるローマのフィウミチーノ空港に13時間を費やし、喧騒たる空港でタクシーの運転手と料金的なこと(倍以上の値段を要求する)で長男がスッタモンダの交渉の末、ホテルに無事到着、と思いきや、フロントの男性から部屋のシャワーの調子が悪いから、同系列のホテルに移動して欲しいとのこと、又荷物を積み直して、やっとのことでチェック・イン。
翌日ウェスパシアヌス帝の命により紀元80年に完成した円形闘技場「コロッセオ」に向かう折、タクシーに乗ろうとしたところ、長男から「何故、タクシーなんかに乗るの?1ユーロ(約100円)で地下鉄は乗り放題なのに。」と言われて以来、移動方法は徒歩とバスと地下鉄が中心となりました。
やっとのことで、「コロッセオ」に到着、今まで見た写真と実物とでは大違いです。たどりつくまで遠いこと、遠いこと、大きいこと、大きいこと、中に入り、階段を登るのもひと苦労、降りるのもひと苦労、ヘトヘト、「地球の歩き方」そのものでした。
ローマでは他に、スペイン広場、サンタンジェロ城、ピエトロ大聖堂等を見学し、ローマ帝国がヨーロッパ全土を支配し、この国の文化がヨーロッパの基礎になったのかと思うと、あらためて、イタリアの歴史の深さに感心させられました。
ところで、私達の行動に話はかわりますが、親子という立場は逆転していますから、ユーロを所持しているのは息子達です。私達夫婦はポケットに、コインを所持しているだけで、ホテルの枕銭くらいしか持ち合わせていませんでした。たまりかねた私は「ネェ、ちょっとお金頂戴」とおねだりしなければならない有様です。
更に悪い事に、イタリアでは路上でタバコのポイ捨てなど平気で行われている公衆道徳の非常に悪い国にもかかわらず、近年、屋内は禁煙になり、それを知らなかった私はホテルのロビーの机の上に灰皿らしき物が置かれていましたから、タバコを吸っていますと、フロントの女性から、こっぴどく叱られまして顔面蒼白、親の権威は益々失墜してしまいました。
しかし、私の親としての権威失墜もここまで、と言いますのも、ローマ在中のホテルは息子がインターネットで予約したホテルでした。後のナポリ、フィレンツェのホテルは妻と二人で、インターネットで予約したホテルで、同じ金額にもかかわらず、息子が予約したホテルは日本のビジネスホテルに毛が生えたくらいのものでした。私は「今に見ていろ」と腹の中で、虎視眈々と臥薪嘗胆の思いで親の権威回復の時機が来るのをじっと待っていました。なんやかんやあった「ローマの休日」はまたたく間に終わりました。―つづく―(R・K)
【写真はコロッセオ】
《平成26年に香風寺イタリア・フィレンツェ別院にて講有巡教が奉修されます。ぜひ皆さんお参詣しましょう!!》
去る5月24日、東京都立葛西臨海水族館から3月に脱走し、行方不明になっていた、絶滅危惧種のフンボルトペンギン1羽が、江戸川河川敷で休んでいるところを、駆け付けた同園職員によって捕獲・保護され、約3か月ぶりに園内に戻ったという。
このペンギンは生後1年3か月で体長は脱走時と同じく約60センチ、体重は約3280グラム。他のペンギンとほぼ同じくらいだとか。ただし、脱走中、江戸川河口や晴海沖などで、自力で泳ぎ回って餌を獲っていたからか、胸の筋肉等がたくましくなり、全体にマッチョになっていたという。
私は、実はこのニュースにかなり感動した。近来稀な良い話、快挙ではないか!
きっと、このペンギンは元々は野生で、それが捕獲されて日本の水族館に連れて来られていたのだろう。だとすれば、ペンギンが脱走したいのは当然だ。いくら労せずして毎日餌を与えられたとしても檻の中、外には危険があったとしても、やはり自由に生きたいだろう。ただ、必死で脱走した場所は、故郷を遠く離れた東京湾内…仲間も居らず、たった一羽で生きるしかなかった。それでも、3か月間も頑張ったのだから偉いではないか。彼らの3か月は、人間なら何年間にも相当するのではなかろうか。
フンボルトペンギンは、フンボルト海流が流れ込む南米のペルーからチリの海岸に暮らしているペンギン。野生種は約1万羽にまで減少しており、絶滅危惧種〔レッドリスト〕の中でも「危急」 〔VU-Vulnerable〕に指定されている。しかし、私が感動したのはこの小さなペンギンが見せた野性的な生命力であり、生き抜こうとする逞しさだ。 昨今、日本人は世界中から「温室育ち」だと見られている。最もひ弱だと思われているのも日本人だ。確かに、海外で、すぐに腹をこわしたり、寝込んだり、泥棒の被害にあったり、騙されたり…。若者の姿勢が一番悪いのも日本人だといわれ、何かのトラブルに遭っても、毅然として対処しようとしないのも日本人。要は日本人は軟弱だと思われているわけだ。もちろん、全部がそうではなく、例外もあるだろう。
でも、残念ながら、概してそういう評価なのだ(因みに、多くの国では、スリや置き引きをする人間も悪いが、される方も間抜けだと思われている)。 そういえば、私がまだ幼いころ、日本の田舎では、犬も猫も半分は放し飼いみたいなものだったし、鶏だってそうだった。そして、あの頃の犬も猫も鶏も、子供たちも、もっと生き生きとして逞しかったように思う。
何しろ、鶏だって、暗くなって眠るときには、かなり高い木の枝などに飛び上がって眠っていた。だから、あの頃の鶏は逞しく、肉も旨かった。子供たちも、今よりは体格は劣っていても、元気で体力があり、頑丈だったのではないか? 「可愛い子には旅させよ」とはよく言ったものだ。
今の日本人が、脱走したフンボルトペンギンから学ぶことは、きっと沢山あると思うのだ。ペンギンが話せないのが残念。もしも口がきけたなら、研究所の講師に招きたいくらいだ。(J・M)
<写真はウエスティンホテル大阪にて [梅田の早い七夕飾りとスカイビル]>
早くも1月が終わろうとしてます。光陰矢の如しですね。
今年は特に冷え込みが厳しいようで、年末に生けた本堂ロビーの生花もようやく満開です。
特に梅が良い香を放っております。
2月は門祖聖人の549回目のご祥月ご命日。明年は、いよいよ550回御遠忌御正当の年!
前進前進また前進の気概で頑張れねばと、心には思う次第。息切れが心配です。(S・N)
『巨人軍は紳士たれ!』とは巨人軍の初代オーナー正力松太郎氏の言葉です。確かに巨人軍の選手はたとえ若手であっても茶髪に染めたり無精髭を生やしたりと、チャラチャラした選手は一人もいない。その点紳士的な球団と申せましょうが、今日勃発したフロントのいざこざ、所謂〝清武の乱〟といわれる一連の騒動はお世辞にも〝紳士的行為〟とは申せますまい。
少年時代よりの巨人ファンである私にとっても情けない限りで、初代オーナーもさぞや草葉の陰で嘆いておいででしょう。しかし何故斯様な醜態を晒す結果に陥ってしまったのか?それは偏にその初代オーナーの理念が言葉のみでしか伝えられていなかったが故と申さざるを得ません。松太郎氏存命中は殊細かく具体的にその理念を語られたと思われますが、しかし如何せん言葉のみで〝明文化〟された物が残されていなかったが故に、没後何十年と経ってしまえばその精神や理念も消え失せてしまうというのは有る意味当然の帰結といえるでしょう。
さて今回、寒夏の御法門テーマとして久方ぶりに〝宗風の実践〟が採り上げられました。十五世日晨上人のお言葉にも有る如く、宗法はいわば佛立宗の憲法であり、日本国憲法にもその内容を集約して示された〝前文〟というものが示されております。佛立宗の憲法たる宗法の前文に相当するのが〝宗綱〟で、その宗綱の第十三条としてこの〝宗風〟が示されているのであります。宗綱の前十二条は即ち佛立宗の〝法〟を集約して示されたものであり、第十三条の〝宗風〟はいわば佛立宗の〝人〟即ち〝ご信者らしさ〟或は〝佛立信徒の理想像〟、更に先の正力松太郎氏の言葉を借りれば宗風とは〝佛立信徒は菩薩たれ〟という理念を具体的に〝明文化〟されたものと解釈させて頂けます。
顧みれば、宗綱も宗風も昭和五〇年代に断行された宗制の抜本的な大改正の折に付加されたものであります。時の宗務総長は後に十八世講有となられる西村日地上人です。ご自身の義父に当たる十五世講有日晨上人のご依命を受け、敢て宗綱にこの宗風を盛り込まれたのであります。ひと口に〝ご信者らしさ〟といっても抽象的です。自身が存命中なれば殊細かく教導も出来ましょうが、一旦世を去った後、果たしてこの理念や精神が如何程迄に継承されるか否か?そう心労なされた日晨・日地両上人は〝ご信者らしさ〟という言葉のみではなく敢て〝宗風〟という〝明文化〟された形で、しかも宗制の最も重要な〝宗鋼〟の一部としてお遺しなされたのであろうと推測させて頂けます。今日二十数年ぶりに寒夏の御法門テーマとして採り上げられる事が出来たのもそのお蔭と申せましょう。
両上人のご慧眼と御威徳に心から敬服・感謝させて頂くと共に、その理念や精神を言葉のみの継承で終らせて仕舞えば誠に勿体無くも申し訳ない!と自身にも言い聞かせ、この寒夏の御法門を拝ませて頂いた次第であります。(R・K)
ご縁をいただいてフィリピン信徒の担当としてご奉公させていただいてから一年が経った。今までの出張ご奉公は3回にわたるが、渡航するたびに衝撃を受けるというか、信心というものの原点を肌で感じるような体験をすることばかりである。
昨年9月にマニラにおいて定例御講を教区長宅で奉修させていただいたが、その中に赤ちゃんを連れている婦人(年齢は恐らく20代)がお参りしていた。御講の終わった後に教区長から紹介され、「この方はご信者ではなかったのですが、入信したい申し入れがありましたので御本尊の奉安をお願いします」とのこと。「これは有り難い」と、早速翌々日にご自宅へ伺い、四畳ぐらいの部屋を寝室とダイニングの二間に分けた感じの部屋のダイニングのほうに御本尊奉安。自分をふくめ大人5人が押し詰め状態でお看経。その部屋の住人はその婦人と赤ちゃんだけ、いわゆるシングルマザーの家庭。
その時初めて知ったのだが、このご婦人は過去に2回ほど御講にフィリピン信徒に連れ参詣され、今回が3回目の参詣だったとのこと。そのご婦人曰く「HBS(本門佛立宗)のご信心は、自分のことしか願わない宗教ではなく、人のために願う、人の幸せを祈る宗教だからホンモノのご信心だと思った」と、これが入信の動機になったとのこと。
フィリピンの一般の現地人はいわゆる貧困層がほとんどで、このご婦人も例外ではありません。頼りになるはずの夫もいなければ、床が抜けてしまいそうな質素な部屋で暮らしており、自分たちがその日食べていけるかどうかと思われるなか、唖然とした自分の開いた口がふさがらなかった。
その日を生きるのが精一杯の状況下で「人のために願う、人の幸せを祈る」ことに合点がゆきホンモノだと感じたことに、逆に感銘し、教えられた。いつも「人のことを願う菩薩心」が大事と御法門を説いてきた立場にありながら、自らの命をつないでいけるかどうかという状況下で、自分自身は本当にそう思えるかどうか― 当初、フィリピンで「人のために菩薩行を」と説いても、食べることすらギリギリの生活を強いられている、貧しい現地の方に受け入れられるのかと懸念していた。しかしこのご婦人の意外な言葉を聞かされ、当宗の教え、み仏のお慈悲はやっぱり嘘じゃない、ホンモノのご信心だと感じると同時に、自分自身の「甘さ」も浮き彫りになった感があった。
本当に命がけで、一生懸命に生きているからこそ、「菩薩心」の大事なことに納得したのかも知れない。そんなホンモノのご信心に合点がゆき、入信を決意したこのご婦人は「ホンモノの菩薩」の感性を具えた人といえよう。(S・K)
「お月見の頃に茎を切ってヘチマ水を取ります」と坂本さんに教えていただき通り、御会式前に茎を切った。青々と茂ったヘチマもあっという間に枯れ、壁に張り付いた茎も難なく外れた。ヘチマは15本ほど実ったが、一部は刻んで日曜日のお供養のお味噌汁に入れ、あとは水につけて皮をふやかした。根からの茎は一升瓶が取り付けられヘチマ水が取られた。 ヘチマの実はその後、乾かして皮と種を取り除き、「ヘチマたわし」に変身した。ヘチマ水は精製されて「天然100%のヘチマ化粧水」へと変身した。11月13日(日)教養会総講の折に100本のヘチマ化粧水と数十個のタワシは「口引き」で分けられた。いただいたご信者は冥加料を納めた。この冥加料は震災の義援金に加えられた。 いよいよ、「ヘチマ化粧水」を試す時がきた。婦人会は「きっと坂本さんのようにきめの細かい美しい肌になる」と夢見ている。 「来年はもっと沢山植えましょうか」量産体制を考えている婦人会もいる。坂本さんは「同じだけ植えても来年は倍はとれますよ。今年よりも土が肥えているはずですから」と。
ヘチマ三兄弟は、私たちの目を楽しませ、実りを残し、来年への手回しもしてくれた。 ヘチマ三兄弟、ありがとう! 完 (S・O)
さて、『光陰矢の如し』とよく言われますが、我々教務さんはご信者の年忌をお勤めする際に〝もうそんなに歳月が経ったのかぁ〟と感慨に耽ることがまゝあるのではないでしょうか?先般私の祖母の23回忌の法要を無事お勤めさせていただきましたが、その祖母が亡くなった時のちょっとしたエピソードをお話致します。
その日私は先住の随行兼運転手で母親共々親子3人、綾部清現寺の御会式に御参詣させていただいておりました。無事御会式も終わり、その夜の宿である城之崎温泉の旅館に向け、温泉とカニ料理を楽しみにひた走って無事到着致しました。しかし駐車場の場所を聞きに行った両親が怪訝な顔をして車に戻ってくるのです。「おばあちゃん亡くなったんやてぇ」「ええ!!!!・・・・」私は頭の中が真っ白になりました。
実は我々が出発した直後に清現寺さんに連絡が入っていたのですが、携帯電話など無かった当時の事、道中連絡を受ける術は無かったのであります。温泉とカニ料理の楽しみは水の泡、旅館の方は祖母が亡くなったことをしりませんから無事旅館に着いたと言うことで、出してくれた〝縁起物〟の昆布茶だけを頂き、とんぼ返りで帰路に着き、結局その日は日帰りで500キロもの大移動となったのです。『あれからもう22年も経ったのかぁ。あの頃俺も若かったなぁ』と感慨ひとしおの一日でございました。
ちなみに私は過去4回城之崎を訪ねておりますが、一度家族旅行で訪ねた折、現地で発病してカニをひと口も食べられなかった事もございました。4回のうち2回もカニを食べ損なったとは!城之崎は私にとって鬼門なのでしょうか?ほんとは城之崎ではなく〝鬼〟之崎って書くのでは????????(R・K)
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