○仏祖のみ教えを定規として心を一つに
先月まで二回にわたって「懺悔の大事」のテーマで記し、『妙講一座』の「五悔(ごげ)の要文」を中心として、当宗の懺悔について概説いたしました。そこで申しましたのは〈『妙講一座』の五悔の要文は、全体として「凡夫から菩薩への生まれかわり、成長の姿」として頂戴することができ、そこに当宗信者のあるべき姿、モデルを拝見することができる。そして、そういう拝見のしかたも『妙講一座』に対する私共の理解を助ける上で有効な方法ではないか〉ということでした。また世間では懺悔というと暗いイメージで受け取られる傾向があるけれど、元来は「深い反省と改良」であり、本当の懺悔ができるということは、むしろその人にとっての「改良と成長の基(もとい)」であり「精神の若々しさの証明」であるとも申しました。なお先月記した「懺悔の基本的要素」の中で、凡夫を「方角を誤った旅人」に譬えましたが、これも懺悔の基本を理解する上で大切なことですので、少し補足しておきたいと存じます。
当宗における最も根本的な謗法は「妙法に対する不信・違背」です。正しい信心は、御本尊(妙法)に向かってまっすぐに正対し、迷うことなく素直に求め進み続けるものです。そういう姿勢やあり方を、正しい目的地に向かう旅人に譬えたのです。目的地に向かって正対し、まっすぐ進むことが大切で、それを導いてくれる案内書が先師の「御指南」です。「指南」とは元来「磁石」「コンパス」の意で、古代中国で磁石を車に乗せ、これを「指南車」といって南北の方位を確認しつつ進んだことに由来する言葉なのです。
例えば南にある目的地に誤りなく到達しようとするなら、何よりもまず南に向かって、その方角を見失わないようにして進み続けることが肝心です。「無始已来の謗法」というのは、過去遠々劫来(おんのんごうらい)今日まで、ずっと御題目に背を向けてきた(これを法華違背(ほっけいはい)と申します)、意識の有無に関係なく背(そむ)いてきた(御法を謗る=謗法)ことを意味します。根本的な罪とその障り(罪障)は他でもないここに起因するものです。この違背(方角違い)の誤りを自覚し、深く反省して方角を正す(心の向き。信心の改良)と共に改めて正しい方角に向かい、目的地に到達するまで(仏身に至[いたる]まで)、もう迷わず進み続けることを誓うのが、他でもない「惣(そう)懺悔文」ともいわれる「無始已来」の御文なのです。
「謗法の根本は角度にある」というのはこういう意味です。ちなみに、角度・方角というのはほんのわずかの相違や狂いでも場合によっては大変なことになります。最近NHKで「シルクロード」のシリーズの再放送をしていますが、その一つで、沙中の古代遺跡を求めた探検隊のキャラバンが、コンパス(羅針盤)と古い地図だけを頼りに進んでいたところ、わずかの誤差で遺跡の五キロ横を通り過ぎ、道を失って大変危険な状態になった姿が紹介されていました。不案内な旅で、不正確な地図を頼りにすると現地の案内人ですら、わずかの角度の違いで恐ろしいことになるのを改めて教えられたように存じます。
まず御題目(御本尊)に向かって自らの信心の角度をぴったりと定めること。そして仏祖のみ教え(御指南)を定規として、方角を誤らないように進んでゆくことが大事なのです。懈怠(けだい)は進むのを怠ることですから、角度を誤る(根本謗法)のに次ぐ謗法になります。「懈怠は謗法」というのはこの意です。その他の大小様々な謗法は、不信・疑迷(ぎめい)や懈怠に付随して出来(しゅったい)するものです。
さて、先程、シルクロードのキャラバンのことを記しましたが、例えばこうした困難な旅で目的地を目指す場合に、もう一つ基本的に大切なのがその集団一行が心を一つにしていることです。これを信行用語で「異体同心(いたいどうしん)」と申します。先のキャラバンでいえば、隊長はじめ隊員(学問的な専門家、コンパスの係、医師、物資・資材の係、現地案内人、通訳、ラクダの御者等々)やラクダまでが一心同体の強固なチームワークを組んで目的地を目指します。もし何かあれば全員の命に及ぶ危険を共にしているのですから、その大切さは想像に難くありません。共々に成仏という大きく困難な目的地への到達を期すお互い佛立教講にも、実はこのキャラバンと同様の異体同心・一心同体が求められているのです。
○異体同心の要件は共感と信頼
異体同心について高祖日蓮大士は次のごとく仰せです。
「異体同心なれば万事を成(じょう)じ、同体異心なれば諸事叶(かな)ふ事なし。(乃至)日蓮が一類は異体同心なれば、人人すくなく候へども、大事を成じて一定(いちじょう)法華経ひろまりなんと覚おぼ)(へ候」 (異体同心事・昭定八二九頁)
「総じて日蓮が弟子旦那(だんな)等、自他(じた)彼此(ひし)の心なく水魚(すいぎょ)の思(おもい)を成(な)して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱(となえ)奉る処(ところ)を生死(しょうじ)一大事の血脈(けちみゃく)とは云ふ也。然(しか)も今日蓮が弘通する処の所詮(しょせん)是也。若し然らば広宣流布の大願も叶ふべきものか。剰(あまつ)さへ日蓮が弟子の中に異体異心の者これあらば、例せば城者(じょうしゃ)として城を破るが如し」
(生死一大事血脈抄・昭定五二三頁)
「異体同心」は一般的には「夫婦・朋友などの心が相一致していること」(諸橋・大漢和辞典)だとされますが、当宗の意味はただそれだけではありません。凡夫が凡夫の心で心を一つにする同心ではなく、仏祖のみ心、み教えを一人ひとりがいただくことを根幹として、心が一つになることであり、その目的は自他の成仏つまり妙法弘通による浄仏国土の実現なのです。端的に言えば、「日蓮と同意(どうい)ならば地涌(じゆ)の菩薩たらんか」(諸法実相抄)の「同意」となることなのです。
宗風第九号(異体同心)に「宗門人は異体同心のけいこを常に心がけ、家庭内の信心増進と役中の結束、僧俗一体の本旨を発揮し、弘通の大願成就につとめる」と定められているのも同じ意味で、同第十号の「浄仏国土」を期しての「異体同心」なのです。
「異体同心」が大切であると同時に、それが破られることの恐ろしさは原始仏教教団以来説かれてきたことで、仏教説話にもそれを説くものが多数あります。そのいくつかを紹介しておきます。
①「雪山(せっせん)の共命鳥(ぐみょうちょう)の話」
雑(ぞう)宝蔵経第三巻(大正蔵四巻・四六四頁上)
昔ヒマラヤに体は一つで頭が二つある共命鳥がいた。ところがある時、一つの頭が美味しいものを食べるのを見て嫉(ねた)んだもう一方の頭が、相手を苦しめようと毒を食べた。結果相手も自分も一緒に死んでしまった。
②「蛇の頭と尾の話」
百喩経第三巻(大正蔵四巻・五五一頁上)
ある時、蛇の尾が頭に向かって「いつも頭が先に進み尾がついていくのは面白くない。一度尾を先にして進ませろ」と言い、近くの木の幹に巻きついて進めなくしてしまった。仕方なく頭が折れ、尾が喜んで先になって進んだところ、たちまち火の坑(あな)に落ちこんで、その蛇は焼け死んでしまった。
③「鴿(はと)の夫婦の話」
百喩経第四巻(大正蔵四巻・五五七頁上)
ある処に仲のよい鴿の夫婦がいた。秋、冬に備えて二羽で木の実を巣一杯に蓄えたが、日を経るにつれてカサが減り、半分程になってしまった。雄は雌がかくれて食べたのだと思い込み、雌の必死の弁明も許さず突つき殺してしまった。ところがその後数日して雨が降ると、木の実が水気を吸って元通りの量に戻った。これを見て雄は誤りに気付き嘆(なげ)いたが、もう取り返しはつかなかった。
①は一体の組織で嫉むことの愚かさを、②は役割分担の大切さを、③は疑いと怒りの恐ろしさや、落ちついて真実をよく見定めることの大切さを諭(さと)すもので、いずれも異体同心の具体的なありよう、視点を教える説話です。
近くは日本の第一次南極越冬隊の隊長を勤め、日本隊初の南極越冬を成功に導いた故・西堀榮三郎氏の例も紹介しておきましょう。
西堀氏は「雪山讃歌」の作詩者といえばわかり易いかと存じます。旧制三高の時代に来日したアインシュタイン夫妻の京都での案内役を勤めたことが物理学等へ向かうきっかけともなった由で、京大の助教授までなりながら、「もっと多くの人の役に立ちたい」と民間会社に入り、国産真空管第一号となった「ソラ」を発明。その後も様々な発明をし、日本山岳会会長、日本ネパール山岳会会長も歴任。チョモランマ登頂に際しては総隊長となり、七十歳を超えて自力で五千メートルまで登って指揮をした方です。同氏が次のような言葉を残しているのです。
「チームワークの要件は、目的に対する共感、誇りと恥の意識である。(中略)抜け駆けの功名では、困難な仕事は達成できない」
「同じ性格の人たちが一致団結していても、せいぜいその力は『和(わ)』の形でしか増さない。だが、異なる性格の人たちが団結した場合には、それは『積(せき)』の形でその力が大きくなるはずだ」〈プロジェクトX『リーダーたちの言葉』 NHKプロジェクトX制作班・今井彰・文芸春秋刊・一三三頁〉
「異体同心」とは、浄仏国土を目指して心を一つにするという、この上なく大きな目的の達成を期したプロジェクトにおいて求められる「構成員の結束」、「チームワーク」だとも申せます。教務はもとより、お役中やご信者も、各自がそれぞれプロジェクトの各部門や各レベルの指導者であり構成メンバーであるわけです。キャラバンも、越冬隊も、登山隊も、同じところがあるわけです。そこで求められるのが、まず同じ目的に向かう「共感」であり、相互の「信頼関係」なのであって、これを破り崩す行為がチームワークの大敵となるのは当然です。共感と信頼を破ることに対する「恥」を知る意識が重視されるゆえんです。これは日蓮大士が「城者(じょうしゃ)として城を破るが如き」行為を背信、裏切りとして忌まれたことと通じます。これが仏教で古来「五逆(ごぎゃく)罪」(①殺父[せっぷ]②殺母[せつも]③殺阿羅漢[せつあらかん]④出仏身血[すいぶっしんけつ]⑤破和合僧[はわごうそう])の第五、最大の罪悪として無間(むけん)地獄に堕(お)ちる罪とされたのもうなずけます。開導聖人が『常講歎読滅罪(じょうこうたんどくめつざい)抄』で、信者堕獄の三箇条として「第三下種の教相(きょうそう)習い損じの事」と「人法一箇(にんぼういっか)といふを忘れて人(にん)を捨(すつ)るの事」に次いで「異体同心と口にのみいひて我慢つよく同破(どうは)の事」と厳しく誡められる理由もここにあります。ここでいう我慢(がまん)とは、凡夫の我執、慢心であり、仏祖のみ教えに素直に随従できない心です。凡夫の我(が)、私(わたくし)の考えが同破(破和合僧)つまり異体同心を破る主たる要因だと仰せなのです。
教務はもとより、お役中、ご信者一人ひとりが、仏祖のみ教え、御指南をこそ定規として我・私の考えを抑(おさ)えて結束を図ることが大切なわけで、特にメンバー、構成員の信頼を破り疑念を生ぜしめるような言動・振る舞いは結局「共感」を失わせ、同破に至らしめる行為となる点で、よくよく注意が必要だと申せます。
佛立教講ももちろん十人十色で、顔も違えば性格や能力も違い、年齢や経験、信心の厚薄(こうはく)も文字通り千差万別です。しかし、そのような異なる性格や能力の人が一つの目的に一致団結すれば、同じような人がただ集まっても単に足し算の和(わ)にしかならないのに比べて、掛け算の積(せき)の如く大きな力を発揮し得るのです。
相違を認めつつ、信心のみ教えにおいて、弘通の大願成就という大目的に向かって、異体同心になることの偉大さ、大切さはここにあると申せます。
開導聖人の御教歌・御指南を最後に頂戴しておきます。
○御教歌
むかしより味方のこゝろそろはずに
軍(いくさ)に勝(かち)し事はあらじな
「当講の盛衰、心の同不同による」(開化要談十・扇全十三巻二四六頁)
○御教歌 御題・人数の多少によらず異体同心は御弘通の基本也
中々にみのり弘むる邪魔ならん
異体異心の人の多きは
「組長の徳・不徳によること也」(御弟子旦那抄下・扇全十四巻八六頁)
○「されば信者といへども異体同心の信義なき人は、仏にも祖にもいつはる人也」
(教導要義一・扇全十六巻八一頁)
○御教歌 御題・信心の厚薄(こうはく)
人心(ひとごころ)其(その)人々にちがふ也
おなじかほなる人しあらねば
(鄙振[ひなぶり]一席談・扇全九巻一五三頁)
「異体同心の信義」が大切であり、「組長の徳・不徳によること」だとも仰せです。これは特に教務やお役中などリーダーたるべき者が信義に悖(もと)る言動をし、背信的な行為を行えば、信頼関係を損ない、共感を失わしめることとなって、結局「同破」の罪を犯すことになるから十分心せよという誡めであり、「徳・不徳による」というのもその意味での「信頼関係の有無」を問うておられるのだと拝見いたします。第一回目で「信心に基づく公正さを大切に」と申しあげたこととも密接に関係するのが「異体同心」なのです。
今年は11月7日が「立冬」だったって。この写真はその前の撮影です。福岡も11日朝から急に寒くなってますから、カマキリももう死んでしまっているかもしれませんけど…。 こんなアブチロンの花で待ち伏せしてるのは、ホシホウジャクの仲間を待っているのかもしれませんが、そう簡単には捕食できないだろうと存じます。(J・M)
これは「台湾ホトトギス」かもしれませんけど…。ホトトギスはユリ科の多年草で、多くの自生種や園芸品種があります。花の斑点が、野鳥のホトトギスの胸の斑点に似ていることが、この花の名前の由来だとされています。また「ホトトギスの吐血」という中国の故事に由来するという説もあります。さてどうでしょうか?(J・M)
ウチの彼岸花は、今年は、例年よりも遅れて、お彼岸も過ぎた10月初旬に満開になりました。リコリスの仲間で、真っ赤な原種の他に、白(クリーム色)や鮮やかな黄色など、園芸用の改良品種もあります。真っ赤な原種は、全草が弱毒だって言われてましたが、昔は凶作の年には、球根を掘出し、上手く毒抜きをして食糧にしたとか…? ホントかな? ドングリも水にさらして渋みを抜いてから、食べたそうだけど…。これはホントみたいです。(J・M)
サルナシは古くから日本の山野に自生しているキィウイの仲間で、「猿梨」って表記するのかな?山の谷合などに自生しているツル性の木本[もくほん]です。猫の好きなマタタビとは違います。サルナシの実は青いママで熟して甘くなり、人間も皮ごと食べられます(キィウイの仲間だから、上下の堅い部分は食べられませんけど…)。ウチのサルナシは植木屋さんで入手した「オオミのサルナシ」(海外から来たベビー・キィウイかもしれません…)で、今年はなぜか沢山実をつけました(一株だけしか植えてませんが…。ちなみに、昨年はゼロ)。実の大きさは縦15ミリから20ミリ、横10ミリから15ミリくらいの円筒型で、表皮にはほとんど毛がなくつるっとしてます。もう暫くすれば甘くなりそうです。「ベビー・キィウイ」はカリフォルニアやニュージーランド辺りの呼称みたいで、秋になると日本の果物屋さんでも「ベビー・キィウイ」(カリフォルニア産かな?)の名前でパックして売ってますから、注意してご覧ください。(J・M)
小さな水槽[縦と奥行共に20センチ弱で幅45センチ]ですが…。エビ(ビー・シュリンプのビーは英語ではミツバチのことかな?いずれにせよ、体長1センチ前後の小さなエビです)だけしかいないし…元気です。(J・M)
―改良と成長の基(もとい)・精神の若々しさの証明―
○懺悔の基本的要素
先月号では、懺悔こそ信行生活の基本精神であり、『妙講一座』の「無始已来」の御文から「願くは生々世々」の御文までの全体(五悔[ごげ]=懺悔、勧請[かんじょう]、回向[えこう]、随喜[ずいき]、発願[ほつがん]の各段の御文)を一貫し、通底するのも他ならぬ懺悔の心であることを概説して、この御文全体を、「凡夫から菩薩への生まれかわりの姿」として頂戴し、あるべき信者の姿、モデルとしていただくのも、『妙講一座』に対する私共の理解を助ける上で有効な、一つの拝見の仕方ではないかと申しました。
今月は「懺悔そのものの意味」について記すのですが、これも理解と整理を助けるために、「懺悔」を、その基本的な要素に分かって説明してみたいと存じます。
天台大師は「懺とは先悪(せんあく)を陳露(ちんろ)するに名(なず)け、悔とは往(おう)を改め来(らい)を修(しゅ)するに名く」(摩訶止観第七下)と釈されています。先悪とは今日までの過去に犯した悪業(あくごう)のことです。陳(ちん)とは申し述べる、言葉で説明する(開陳、陳述、陳弁)する意であり、露とはあらわにする(吐露、暴露、露出、露見)意ですから、陳露とは、これまで覆(おお)い隠され、知られずにきたことを、誰にもわかるよう余さず露(あらわ)にし、隠さずすべて告白することです。
告白の相手は第一に御宝前(仏祖)であり、第二に人びと(お教務・ご信者方)です。
「往を改め来を修する」とは、来(こ)し方・過去の反省をふまえ、その償(つぐな)いとして、今後未来にわたって善行を実践することです。もちろんこうしたことの前提として「罪の自覚」を要するのは当然です。
要は「罪の自覚とその告白、そして深い反省に基づく改良の実践」が懺悔の基本的な要素なのです。
○佛立宗の懺悔
A 何を懺悔するのか
・根本の誤り(謗法罪)の自覚とその修正の大事
まず懺悔すべきは妙法不信(謗法)の罪です。お互いの命の根源ともいうべき妙法を信ぜず、誤った生を繰り返す中で重ねた罪(根本罪障)を懺悔するのです。しかし、この罪の自覚は容易ではありません。罪障が自覚を妨(さまた)げているからです。ですから、罪が自覚できず妙法を素直に信受できないことが、お互いの魂が罪で汚されている何よりの証拠だと知らねばなりません。それはあたかも、アルコール症の中毒患者が自分では自覚し難いのと同じです。ましてや周囲がみな同じ病気なのですからなおさらです。
お互いは「方角を誤った旅人」、あるいは「脱線した列車」にも譬えられます。進んでいるつもりが、目的地からは離れるばかり、いや前進すらできず無駄な労力を費やしているのです。一刻も早くそれに気付き、方角を正し、レールを復旧して乗せ直さねばなりません。根本さえ正せば、ずっと楽に本来の目的地に到着できるのです。ではどうすればこの罪障を消滅させていただけるのでしょう。
B どう懺悔するのか
・口唱即信心 経力で罪滅
妙法口唱こそ唯一まことの懺悔の方法です。背離してきた源に還ることです。自覚できず、信受し難いお互いですが、強いてまず口にお唱えするのです。永遠のみ仏の命が、口業[くごう](声)を通してお互いの魂の底の底にまで達し、眠っている本来の生命を揺り動かし、呼び覚ますのです。これが妙法の経力です。我執(がしゅう)を押え、とにかく口唱信行を実践することが大切です。坐禅、苦行、読誦その他の修行は、脱線した列車をそのまま押すのと同じです。
○改良と成長の基(もとい)―精神の若々しさの証明
開導日扇聖人は御指南に仰せです。
「懺悔の心起(おこ)る時には我(が)なし。我を捨(すつ)る時に信起る。信起る時御利益を頂く。御利益を頂て弥(いよいよ)信を生ず。懺悔の心の起る時最初也」
(開化要談九・扇全十三巻二二〇頁)
「懺悔改良といふ其こゝろは、こぞの古葉残りなく落(おち)て若葉さすみず(瑞)枝(え)のごとし。古葉残りなくと云々 心を留(とどめ)よ。のこりなきを懺悔といふ。若露塵斗(もしつゆちりばかり)も旧弊(きゅうへい)の悪あれば懺悔しても御利益なし」
(見せばやな・扇全九巻七七頁)
一般には、懺悔というと暗いイメージを伴うようです。そこでこれを茶化して反対に笑いを誘っているテレビ番組もあります。しかし法華経本来の懺悔の根本には生命の躍動する輝きがあるものです。人間としての本当の成長=生の充実をもたらすものだからです。真の懺悔は苦悩を伴います。しかし、その苦悩の向こうには明るい新たな地平が開けているのです。その意味で懺悔は、本来の自己に目覚める自己改革の営みであり、成長の母胎なのです。そんな懺悔ができるのは、精神の若々しさ、柔軟さの証明だとも申せましょう。
凡夫の「我(が)」「慢心」を捨て切り、たとえほんのわずかでも悪を残さないのが肝心であるとも仰せですし、「去年(こぞ)の古い葉を全て落とし切ってこそ、瑞々(みずみず)しい若葉や若枝が出てくる」との譬えも新鮮です。例がよくないかもしれませんが「何一つ残さぬことが大切」というのは、サラ金などの借金にも似ているのではないでしょうか。
○常日頃の懺悔の大事
着物を着れば知らぬ間に袂(たもと)にごみがたまります。人間も生きて活動している以上、必ず過(あやま)ちを犯しているのです。また、御戒壇(ごかいだん)には毎日塵(ちり)がつもりますが、それを日日ふきとっていけば光ってきます。ほおって置くと駄目になり、常に改めていけば次第に輝き出すのがお互いです。日常平生の懺悔の大切さも忘れてはなりません。
最後に「宗綱」第十三条(宗風)第七号「懺悔」の条文も掲げておきます。
「『懺悔(さんげ)は起信(きしん)のスガタ也』のみ教えを体し、妙講一座の要文(ようもん)に示された看経勤行(かんきんごんぎょう)によって常に心を清浄(しょうじょう)にし、改良と信心向上につとめ、経力(きょうりき)、仏力(ぶつりき)を蒙(こうむ)る滅罪生善(めつざいしょうぜん)の口唱行に励む。」
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