イタリア紀行②
2012年11月17日(土)
 

次はナポリです。移動方法として、初めは普通の鉄道を利用することになっていましたが、今年からフェラーリ高速鉄道「イタロ」が開通したとのこと、イタリアに来たからには、「フェラーリ」に乗らなければと思い、時速300キロで一路ナポリに向かいました。見よ!これぞイタリアン・レッドです。
ferari-itaro.JPG
300km-800×600.jpg

ナポリはローマと違い漁業が中心の町、ザワザワとした下町の雰囲気が漂っていました。

ホテルにチェック・インすると、やはり思っていた通り、ローマのホテルと同額にもかかわらず、田舎町だからでしょうか?ランクは大違い、私は内心、少し優越感を取り戻します。

ホテルからのナポリ湾の眺めは素晴らしいものでした。ここで、付け加えますが、5月のイタリアは夜9時ごろまで太陽が燦燦と輝いているのです。1日の長いこと長いこと。こんな遅い時間まで大勢の小さな子供達が、外で遊んでいていいものなのだろうか?と感じながら、ナポリ湾の夜景を眺めていました。

kazan-yorunonaporiwan-800×600.jpg

翌日、アマルフィー海岸かカプリ島のどっちに行くかと、大いに迷いましたが、時間的にカプリ島に渡ることになったのですが、これからが大変。8時に朝食をとり、9時に水中翼船に乗船しなければなりません。この船の上下運動の激しいこと、食事をして間も無い船旅ですから、船酔いの人々のラッシュです。私の前の男性が立ったり座ったりしていたので何をしているか分からなかったのですが、次男から船酔いしない様にしているのだと聞かされて納得。


家族のまず最初の犠牲者は妻です。そして、船中で私がガイドブックを読んでいますと、次男が偉そうに、「おやじ、こんな時に本を読んでいると船酔いで、えらい目に合うぞ」と高飛車に言うではありませんか。偉そうに言うなと思いつつも黙って聞いていました。

しかし、カプリ島に着岸し、タラップを降りた瞬間に、偉そうに言っていた次男が、岸壁にへたり込んでしまったのです。そして船酔いもせず平気でいる私に向かって、「やっぱり、おやじが一番強いんだな」と感心していました。口ほどにもないと思い、ここで、また父親としての権威を少し取り戻します。

妻は、かなりの重症で、船酔いが回復するまで一時間以上もかかり、また、カプリ島周遊の小型船に乗船すると聞かされて顔がひきつっていましたが、どうにかこうにか乗船しました。パーフェクト・ブルーの海です。しかし残念なことに、この日は運が悪く、潮が高くて「青の洞窟」には入ることが出来ませんでした。未練 未練 観れん!この次こそ!―つづく―(R・K)

aonodoukutsu-600×800.jpg

《平成26年に香風寺イタリア・フィレンツェ別院にて講有巡教が奉修されます。ぜひ皆さんお参詣しましょう!!》

 

―給仕(きゅうじ)について―


○「参詣」の要素②……「給仕」 


前回は「参詣」の要素①として、「親近(しんごん)」について申しあげ、同時にその注意点として、親近によってややもすると陥りかねない「悪狎(わるな)れ」「馴(な)れ馴れしさ」を戒めることの大切さ、恭敬(くぎょう)の心を失わないためにも「冥(めい)の照覧(しょうらん)」の教えを頂戴すべきことを申しました。
この「冥の照覧」について少し付言しておきたいと存じます。

  元来「冥の照覧」の教戒は当宗の信行全般にわたる基本的な心得事の一つで、それは例えば「宗風」の第二号「受持(じゅじ)」の条文に「……本尊の冥の照覧を信じ、口唱を正意(しょうい)として妙法経力をたのみ、給仕第一とつとめ、受持の一行に徹する」と明記されていることからもよくわかります。ちなみに宗風の「受持」は、「信心の七宝」の中の「信」に基づきつつこれを当宗に即した内容として条文化されたものですから、当宗の信心つまり妙法受持の大切な要素だということです。なお「身(しん)・口(く)・意(い)三業(さんごう)による受持」に配当すれば、「口唱正意」は口業(くごう)に、「冥の照覧」は意業(いごう)に、「給仕第一」は身業(しんごう)による受持にあたります。

 開導日扇聖人も御指南に仰せです。

①「自(おのずか)ら人目を謹むと云へども、全く冥の照覧を恐れず。此一句を常に口ずさむべし」     

(御法門書・扇全八巻254頁)  

②「智者愚者によらず、冥の照覧を恐るゝものなれば信者也。御弟子旦那也」

       (当世講要・扇全十四巻260頁)

  なお、中国でも元来は『礼記(らいき)』の中の各編の一つであった『大学(だいがく)』と『中庸(ちゅうよう)』にそれぞれ「君子(くんし)は必ず其の独(ひと)りを慎むなり」(大学)、「君子は其の独りを慎むなり」(中庸)とあって、立派な徳のある人は、他人の目のないときこそ自らの行為やあり方を慎むものだとされます。「小人(しょうじん)は閑居(かんきょ)して不善を為(な)す」(大学)に対する語で、こうした訓戒は世法(せほう)においても広く存在してきたものです。「冥の照覧」は佛立信心の上からのさらに徹底した教えであるわけです。


  お役中は、まず自身がこの「冥の照覧」を忘れぬように努めさせていただくことが大切なのです。法華経には「諸天昼夜(ちゅうや)に常に法の為の故に而(しか)も之(これ)を衛護(えいご)す」(安楽行品)と示されていることはよく知られていますが、常に見そなわしておられるということは、お互いにとって都合のいいことだけをご覧になっているばかりでなく、都合の悪い行為や思いもすべてお見通しだということです。ご守護も「法の為の故に」なのですから、それも忘れてはならないと存じます。

「お給仕」も、そこに「生身(しょうじん)のみ仏」「生身のお祖師さま」がおいでだと思って、つまり「在(いま)すが如く」(如才(じょさい)なく)させていただくということがまずは大切なわけで、「冥の照覧」の教えは「給仕」においても大事な心得事だと申せるわけです。


○「給仕」……「法の給仕」と「人(にん)の給仕」


  先月の「親近(しんごん)」において、「参詣は、道場に親近し、御宝前・み仏に親近し、御住職・お教務・ご信者方(つまり善師・菩薩方)に親近し、お仕え(お給仕)することでもあるわけです」と申しました。つまり参詣の中に自ずから親近もお給仕も伴っているのです。

 み仏のご在世の時は、み仏の許(もと)に参詣し、お給仕・ご供養をさせていただくわけですから、その給仕は基本的に「人」(にん)(み仏)に対するものがそのまま「法」に対するものとなるわけで、給仕をことさら人(にん)・「法」(ほう)に分けて考える必要はなかったと存じます。しかしみ仏のご入滅後となれば、み仏の説かれた法と、それを説く人との別が生じてくるため、給仕にも人法(にんぼう)の一応の区分ができてまいります。もっとも日蓮聖人は次のごとく仰せです。

「又妙法の五字を弘め給はん智者をば、いかに賤(いやし)くとも上行(じょうぎょう)菩薩の化身か、又釈迦如来の御使(おんつかい)かと思(おもう)べし」

      (法華初心成仏抄・昭定1422頁)

  「(今末法の世に)妙法五字の題目を弘通してくださるお方は、真の意味の智者なのであり、たとえその身分や外見が拙(つたな)くとも、その方は本仏の御弟子である本化(ほんげ)上行菩薩がお姿をお変えになった方か、もしくはみ仏の御使(如来使(にょらいし))かと感得して、お敬いさせていただかねばならない」とのお意(こころ)です。


釈尊入滅後二千年より後の末法の世には、もちろん釈尊ご自身はおいでではないけれど、上行所伝の御題目を弘通する者すべてが本化の菩薩・如来使である、ということは、佛立教講こそそうなのだ、ということです。

お役中はまず自身がその自覚を持つと同時に、他の教講に対しても菩薩・如来使に対する敬いとお給仕の心を持たせていただくことが大切なのです。末法現代においての「人の給仕」の基本的な心得はここにあると存じます。法華経提婆達多(だいばだった)品第十二には、釈尊が前世に王として法華経を求め、阿私仙(あしせん)という仙人に師事(しじ)する姿がとても具体的に示されています。次の通りです。


「王、仙の言(ことば)を聞いて歓喜踊躍(かんぎゆやく)し、即ち仙人に随(したが)って所須(しょしゅ)を供給(くきゅう)し、果(このみ)を採(と)り、水を汲(く)み、薪(たきぎ)を拾(ひろ)い、食(じき)を設(もう)け、乃至身(ないしみ)を以て狀坐(じょうざ)と作(な)せしに、身心倦(しんじんものう)きことなかりき。時に奉事(ぶじ)すること千歳(ざい)を経て、法の為の故に精勤(しょうごん)し給侍(きゅうじ)して、乏(とぼ)しき所なからしめき」

(開結344頁)

 お祖師さまも、そのご晩年の「身延山御書」に右の御文やその後の偈文(げもん)を引かれています。

「爾(そ)(そ)の時に阿私仙人と申す仙人来(きた)って申しける様は、実(まこと)に法を求め給ふ志御坐(こころざしおわさ)ば、我が云はん様に仕へ給へと云ひければ、大(おおい)に悦(よろこ)んで、山に入っては果(このみ)を拾ひ、薪(たきぎ)をこり、菜(な)をつみ、水をくみ、給仕し給ひける事千歳也。常に御(おん)口ずさみには、情存妙法故身心無懈倦(じょうぞんみょうほうこしんじんむけけん・情(こころ)に妙法を存(ぞん)ぜるが故に身心懈倦(しんじんけけん)なかりき)とぞ唱へ給ける。文(もん)の心は、常に心に妙法を習はんと存ずる間(あいだ)、身にも心にも仕(つかう)れども、ものうき事なしと云へり。此(かく)の如くして習ひ給ひける法は即(すなわち)妙法蓮華経の五字也。爾(そ)の時の王とは今の釈迦牟尼仏是也。仏の仕へ給ひて法を得給ひし事を、我朝(わがちょう)に五七五七七の句に結び置きけり。(乃至)『法華経を 我が得し事は薪(たきぎ)こり 菜つみ水くみ つかへてぞえし』(乃至)実(まこと)に仏になる道は師に仕ふるには過ぎず」     

(昭定・1917頁)


  法華経の御文には「精勤給侍」とありますが「侍」は「はべる」と訓(よ)み、近侍、侍者等と熟字するように、主人や師匠等の身近にはべり、つかえる意ですから、仕と同意です。なおここにも「給仕(侍)」と「親近(しんごん)」との元来の一体性がうかがえます。

 お祖師さまご自身が、法華経の御文を頂き、その教えのままに自ら御宝前にお給仕されたことが拝せられるわけで、私共もまずこのみ教えをそのまま頂戴させていただくことが大切なのです。先に引用した宗風第二号「受持」の条文に「給仕第一とつとめ」とあるのも、この教えをいただいたものに他なりません。


  私共佛立教講が、教務がお師匠や先輩お教務にお仕えし、ご信者がお導師・お教務方や他のご信者方にお給仕させていただく(人の給仕)と同時に、御宝前に唱題の音声(おんじょう・御法味(ごほうみ)をお供えし、毎日お掃除をさせていただき、お初水やお供え物、香華等(法の給仕)のお給仕を第一として大切にさせていただくのも同じ心、同じ姿なのです。


○「朗門(ろうもん)の三則」


―給仕第一、信心第二、学問第三―

 お祖師さまのお弟子の中でも最上足(じょうそく・高弟)の六師を「六老僧」と申し、その一人である日朗(にちろう)苦薩の門流を「日朗門流」「朗門」と申します。日朗(筑後[ちくご]房)は、お祖師さまの最初の弟子となった日昭の甥で、日昭が弟子となった翌年(建長六年)わずか数えの十二歳でお祖師さまの弟子となり、以来お祖師さまに近侍し続けた方です。立教開宗の翌年以来ですから文字通りお祖師さまのご弘通と共に歩まれたわけで、竜の口・佐渡のご法難の時も、捕えられ鎌倉で土籠(つちろう)に入れられています。伊豆のご流罪でも最後まで舟べりに取りつき、ために腕を折られていますし、佐渡へ赦免(しゃめん)(しゃめん)状を届けた(赦免の旨を通知した)のも日朗であったとの説もあります。ことほどさように近侍されたのです。佛立宗は他ならぬこの門流にあるわけで、この朗門流に伝わる大切な教えが「朗門の三則」つまり「給仕第一、信心第二、学問第三」の教えなのです。

 先に申しておきますが、この第一から第三という順番は、必ずしも価値(大切さの度合)の順位を示すものではありません。まず「給仕」させていただく。この給仕を通じてこそ正しい「信心」を感得させていただける。そしてこの信心を土台として学問をし、御法門を学ばせていただいてこそ正しい「学問」となるという順序次第を示す教えなのです。そういう意味でまず「給仕」が基本であり、大切・第一だというのです。

 前々号で記したように、当宗の信心は「信行」というように優れて身体的な面があり、行(ぎょう)を通じてはじめて感得でき「腑(ふ)におちる」面が基本的にあるのです。だからこそ、理屈から入るのではなく、身体性の強い「給仕」から入ってこそ正しい信心を感得し、正しい学問を得ることができる、という筋道を大切にするのです。「朗門の三則」はこのことを端的に示すものとも申せます。

イタリア紀行①
2012年10月28日(日)
 

 本年5月18日より10日間、福岡日雙導師のお招きで、香風寺フィレンツェ別院にお参詣させていただきました。

 前日の5月17日には、先住日宏上人の御13回忌を自坊でお勤めし、ローマ3泊、ナポリ3泊、フィレンツェ4泊の旅行日程を立て、15年ぶりの家族4人だけの気楽な旅行をさせていただきました。


 長男はイタリア語を少々話すことが出来ますし、又、次男は昨年、イタリアに単身で旅行していましたので、言葉と地理が分かっていれば恐いものはありません。しかし、ここに親としての権威は失墜し、「長幼の序」は「幼長の序」となり、親子としての竪の関係は逆転してしまったことは事実であります。


さて、世界遺産の3分の1を有するイタリア、その首都であるローマのフィウミチーノ空港に13時間を費やし、喧騒たる空港でタクシーの運転手と料金的なこと(倍以上の値段を要求する)で長男がスッタモンダの交渉の末、ホテルに無事到着、と思いきや、フロントの男性から部屋のシャワーの調子が悪いから、同系列のホテルに移動して欲しいとのこと、又荷物を積み直して、やっとのことでチェック・イン。

翌日ウェスパシアヌス帝の命により紀元80年に完成した円形闘技場「コロッセオ」に向かう折、タクシーに乗ろうとしたところ、長男から「何故、タクシーなんかに乗るの?1ユーロ(約100円)で地下鉄は乗り放題なのに。」と言われて以来、移動方法は徒歩とバスと地下鉄が中心となりました。

やっとのことで、「コロッセオ」に到着、今まで見た写真と実物とでは大違いです。たどりつくまで遠いこと、遠いこと、大きいこと、大きいこと、中に入り、階段を登るのもひと苦労、降りるのもひと苦労、ヘトヘト、「地球の歩き方」そのものでした。

 

colosseo2.JPG

 ローマでは他に、スペイン広場、サンタンジェロ城、ピエトロ大聖堂等を見学し、ローマ帝国がヨーロッパ全土を支配し、この国の文化がヨーロッパの基礎になったのかと思うと、あらためて、イタリアの歴史の深さに感心させられました。

 ところで、私達の行動に話はかわりますが、親子という立場は逆転していますから、ユーロを所持しているのは息子達です。私達夫婦はポケットに、コインを所持しているだけで、ホテルの枕銭くらいしか持ち合わせていませんでした。たまりかねた私は「ネェ、ちょっとお金頂戴」とおねだりしなければならない有様です。


 更に悪い事に、イタリアでは路上でタバコのポイ捨てなど平気で行われている公衆道徳の非常に悪い国にもかかわらず、近年、屋内は禁煙になり、それを知らなかった私はホテルのロビーの机の上に灰皿らしき物が置かれていましたから、タバコを吸っていますと、フロントの女性から、こっぴどく叱られまして顔面蒼白、親の権威は益々失墜してしまいました。


しかし、私の親としての権威失墜もここまで、と言いますのも、ローマ在中のホテルは息子がインターネットで予約したホテルでした。後のナポリ、フィレンツェのホテルは妻と二人で、インターネットで予約したホテルで、同じ金額にもかかわらず、息子が予約したホテルは日本のビジネスホテルに毛が生えたくらいのものでした。私は「今に見ていろ」と腹の中で、虎視眈々と臥薪嘗胆の思いで親の権威回復の時機が来るのをじっと待っていました。なんやかんやあった「ローマの休日」はまたたく間に終わりました。―つづく―(R・K)


【写真はコロッセオ】

《平成26年に香風寺イタリア・フィレンツェ別院にて講有巡教が奉修されます。ぜひ皆さんお参詣しましょう!!》

 

○「参詣」の要素①……「親近(しんごん)
 
  前回は、当宗信行の根幹の一つである「参詣の大事」
(1)として、「道場の能所(のうじょ)」や「身体的に“に落ちる”こと」の大切さ、「(ば)」や「つながり」のあり方を見直すことの大切さを申しあげました。 今月は、「参詣」にともなう大切な要素である「親近(しんごん)」と「給仕(きゅうじ)」のうち、まず「親近」について申しあげます。

 はじめに高祖日蓮
大士(だいじ)の御妙判をいただきます。「法華経の文字は六万九千三百八十四字、一一(いちいち)の文字は我等が目には黒き文字と見え候へども、仏の御眼(おんまなこ)には一一に皆御仏(みほとけ)也。[中略]玉泉(ぎょくせん)に入(いり)ぬる木は瑠璃(るり)と成る。大海に入ぬる水は皆鹹(しわゆゆ)し。須弥山(しゅみせん)に近づく鳥は金色(こんじき)となる也。[乃至]何況(いかにいわんや)法華経の御力(おんちから)をや。」(本尊供養御書・昭定1276頁) 右の御文は建治212月、55歳のお祖師さまがご信者の南条平七郎に宛てられた御消息(ごしょうそく・お手紙)の一節です。 
  玉泉に入った木は、ただの木でも瑠璃と変じ、須弥山
(シュメール・妙高山とも。仏教の世界観の中央の山)に近づいた鳥は自然に皆金色の鳥になるといわれる。ましてや法華経の御本尊・御宝前に近づいた者は、それが凡夫であっても、御題目をお(たも)ちし、御宝前に親近した功徳は計りしれず、大果報を頂戴することができるのだ、と仰せです。「親近」は「親しく近づく」ことですが、「親」は「まのあたり」とも(よ)み、まのあたりにできる位置まで近づく意でもあります。参詣は、道場に親近し、御宝前・み仏に親近し、御住職・お教務・ご信者方(つまり善師・菩薩方)に親近し、お仕え(お給仕)することでもあるわけです。

  「親近」しなければ先月学んだような種々の功徳もいただけないわけですから、まず近づく、それもできる限り数多く近づき、できる限りおそばに居らせていただくことが大切なのです。
 法華経法師品に「若親近法師(にゃくしんごんほっし) 速得菩薩道随順是師学(そくとくぼさつどうずいじゅんぜしがく) 得見恒沙仏(とっけんごうじゃぶつ)若し法師に親近せば(すみ)やかに菩薩の道(どう)を得(え) 是(こ)の師に随順して学(がく)せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん)と示されるのはこのことを仰せなのです。(もっともここで「法師」とあるのは必ずしも出家の僧のみをさすのではなく、在家・出家にかかわらず、妙法を(たも)ちご弘通に励む人こそまことの菩薩・如来使であり、そうした人はすべて法師だとされています)

  ○「親近」における注意点・・「悪狎(わるな)れ」 

  正しいご信心、信行のあり方を学び、感得させていただくためには、道場に参詣し、御宝前に近づき、善き「法師」に親近させていただくことが極めて大切であることはこれまで申しあげた通りです。本堂や御講席などでも「できる限り席を前に進みなさい」と教えられるその理由も、御宝前から遠く離れた所で、御本尊も(まのあた)りに拝めず、御導師の顔も見えず、御法門の声も遠くて聞きとりにくいようではやはり残念です。参詣者や場所の関係でやむを得ないときは致し方ないでしょうが、前に進もうと思えば席もあるのに、遠く後ろの席を好むのは「親近」ではなく「遠離(おんり)」で、もったいないですね。遠慮も時と場合によるわけです。厚かましさとは別です。できるだけ早く参詣して、親近できる場所を求めるのが本来の姿です。  自分の好きな映画や観劇なら、自然に欲も出て親近するはずです。お役中は、まず自身が「親近」の大切さをよく感得し、組(部)内一般のご信者にも優しくそのことを教えてほしいのです。ただ「親近」にもつ注意点があります。それは「近づき過ぎて、あるいは近づいている間に、ついつい(な)れ馴れしくなってしまう」、「悪狎(わるな)れ」してしまうことです。

 誰しもあることですね。最初は「私のような者がもったいない」という気持ちがあり、緊張もし、相手を敬う心もあるのですが、しばらくして慣れてくると、緊張感も失われ、相手も身近になって「何だ、こんなものか」といった心が起こってきて、敬う気持ちが失せてしまうことがあるのです。「慣れる」ことはそれ自体決して悪いことではないのですが、それがいい意味での熟練・ベテランの方向に向かうか、悪狎れ、馴れ馴れしさ、慢心の方向に向かうかは、一にかかって本人の自戒の有無によります。

 人間関係でも、少し離れた遠くから見ていたときは、とても素晴らしい人だと思い、(あこが)れたり尊敬したりしていたのに、親しく近づいてお付き合いをさせていただいているうちに、今までは見えなかった人間くささや、欠点などが目に付くようになり、そうなると、憧れも尊敬もなくなり、「なあんだ、こんな人だったのか」などと急に心がさめて、敬うどころか反対に軽べつさえしかねない、そんなことがありますね。それは恋人が結婚して夫婦になったとき、職場の上司と部下、友人同志といった間柄でもありうることです。 でも、ほんとうの相手には、それでも優れた点もあり、尊敬すべき点や学ぶべき点は沢山あるはずなのです。近づき過ぎて(かえ)って見失ってしまうものがある。見えなくする心が自分の中に生じてしまうことがあるわけです。
 この点につき『論語』に次のような言葉があります。

(イ)(し)の曰(のたま)わく、民の義を務(つと)め、鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂(い)うべし」「先生はいわれた、『人としての正しい道をはげみ、神霊には大切にしながらも遠ざかっている。それが智といえることだ』」(岩波文庫ワイド版・118頁・雍也(ようや)第六)
(ロ)「祭ること在(いま)すが如くし、神を祭ること神在すが如くす」「御先祖のお祭りには御先祖がおられるようにし、神々のお祭りには神々がおられるようにする」(同書・59・八佾(はちいつ)第三)

 いずれも孔子の言葉で、儒教の教えですから、もちろんすべてをそのまま受取るわけではありませんが、参考として学ぶ面はあります。(ちな)みに(イ)は「敬遠」の(ロ)は「如在(じょさい)(如才)の語の典拠ともされます。「鬼」というのは、中国では元来亡くなった人の霊魂のことであり、「神」というのは「神霊」のことであって、いずれも生きた人間の力を超えた力を有するとされます。「それらを敬い大切にはするが、馴れ馴れしく近づいてもてあそぶことのないように」というのが「敬してこれを遠ざく」つまり「敬遠」の元来の意味なのです。現在の私たちの「煙たがって離れている」意とは随分違います。孔子は、決して「煙たがって離れていよ」と言っているのではなくて、むしろ「敬う心を大切にするため、あまり(な)れ親しんではならない」と言っているのです。

 
「如在」は「(いま)すが如く」という意ですから、祖先の霊や、神々をまつ・祀)るということは、姿は見えなくてもあたかも目の前にその方がおいでであると思い、その如くにさせていただくことが大切だ、と言っているのです。当宗でいう冥(めい)の照覧(しょうらん)(冥は冥闇の冥でうすぐらく、こちらからはさだかに見えないこと。顕(けん)・明(みょう)に対する語。み仏のお姿は凡夫からはそれと見えないが、み仏はすぐそばからすべてを明らかに御覧になっていること)と似た意ですね。「如才」は〈在〉が才〉に転訛したもので、「いつもそばにおいでだと思って油断しないこと」が元の意。これが転じて「如才なく」が「遺漏なく、油断なく」になったのです。
 孔子は「敬いを失くさぬよう、あまり近づかない方がいい」しかし、「そこに在すと思ってお祀りせよ」と言いました。しかし、当宗はそうではありません。「親近」しながら「恭敬(くぎょう)」せよ、と教えられるのです。何といっても親近しなければみ教えを感得し難いからです。ただその際やはり、近づき親しみ過ぎて悪狎れをしたり、慢心を起こしたりすることのないよう、これは十二分に(みずか)らを戒め、尊敬の心、恭敬の心を失わぬように注意をさせていただかねばならないのです。難しいことですね。そこに大切になってくるのが、み仏やお祖師さまのお姿はそれと見えなくても、すべて照覧なさっているという「冥の照覧」の教えであり、それを忘れぬようにしてこそ本来の意味での「如才ない」信行をさせていただくことができるのです。

 「給仕」については次回で申します。

脱走ペンギンの生活力
2012年6月6日(水)
 

blog-shochou-20120606.jpg 去る5月24日、東京都立葛西臨海水族館から3月に脱走し、行方不明になっていた、絶滅危惧種のフンボルトペンギン1羽が、江戸川河川敷で休んでいるところを、駆け付けた同園職員によって捕獲・保護され、約3か月ぶりに園内に戻ったという。

 このペンギンは生後1年3か月で体長は脱走時と同じく約60センチ、体重は約3280グラム。他のペンギンとほぼ同じくらいだとか。ただし、脱走中、江戸川河口や晴海沖などで、自力で泳ぎ回って餌を獲っていたからか、胸の筋肉等がたくましくなり、全体にマッチョになっていたという。

 私は、実はこのニュースにかなり感動した。近来稀な良い話、快挙ではないか!

  きっと、このペンギンは元々は野生で、それが捕獲されて日本の水族館に連れて来られていたのだろう。だとすれば、ペンギンが脱走したいのは当然だ。いくら労せずして毎日餌を与えられたとしても檻の中、外には危険があったとしても、やはり自由に生きたいだろう。ただ、必死で脱走した場所は、故郷を遠く離れた東京湾内…仲間も居らず、たった一羽で生きるしかなかった。それでも、3か月間も頑張ったのだから偉いではないか。彼らの3か月は、人間なら何年間にも相当するのではなかろうか。
 
 フンボルトペンギンは、フンボルト海流が流れ込む南米のペルーからチリの海岸に暮らしているペンギン。野生種は約1万羽にまで減少しており、絶滅危惧種〔レッドリスト〕の中でも「危急」 〔VU-Vulnerable〕に指定されている。
しかし、私が感動したのはこの小さなペンギンが見せた野性的な生命力であり、生き抜こうとする逞しさだ。  昨今、日本人は世界中から「温室育ち」だと見られている。最もひ弱だと思われているのも日本人だ。確かに、海外で、すぐに腹をこわしたり、寝込んだり、泥棒の被害にあったり、騙されたり…。若者の姿勢が一番悪いのも日本人だといわれ、何かのトラブルに遭っても、毅然として対処しようとしないのも日本人。要は日本人は軟弱だと思われているわけだ。もちろん、全部がそうではなく、例外もあるだろう。 
 
 でも、残念ながら、概してそういう評価なのだ(因みに、多くの国では、スリや置き引きをする人間も悪いが、される方も間抜けだと思われている)。 そういえば、私がまだ幼いころ、日本の田舎では、犬も猫も半分は放し飼いみたいなものだったし、鶏だってそうだった。そして、あの頃の犬も猫も鶏も、子供たちも、もっと生き生きとして逞しかったように思う。
 
 
 何しろ、鶏だって、暗くなって眠るときには、かなり高い木の枝などに飛び上がって眠っていた。だから、あの頃の鶏は逞しく、肉も旨かった。子供たちも、今よりは体格は劣っていても、元気で体力があり、頑丈だったのではないか? 「可愛い子には旅させよ」とはよく言ったものだ。

 今の日本人が、脱走したフンボルトペンギンから学ぶことは、きっと沢山あると思うのだ。ペンギンが話せないのが残念。もしも口がきけたなら、研究所の講師に招きたいくらいだ。(J・M)
<写真はウエスティンホテル大阪にて [梅田の早い七夕飾りとスカイビル]>

 

○お寺参詣・御講参詣の大切さを知る

 
  前回は、初心(罪障の深い凡夫であることの自覚)を忘れず、「無始已来の御文」の心を大切にすることによって
、懈怠(けだい)なく精進(しょうじん)し続けることが、お役中の大切な心得であることを申しあげました。
 今月は、当宗のご信者の信行の根幹のつである「参詣」の大切さについてです。
 
まず最初に開導日扇聖人の御指南をいくつか頂戴いたします。
①「講内面々わすれてならぬことそれ(この)御講席とは弘通広宣の道場、大恩報謝如説修行随力演説(ずいりきえんぜつ)の処(ところ)也。大功徳を得る宝の山これ也。現世安穏後生善処(げんぜあんのんごしょうぜんしょ)の根本の処也。霊山浄(りょうぜんじょう)山((ど)にもおとらず娑婆即寂光(しゃばそくじゃっこう)即此処也。されば此御経(このおんきょう)(たもた)ん人々はせめて人身(にんしん)を得(え)(この)大法にあひ奉りし御報恩の一分なりとおもひて、御講出席一席もかゝし給ふことなかれ。人一人(ひといちにん)も得(え)教化(きょうけ)せぬ分斉(ぶんざい)の身の如説修行とは御講参詣のことなり。家業ある身なればいかにも(くり)あはせて参詣するを大恩報謝の一分(いちぶん)と思(おぼ)しめせ。悪業(あくごう)のさはりにて参詣ものうくおもふ時あらば、心に魔のいりてわが信心をさまたぐると思ひ、つとめておして参り給ふべし。」
②「不参なれば法門を(きか)ず。きかざれば信心ゆるみ(ゆく)。ゆるむ故にますます不参。不参故に不都合。不都合故にいよいよ不参して(つい)に退転堕獄(たいてんだごく)するもの也。その時御法をうらむ事なかれ。(かね)て以て此事を申しおくもの也。」(当講の忘れてならぬ事(①②共)扇全186頁)
③「御法門心得違(こころえちがい)せる人の曰遠き所を日参は無益の事也。我家に本尊あり道場と(いう)、家内にありと云々。 道場に能所(のうじょ)ある事を知らず。寺は諸人参詣の道場、面々の家の本尊は[乃至]其業(そのなりわい)あれば本尊は内に(かく)れて家内のみの本尊、世間に事相(じそう)人知らず。 寺は門前を通る者も礼を(な)して行ものある事相表立(じそうおもてだち)たる弘通所也。[乃至]又凡夫歴縁対境(りゃくえんたいきょう)るに持仏堂(じぶつどう)の口唱と本堂高祖御宝前の口唱と、心持(こころもち)自然(じねん)に差別(しゃべち)を顕(あらわ)す。[乃至]これ寺と在家と能所ある一箇(いっか)の御法門也。」(「歴縁対境」……天台・妙楽の釈にあり)能所不二(のうじょふに)の上に而二(にに)なりの事・扇全17338頁)
④「問云わざわざ参詣に及ばぬか。尓也即是道場(しかなりそくぜどうじょう)也。されど家にありては心の散事(ちること)し。又、歴縁対境紛動(りゃくえんたいきょうふんどう)す。凡夫の向ひ奉る所、必ず其(その)向ひ奉る境によりて信の起る故に、参詣には利あり。」(三界遊戯抄一・扇全333頁)
 御指南の引用が少々長くなってしまいましたが、①と②は同じ御指南の前後で、いずれも御講参詣の大事を示されたもの。③と④はお寺と自宅、お寺・御講席と自宅等の参詣の違いについて示された御指南です。  お寺や御講席は「信行錬磨の道場」であり、「ご弘通の道場」ですから、とにかくまずその場に参詣をさせていただくことが佛立信徒たる者の信行の根本です。そしてこの道場の「参詣」を通じて口唱も、御法門聴聞も、先祖等のご回向も、布施・有志も、仏祖への大恩報謝もすべてがさせていただけるわけで、いいかえれば参詣の中に当宗信行のすべてがこもっており、そこから教化も育成も、法燈相続も進められていくわけです。
①の御指南の中に「それ此御講席とは弘通広宣の道場[乃至]大功徳を得る宝の山これ也。」と仰せなのは正しくそこのことを端的に示されているのです。何といっても「道場」なのですから、実際にその場に身を置かなくては話になりません。それは世間で子供が学校へ通学するのにも似ています。「一人で家で本を読んでも勉強できるのに、学校に通う必要などない。通学の時間や費用が無駄だ」などというのは理屈であって、実際にはそうはまいりません。やはりめんどうなようでも学校へ通い、他の生徒と一緒になって、先生の授業を通して勉強することが大切であることは、自身の経験からも誰もが分かっていることだと存じます。信行の錬磨もその点は同じなのです。このことについて示されたのが、③と④の御指南です。
  「能所(のうじょ)」というのは「能」は「能(よ)く……す」「所」は「……せ(ら)る」と漢文で訓(よ)みますね、基本的に「能動(のうどう)」と「受動(じゅどう)」の関係を示す語です。「道場の能所」となると、同じ道場でもお寺が本(もと)で、個人の御宝前の間は(すえ)という関係を示します。法華経如来神力品に「即是道場(そくぜどうじょう)」とあるように、僧坊であろうと在家のご信者の家であろうと、御本尊が奉安してあり、お看経ができるという意味では「道場」であることには変わりがないけれど、その道場にも本と末、能所がある。また他から見ても、個人宅の御宝前の間は家の外からは全くそれと見えないのに対し、お寺は誰でも外見からしてお寺だとわかる、つまり事相(実際にそれと見える姿や形)が違う。また人間は環境や縁の影響を受け易いもので、お寺の本堂や御講席に身を置くか、自分だけの自宅の御宝前かでは、自然に心持が異なってくる。そうしたことからもお寺や御講席に参詣することは大切なのだ、というわけです。


○新入信徒や宗外者に参詣を勧めるに際して
の心得・必要性を感じてない人もいる

 近刊の『宗教を知る 人間を知る』[講談社・本年(平成14年)月刊]という本があります。これは河合隼雄、加賀乙彦(おとひこ)、山折哲雄、合庭 惇(あつし)の四氏の共著になるもので、「宗教入門の本として、高校生、大学生、学校の先生、お父さん、お母さんに読んでもらいたくて企画」されたものです。その序章は「 “宗教は無関係”という人たちへ」、第章は「人にとって宗教はなぜ必要か」。第章は河合氏の担当で、次のように記しています。
<「宗教はなぜ必要か」といった問題提起がされること自体、日本人の宗教観の特殊性がよく現れています。ほかの国では、このようなことはことさら問題にするまでもなく、みんなが必要に決まっていると思っているからです。(中略) つまり、世界全体の中で、日本人は宗教というものに関してじつに特殊な感覚と受けとめ方をしている民族なのです。このことを、私たちはまずもってよく認識しておかなくはならないでしょう>(同書41頁)
<宗教を信じている人の側からすれば、なにも死を説明するために宗教をやっているわけではありません。その人たちは超越存在というものを感じ、あたり前のこととして受け入れていますから、私の説明の順序とは逆に、超越存在からいろいろなことが説明されていきます。(中略)その集団の中では、誰もが超越者が言ったとされる言葉を信じ、その言葉に従って生きています。宗教集団での生存とか生活に伴うもろもろの行為は、超越者の存在、その言葉などすべてを信じるということが前提になっています。(中略)そこでの「信じる」は、知的に信じるのとはまったく違います。(中略)そういうことのすべてが納得したこととして身体の中に入っているのです。(中略)これは仏教の場合でも同じで(中略)身体で納得するというのは、「これはこうなっているから、こうである」というような理屈、客観的説明とは違います。そして人間というものが生きていくためには、そういうこともとても大事ではないかと思います。>(同書50頁以下)   河合氏の言葉をもう少し当宗に即して、また新入の信者さんや結縁(けちえん)の方をお寺や御講席へと参詣奨(将)引する際のことを念頭に置きながらいえば次のようなことになるかと存じます。
特に悩みや願いごとがあって、自分から参詣したいと思う人は別として、通常は進んで参詣しようとする人は、信心の身に付いた人以外には少なくて、「なぜ参詣しなければいけないのか。必要性を感じない」と思っている人や、それに近い感覚の人が多いということをまず知っておくことが大切です。また、役中さん等からの説明は(既に信心を持っている方ですから)、み仏・御宝前を信じ、み教えを信じ、受け入れた立場からの説明になっているけれども、相手はまだ信じ受け入れてない人ですから、そのままでは中々理解してもらえず、したがって参詣する気になりにくいのです。
、「信心」はまず心の問題で、頭や心で理解することが先決だと思っていることが多いのです。けれども「信行」という言葉があるように、当宗の信心は、やはりすぐれて身体的なもので、実際にお寺なり御講席なりの場に体を置き、実際に口唱をさせていただく、体を使ったご奉公をさせていただくことを通じて初めて納得・得心がいく、つまり身体的に「(ふ)に落ちる」ものなのです。これは実は何も信仰に限らない、人間がまともに生活していく上で、極めて大切なあり方ではないでしょうか、ということです。
 当宗がまず「参詣」という身体行動を重視するのは、 “信行の身体性”というものを大切にしているからに他なりません。お役中は、右のようなことを理解した上で、例えば「説明はできる限りのことはまたさせていただきますが、何はともあれ、むずかしく考えず、とにかく一度実際にお参りしてみませんか」といった感じで参詣を勧めることも大切なのです。

○「つながり」を大切にし、活かそう
―人と人、人と環境、体と心、仏と人―


 信行においては「身体と心」「環境と人」との関係が大切だということは前述の通りですが、これをもう少し角度をかえて、「つながり」という観点からみてみましょう。
 鎌田 (みのる)という諏訪(すわ)中央病院院長で、長く地域全体に対する医療を独自の立場で続け、大きな実績をあげてきた方が、次のように仰っています。「命はつのつながりのなかで守られている  という話しもしばしばします。
つめは   人と人のつながり、
つめは   人と自然のつながり、
つめは   からだと心のつながりです。
いまの時代は、その三つともとても危うい状況にあります。」 [岩波新書723 飯島裕一編著『健康ブームを問う』17頁。昨年(平成13年)月刊] 人間はただ独りで生きているのではなく、人の「いのち」は他の人とのつながりや、自然等の環境(光、緑、空気、水等々)や、身体と心や、そういった「つながり」の中でこそ生かされているのだが、現代はそれをおろそかにしていて、大変危うい、と警告しているのです。 言われてみれば全くその通りですね。これを当宗のご信心でいえば次のようにいえるのではないかと存じます。
①人と人のつながり―家族、ご信者同士、組長・役中との関係、御講師との関係。
②人と環境―家庭、お寺、御講席のふんい気。町内の人々とのありよう。
③体と心―心・信心を根としたあり方。反対に先にも触れたように身体から入って納得する、腑に落ちるという、いわゆ事相(じそう・外的な姿形)を大切にするあり方も大切。
④み仏(御題目)と人―これはご信者だからいえることで、御宝前、お祖師さまとのつながり、(きずな)です。 「参詣」という信行ご奉公を考えていけば①から④のすべてが関わってくるかと存じます。家族はもとより、町内の宗外者との関係も大切でしょうし、ご信者同士や役中さんとご信者とのありようや、御講師との関係も影響は大きいと存じます。また参詣したお寺や御講席の環境的なふんい気も極めて大切です。そうした場に参詣した人は、現実にその環境に身を置きつつ、信心を一人ひとりが感得していくわけです。「参詣」の大切さと、「参詣」に導くまでの大変さ、そして「道場」のありようの大切さに思いを致し、お役中は、「身体性」や「つながり」を大切にするよう努力させていただくことが大事だと思うのです。そういう意味での教務のありようもほんとうに大切ですね。

 

初心(罪障の深い凡夫であることの自覚)を忘れない
「無始已来の御文」の心を大切に―

○「初心忘るべからず」の真意を肝に銘じる  
 前回は「不軽菩薩の心をいただく
(Ⅱ)として『教えるということ』(大村はま著・共文社刊。その後『新編・教えるということ』として「ちくま学芸文庫」から他の講演録も収録して刊行されている)の内容も紹介しつつ、不軽流の大切な心得として「相手に対する真の尊敬」と「自らも求め続ける努力」のつが大切であると記し、その際〈「もとより罪根甚重の凡夫であることの自覚求め続ける心を支えますと申しあげました。この「凡夫の自覚」こそが当宗でいう「初心」なのです。  「初心忘るべからず」という言葉の本来の意味は世間一般でしばしば誤解されているような「最初の清純で善良な心、純粋なを大切にせよ」という意味ではありません。むしろ反対に「自分は欠点だらけの未熟者、至らない者だと自覚している心」なのです。免許取りたてで危ないことを示す「初心者マーク」の初心が本来の「初心」に近いのです。

 この言葉を有名にした世阿弥(ぜあみ)[能の大成者、観世(かんぜ)三郎元清・13631442(?)年。『風姿花伝(ふうしかでん)』『花鏡(かきょう)』等の伝書(でんしょ)も著名]の最晩年の伝書『花鏡』〈奥の段〉【岩波『日本思想大系24107頁】には次のように記されています。
「当流に万能一徳(まんのういっとく)の一句あり。初心忘るべからず(初心不可忘)。
此句(このく)三ヶ条の口伝(くでん)あり。
是非(の)初心忘るべからず。
時時(の)初心忘るべからず。
老後(の)初心忘るべからず。
此(この)三句能々(よくよく)口伝すべし。
万能一徳」とは「あらゆる芸(能)がそこから発露する根源となる一つの徳目」というほどの意です。「是非の初心」については「前々(ぜんぜん)の非を知るを後々(ごご)の是(ぜ)とす」と後文にあり、「自分は元来未熟で失敗ばかりしていると、その至らなさを自覚して忘れずにいることが今後の芸の上達のもとだ」ということで、言いかえれば「元来の未熟の自覚」の意。「時時」は「じじ」「ときとき」と訓(よ)み、例えば「二十代、四十代と加齢しても、その年代ごとにおいて常に未熟さを自覚していること」。「老後の初心」とは「老成し、大家・ベテランと讃(たたえ)られるようになっても、依然として芸には果てがなく、自分はまだまだ未熟で至芸には遠いと自覚する心」だとされます。

 要するに「終始一貫して最期まで自己の至らなさを自覚し、それを忘れないようにせよ」これが「初心忘るべからず」の真意なのです。それは『花鏡』の結文に「初心を忘るれば、初心子孫に伝わるべからず。初心を忘れずして、初心を重代(じゅうだい)すべし」とあることからも明らかです。 実際誰しも「自分は欠点だらけの未熟者、至らぬ者だという自覚」があればこそ、「我(が)」を捨てて「どうか宜しくご指導願います」という、素直に随順し、教えを積極的に吸収しようとする姿勢が自然に生じてくるのであり、それでこそ本当の改良や向上があるわけです。つのものごとを長年続けるということは、当然「慣れ」を伴います。ただこの「慣れ」には善悪両面があって、それが「熟練」「練達」の方向に向かうか、「悪狎(わるな)れ」や「横着」「慢心」の方向に向かうかは、一(いつ)に本来の意味での「初心」の有無、つまり「未熟さの自覚」の有無にかかっていると申しても過言ではありません。

○“基本”を大切に 
 
平成12年6月末に起こった「雪印乳業食中毒事件」や、平成11年の核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所の臨界事故などは、両事件ともその原因は、およそ信じ難い、最も初歩的な、当然守られねばならない基本をかにしていながら、それに慣れた怠慢さの中にあったのです。自己の危(あやう)さ、未熟さを忘れ、基本を忘れることの恐さを教えてくれる大きな教訓だったと存じます。車の運転で、初心者もそうですが、むしろベテラン運転手が時に大事故を起こすのも同様です。『論語』には「顔(がん)回なる者あり。(中略)過(あやまち)弐(ふたたび)せず。」雍也(ようや)第六とあります。顔回は師の孔子に先立った若い弟子でしたが、真の意味で“学ぶ”ということを知っており、だからこそ「一度失敗をして自分の未熟さを知ると、深く反省・改良に努め、以後は二度と同じようなちを繰り返すことがなかった。それが見事だった」というのです。    

 そういえば、雪印は今の社名となった年後の1955年にも、一昨年と同じ黄色ブドウ球菌による食中毒を起こし、東京の学校給食等で1300人を超す中毒者を出しています。その時の教訓が社内で忘れ去られていたところに、初回とは比較にならない大事故となったの事件の根本的な原因があったとも申せます。これで流石(さすが)に改良できたかと思っていたら、そこに今度は平成14年123日の「雪印食品牛肉偽装事件」の発覚とそれに続く数々の不祥事です。経営が行き詰まった同社は同年222日の取締役会後、月末をめどに会社を解散することを決めました。親会社の雪印乳業もすでに多くの工場を閉鎖するなど経営を縮小していましたが、さらに厳しい状況に追い込まれています。「貧(ひん)すれば貪(鈍・どん)する」といわれますが、苦しくなると、再起のため改良せねばならないのに、却って堕落し、さらに泥沼にってしまう姿に凡夫の悲しさが見えてしまいます。「初心」を忘れると、結局は罪と失敗を重ねて行くことになるのです。恐ろしいことだと存じます。

○「無始已来の御文」の心を大切に 
 この「初心」をご信心で申せば、「自身は元来罪障の深い凡夫であることの深い自覚」です。その自覚を深く持ち、それを終生忘れないからこそ、「至って未熟で罪障の深い私ですが」と「我
(が)」を捨てて、いつも謙虚で素直な心でいることができ、何年経っても慢心を起こすことなく、信行の改良と増進がさせていただけるのです。そしてこの心こそ『妙講一座』でいつも最初に、そして最後にも拝読申しあげる「無始已来謗法(ほうぼう)罪障消滅、今身(こんじん)より仏身に至(いたる)まで持奉(たもちたてまつ)る」の「無始已来の御文」の心にそのまま通じる心なのです。 

佛立開導日扇聖人は御指南にせです。
「御利益は初心に限る。清風も初心こそ御師匠なれ。」
(末代幼稚の中の四類等の事・扇全14頁)
「御利益はいつも初心にあり。これはなく一途に経力にすがるが故也。」
(講場必携 
坤(こん)・扇全14247頁) 

 先の御指南はご遷化の前年、明治2218日付で聖人73歳の時の、また後の御指南はその翌年、まさしくご遷化の年の月のお言葉です。「清風も此初心こそ御師匠なれ」と仰せですから、ご信者を戒められると同時に、他ならぬ聖人ご自身も生涯この「初心」を自己の師表(しひょう)とされたことが拝察できるのです。 
  
  どうかお役中は、お役中なればこそなおのこと、いくつになろうと、何年信歴があろうと、またお役を重ねようと、「罪障の深い未熟な凡夫の自覚」たる「初心」を忘れず、慢心を戒め、素直な心で信心の改良を期させていただきましょう。それこそがご
利生(りしょう)感得と、ご弘通の、そして法燈相続や育成の基(もとい)であり、ベテラン、初心者を問わずお役を全うさせていただく基本の心得なのですから。

 

○「真の尊敬」と「自ら求め続ける心」を 
 
 先月号では、日蓮大士のみ言葉をいただき
ながら、お祖師さまご自身が法華経の常不軽(じょうふきょう)菩薩品第二十に登場する常不軽菩薩の修行を自らのお手本とされたことや、法華経の御文の上での不軽礼拝行(らいはいぎょう)を紹介させていただくとともに、本尊抄の「不軽菩薩は所見の人(にん)に於て仏身を見る」の御文もいただいて、「仏性(ぶっしょう)礼拝」とは言うものの、現実には「生身(なまみ)の相手の人そのものを敬い拝む」ものであり、それが大切であることを申しあげました。   
 さてこの「尊敬」ということについて、私は以前服部日入師から紹介された『教えるということ』(大村はま著・共文社)によって随分考えさせられました。

 著者は昭和3年に東京女子大を卒業後、旧制の高等女学校から戦後は新制中学で国語科を担当、昭和38年には「ペスタロッチ賞」を受賞、昭和55年の退職まで「現場」を離れなかった方です。『教えるということ』は、昭和45年、富山県教育委員会の依頼によって、まだ教師になって間もない小中学校の先生達に対して行った講演の演題で、同書にはこの時の講演の他いくつかの講演録が収められています。昭和48年の初版以来十年間だけで26刷を重ね、読み継がれている本だけに、一読して胸を打たれ、自然に頭が下がる思いがいたしました。まずその内容を部分的ですがそのまま紹介いたします。   

  ○『教えるということ』よりの技粋
 
 ①「教師はやっぱり子どもを尊敬することがたいせつです。さしあたり年齢が小さくて、先に生まれた私が先生になりましたが、子どもの方が私より劣っているなんていうことはないんです。劣ってなんかいないんで、年齢が小さいだけなんですね。子どもたちを心からたいせつにするということはそういうことを考えることです。それは小さい子どももそうではないかと思うんです。実にすぐれたものやいい気持ちを持っていまして、とても自分の相手ではないんです。私の教えている子どもがみんな私より上でなくて、私ぐらいのところでとまったらどうしましょう。たいへんですね。ですから、子どもはほとんど全部教師よりずっとすぐれていると思って間違いなしです。そういう敬意といいますか、尊敬を心から持って、この宝物をたいせつにしたいと思います。年が小さくて子どもっぽいのに気がゆるんで、ことばが乱れたり、態度が乱れたりすることはこわいことだと思います。子どもは白紙の心でじっとみなさんをみつめ、そしてみなさんを尊敬しています。年が上だから尊敬するようになっているんです。実際には、私たちよりも、もっともっとすばらしい人がたくさんいる、年が小さいがゆえにわが教え子となってそこにいるにすぎません。それは、日に新たに考えていなければならない子どもへの敬意だと思います。『子どもを大事にする』とよく申しますけれども、やさしくすることくらいのことは敬意を表すことにならないので、『この子は自分なんかの及ばない、自分を遠く乗り越えて、日本の建設をする人なんだ。』ということを授業の中で見つけて、幼いことを教えながらも、そこにひらめいてくるその子の力を信頼して、子どもを大事にしていきたいと思います。
 自分が敬意を持っていないと、子どもを大事にすると言いながら子どもを甘やかしていることがあると思うのです。『甘やかし』と『敬意』とはたいへん違うと思います。」〈「ほんものの教師」同書55頁~46頁〉
 

   ②「教師としての子どもへの愛情というものは、とにかく子どもが私の手から離れて、一本立ちになった時に、どういうふうに人間として生きていけるかという、その一人で生きていく力をたくさん身につけられたら、それが幸せにしたことであると思いますし、つけられなかったら子どもを愛したとは言われないと思います。親も離れ、先生もなくなった時、一人で子どもがこの世の中を生きぬいていかなければなりません。その時、力がなかったら、なんとみじめでしょうか。国語の教師としての私の立場で言えば、その時、ことばの力が足りなかったらいかにみじめかと思います。平常の、聞いたり、話したり、読んだり、書いたりするのに事欠かない、何の抵抗もなしにそれらの力を活用していけるように指導できていたら、それが私が子どもに捧げた最大の愛情だと思います。(中略) 子どもをかわいいというんでしたら、子どもが一人で生きるときに泣くことのないようにしてやりたいと思います。今のうちなら、たとい、勉強が苦しくて泣いていたってかまわないのですが、いちばん大事な時に泣かないようにしてやりたいと思います。今日のこの幸せの中にいる時には、頭をなでてもなでなくとも同じことだと思います。人で生きるときに、不自由なく、力いっぱい生きていける、そういう子どもにしていかなければ子どもは不幸です。子どもを不幸にするようなことをしていて、愛情をもっていたのだと言ってみてもどうなりましょう。」〈「真の愛情とは」同書90頁~92頁〉   

  ③「私はまた、『研究』をしない先生は、『先生』ではないと思います。(中略)つまり、前進しようという気持ちがないわけですから。(中略)研究ということは『伸びたい』という気持ちがたくさんあって、それに燃えないとできないことなんです。(中略)なぜ研究をしない先生は『先生』と思わないかと申しますと、子どもというのは、『身の程知らずに伸びたい人』のことだと思うからです。いくつであっても、伸びたくて伸びたくて……、学力もなくて、頭も悪くてという人も伸びたいという精神においてはみな同じだと思うんです。一歩でも前進したくてたまらないんです。そして、力をつけたくて、希望に燃えている。その塊(かたまり)が子どもなんです。勉強するその苦しみと喜びのただ中に生きているのが子どもたちなんです。研究している先生はその子どもたちと同じ世界にいるのです。研究をせず、子どもと同じ世界にいない先生は、まず『先生』としては失格だと思います。子どもと同じ世界にいたければ、精神修養なんかじゃとてもだめで、自分が研究しつづけていなければなりません。(中略)いっしょに遊んでやれば、子どもと同じ世界におられるなんて考えるのは、あまりに安易にすぎませんか。そうじゃないんです。もっともっと大事なことは、研究をしていて、勉強の苦しみと喜びとをひしひしと、日に日に感じていること、そして、伸びたい希望が胸にあふれていることです。私は、これこそ教師の資格だと思うんです。 私は長い間教師をしてきましたけれども、『研究』から離れませんでした。今でも、話ししやすい先生として子どもといっしょにいられるということは、それによると思うんです。そして今、ことに、年をとった今は、子どもと離れないようにと、いっそう研究に努力しております。(中略)もう40幾年も教員をやっていれば、かっこよくやりたければ、何でもやれます。およそ困ることがないといえばいえるでしょう。どんな古い方法でも、今までやった方法ででもよかったら、すぐにでもやれます。けれども、それでは老いてしまうと思うんです。それは精神が老いてしまうことです。」〈「教師の資格」同書20頁~23頁〉

  紹介が少し長くなりましたが、1度はそのままお読みいただいた方がご理解いただき易いと存じます。①と②は「真の尊敬」の意味であり、③は「研究」つまり「自らも求め続ける心」の大切さを訴えています。私はこの2つの心は不軽菩薩の心、不軽流の礼拝・折伏行の意(こころ)に通底すると存じます。不軽菩薩は「我(われ)深く汝等(なんだち)を敬ふ、敢(あえ)て軽慢(きょうまん)せず云々」と行きあう人すべてを礼拝し讃えました。大村先生は「子どもはほとんど全部教師よりずっとすぐれていると思って間違いなしです。そういう敬意といいますか、尊敬を心から持って、この宝物をたいせつにしたいと思います。(中略)やさしくするくらいのことは敬意を表することにならないので、『この子は自分なんかの及ばない、自分を遠く乗り越えて、日本の建設をする人なんだ。』ということを授業の中で見つけて云々」と仰っています。
 
 お役中が自分の組内の新入信者や若いご信者に対して、また親が法燈相続させるべき子に対して、同じ敬意を持っているでしょうか。
「私は何とかここまでご信心をいただいてきたが、他のご信者にはそこまでは無理だろう」とか「自分はともかく、子にはとてもそこまで求めるのは酷だ」とか思っているとしたら、それはとんでもないことです。そんな方でも例えば世法上のことなら別の考え方をします。「私は残念ながらろくに学校も行けなかったけれど、子供だけは何としても大学まで行かせたい」、「私はここまでしかなれなかったが、子供には私などより立派になってもらいたい」と思うでしょう。ご信心で不軽流というのなら、「私は残念ながらまだこんな信心前でしかないけれど、あなたには私など乗り越えてもっともっと立派な信者になってもらいたい」、「私程度で止まってもらったら大変だ。もっと先に進んでもらう人だ」と思い、そのように育てるべく全力を尽くさなくてはならないはずです。      
   
  このような「相手への尊敬」こそ不軽流の第1の要件だと存じます。そこに求められるのが「甘やかし」ではない「真の愛情」であり「慈悲の折伏」なのです。大村先生が「子どもをかわいいというんでしたら、子どもが人で生きるときに泣くことのないようにしてやりたいと思います。今のうちなら、たとい、勉強が苦しくて泣いていたってかまわないのですが、いちばん大事な時に泣かないようにしてやりたいと思います。(中略)子どもを不幸にするようなことをしていて、愛情をもっていたのだと言ってみてもどうなりましょう。」と言っているのはまさにこのことだと存じます。相手の本当の幸せのために、全力を尽くして教え鍛えるわけです。開導日扇聖人が御教歌で「愚かなる親は己(わ)が子をかあいとて あまやかすのはにくむ也けり」と戒められるのも実にこの点に他なりません。厳しい親だ、厳しい役中さんだと思われ、時に反発や憎しみの対象になったとしても、相手の将来を思えばこそ教え鍛えることが、真の愛情であり、慈悲だというのです。「折伏は慈悲の最極(さいごく)」というのはこうしたありようをいうのであって、決して安易なものではないと存じます。
 不軽流でもう一つ大切なのは「自らも求め続ける努力」です。大村先生は先の③の中で「私はまた、『研究』をしない先生は、『先生』ではないと思います。(中略)つまり、前進しようという気持ちがないわけですから。(中略)一歩でも前進したくてたまらないんです。そして、力をつけたくて、希望に燃えている、その塊が子どもなんです。(中略)研究している先生はその子どもたちと同じ世界にいるのです。研究をせず、子どもと同じ世界にいない先生は、まず『先生』としては失格だと思います。(中略)自分が研究しつづけていなければなりません。」と言っています。 尊敬し愛する相手を教え導こうと思えば、相手と同じ心、同じ世界にいなくては真の心の交流(ご信心ではこれを「感応道交(かんのうどうきょう)」と申します)や共感はありません。そこで必要とされ、求められるのが、先生なら「研究」し続けることであり、お役中なら「自らも求め続ける心」つまり「求道心(ぐどうしん)」なのです。いわれてみれば確かにその通りです。親や役中が、子やご信者に対していくら「ああせよ」「こうせよ」と言っても、自身がいい加減な心や姿でいては、これは通じません。「昔は私も頑張ったんだ」といっても今が駄目ならこれも通じません。やはり本人に真摯な求め続ける心と努力があってこそ相手に伝わるものがあるのです。その点このご信心は「仏身に至(いたる)まで」、「生々世々(しょうじょうせせ)菩薩の道(どう)を行じ」る果てのないものですから、年齢や信歴に関係なくどこまでも求め続け、精進し続けることが可能です。「もとより罪根甚重(ざいこんじんじゅう)の凡夫であることの自覚」を忘れないことも「求め続ける心」を支えます。そしてこうした心得は、もちろん「教師」たる教務にも一層厳しく求められている“資格”だと存じます。受持ったご信者や自分の子供達が将来人で生きていくとき、「厳しい人だったがこの信心のおかげで生き抜いていける」とでも思ってくれれば、それこそ役中冥利に尽きることだと思うのです。

<前のページ|次のページ>