―「そしるにさへや香(か)にうつるらん」―
○「逆縁」と「順縁」
前回は「自覚の宗教と啓示の宗教」―仏性の開顕…妙法こそ「マスターキー」―のテーマで、仏教は「自覚の宗教」であり、特に法華経は、閉ざされているすべての凡夫(ぼんぶ)の心を開き、眠っていた仏性(成仏の素質)を覚醒せしめ、凡夫にその自覚を促そうとするみ仏のご本意が示されたものであり、上行所伝の御題目こそが末法のすべての凡夫の心の中の仏性を開顕せしめるいわば「マスターキー」であること、その開く方法は妙法への帰依であり、妙法の受持(じゅじ)信唱であることを法華経の御文や、日蓮大士(だいじ)の御妙判に基づきつつ、また染織家・志村ふくみさんの媒染(ばいせん)に関する文章なども援用させていただきながら説明申しあげました。そして次のように記しました。
「同じく媒染を受け、あるいは帰依(きえ)するなら、私たちにとって最高のものをいただかねばなりません。それが末法の凡夫にとっては上行所伝の御題目なのです。
信仰の本質はまさしく帰依・帰命(きみょう)することに他なりません。最高の御本尊・み仏のたましいたる御題目に帰依し、すべてを捧げることです。〈中略〉
妙法に帰依し、受持信唱させていただくのは、一見すると自分の外の存在に向かっているようですが、実はそうではないのです。外なる妙法(御本尊)に帰依し口唱することが、実はそのまま自分の内なる妙法(仏性)を呼び顕わす(開き、啓発する)ことに他ならないのです。〈中略〉最高の御本尊(妙法)に帰依し妙法を口唱することによって、実はお互いの内に秘めた最高の素質(妙法・仏性)を開き、啓発させていただくのですから」
「帰依」ということが、自己の「外なるもの」に向かうものでありながら、実は自己の「内なるもの」を啓発するものだということは、日蓮大士が『法華初心成仏抄』の中に譬(たとえ)として挙げられた「籠(かご)の内と外とで鳥が鳴き交わす」例でもよくわかるのですが、これはもっと一般的にも申せることです。
どういうことかと申しますと、例えば名画や名曲などの芸術作品や自然の草花の風情に触れて心を打たれ、深く感動したとします。もちろん他の人物でもかまいません。いずれも「自己の外なるもの」、「外界の対象」によって、「自己の内なるもの」が感応したわけですね。ではこの感応する「内なるもの」はどこから来たのでしょう。外から、相手から与えられたのでしょうか。そうではないはずです。
それは媒染も同様です。煮汁等で染めた糸や布の色が媒染で発色し、別の色が現れるのだって、元の布や糸に媒染に反応し、触発されるものが何もなければ、いくら媒染しても新たな色が発色することはないのですから。
外界の存在が私たちの感覚器官を通して認識されるには違いないのですが、でもそれだけで感動するものではありません。すべてに同じように感動するわけではないのですから。
何かに特に心をゆさぶられ、深く感動するというのは、よく考えてみれば、例えば「ああ、何て美しい!」「何て素晴らしい!」と感応し、触発され、感じ取るものが私たちの側にもなければならないはずです。ある日何かを見たとき、思いがけず突然心が奪われるような、心がふるえるような感動をした、というとき、それは自分でも意識していなかった内なる何かが、外からの刺激や働きかけに触発され、感応して引き出されたのです。仏教で「感応道交(かんのうどうきょう)」と申しますが、その基本的なあり方は同じだと存じます。み仏のたましいと凡夫の仏性とが感応するわけです。
もともと私たちの心に何もなければ、外界の美に感応することもないはずです。世間でも「どうせ何かを見るなら、本物の最高の物を見なさい」というのも当然だと存じます。私たち凡夫の心には「十界」というように、地獄の心から仏の心まであるのですから、変なもの、劣悪なものに触れ、うっかりそれらと感応して触発されれば、当然内なる劣悪なものが開かれ、引き出されてしまうのですから。前回の「鳥が内外で鳴き交わす」譬えの解説の際、「メジロにはメジロ、ウグイスにはウグイスが」と私の経験もまじえて記した理由はここにあります。
久遠のみ仏のたましいである最高の御本尊(妙法)に帰依してこそ、私たち凡夫の心のうちにある最高の仏性(妙法)が感応し、触発し、啓発されるのです。それが誤って間違ったものに帰依したらどうなるのでしょう。悪人を崇拝すればその当人も悪人になる道理です。「帰依の対象は最高のものでなければならない」というのはそういうことです。同じく帰依をするのなら、自分を最も高めてくれるものに帰依したいものです。
さて今回は「逆縁正意と逆即是順」というテーマです。
仏法は「縁起(えんぎ)[因縁生起(いんねんしょうき)]の法」だとも申します。すべての存在も現象もこの縁起の理法に貫かれているわけです。この「縁」を仏法に対するあり方でいえば「順逆二縁(じゅんぎゃくにえん)」があります。宇井『仏教辞典』でみると、まず「順縁」とは「よきできごとが仏道に入る因縁となること」とあり、「逆縁」とは「仏に抗し、法を謗(そし)る等の違逆(いぎゃく)の事が、却(かえ)って仏・菩薩の化益(けやく)を受け、道に入る因縁となること」と記されています。これは順逆の「縁」それ自体を説明したものですが、当宗では「縁」それ自体を指す場合と、「そういう縁を有する人」を指す場合との両方の意で用います。したがって、御題目との関係で「順縁」といえば「最初から素直に御題目を信じ、随順して入信できるご縁。そうしたご縁を有する人」を指し、「逆縁」は「なぜか御題目に反抗・敵対し、妙法を謗る縁。しかしその縁がもととなって却って入信するご縁。またそういうご縁の人」ということになります。そして末法現代に生まれてくる私共は原則としてすべてが妙法に対して「逆縁」の凡夫だとされるのです。
○末法は「逆縁正意」
―妙法は逆縁救済の法
なぜ末法の衆生は「逆縁」なのかと申しますと、み仏の教えによれば、末法に生まれ合わせてくる衆生は皆、み仏のご在世はもとより、過去久遠以来(無始已来)無数の生死を繰り返す間、一度も妙法を信じ唱えたことのない[これを「本未有善(ほんみうぜん)」―本(もと)未(いま)だ善(ぜん)有(あ)らず―と申します]衆生ばかりだからだとされます。私たちが常に「無始已来謗法罪障消滅」と、今日までの妙法逆謗の罪を懺悔(さんげ)言上申しあげるのは、このことを踏まえているわけです。このことを頭で理解するのは困難なことですが、現実に私たちは仮りに信者であっても、やはり我[我執(がしゅう)]が強く、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(痴・ぐち)の三毒(さんどく)が強盛(ごうじょう)で、そのため互いに争い、苦しんでいます。そのことを思っただけでも「逆縁」「違逆」の衆生であり凡夫であるということはわかるはずです。三毒は「貪(むさぼ)り」「いかり」「愚か」ということですが、その根本には深い愚かさがあります。
念のため申しておきますが、仏教でいう「愚癡」というのは世間でいう「グチ」とは大分意味が違います。「愚癡」とは「み仏の説く因果の道理に従った判断と行動ができないこと」です。「因果の道理」とは「こうすればこうなる」という因果関係ですが、み仏の教えは過去・現在・未来の三世に通達(つうだつ)し、これを見そなわされての因果の道理で、単に目前のものではありません。実にすべてを踏まえての道理であって、目先の欲に目がくもった凡夫の判断や見方とは異なります。それだけに、凡夫はみ仏の教えを素直に頂戴できにくいということもあります。こうした因果の道理が「理解できない」、あるいは「理解できたとしてもその教えに従った行動ができない」で、結果苦しむことになる。これが「愚癡」ということです。
けれどもこのように我執が強く、愚かな末法の私共「逆縁の衆生」をこそ救おうとされるのがみ仏の慈悲であり、そのために法華経を説かれ、その本門八品で御題目を示され、「末法の衆生を救済せよ」と上行菩薩にその御題目をお授けになられたのです。そういう意味で上行所伝の妙法は、特に「逆縁」の衆生を救済することをこそ本意・目的としているのであって、これを「逆縁正意(ぎゃくえんしょうい)」と申します。
この「逆縁正意」に関してもう少し説明しますと、まず第一に、「末法の衆生はおしなべて逆縁の衆生」なのですから、宗外者はもとより信者たる自分も基本的にそうなのだということを自覚しなければなりません。
第二に、宗外者はもとより、他のご信者も、妙法に反抗し、素直に従わないのも当然だと覚悟して、そうした逆縁・逆謗の縁によって却って妙法とのご縁を結び、深めることによって正信に導かれるのだと受けとめ、そのご縁を大切にすることが大事だということにもなります。
第三に、これを一歩進めると、仏祖のご本意を体認すれば、むしろこちらから他の人に御題目をお勧めする。そうすれば当然相手は反発するけれども、そのようにして逆縁を喚起・激発せしめる[これを「毒鼓(どっく)の縁」とも申します]ことにより、それを縁として教化に導くという姿勢になります。菩薩・如来使としての「逆化(ぎゃっけ)」(違逆・敵対せしめることを通じての教化の意。仏・菩薩が衆生を教化するに、却って誹謗し敵対せしめて化益を成ずるをいう「宇井・仏教辞典」)折伏のご奉公です。
開導聖人は仰せです。
御教歌 題・逆縁正意
①さかさまに結ぶゑにしも法(のり)の花
そしるにさへや香(か)にうつるらん
(三界遊戯抄一・扇全6巻346頁)
②さかさまに結ぶ縁(えに)しも道たえぬ
せむるこゝろのおとろへしより
(信心に活[かつ]を入れるの事・扇全18巻355頁)
③折伏の慈悲のめぐみをさかさまに
いかりにくむも縁(えに)し也けり
(開化要談(教)・扇全14巻32頁)
御指南
「謗法人を見るたびに、顔にむかい一辺なりとも、御題目を唱へて御縁をむすばせてやりたき事、これ大慈大悲なり」
(釈迦御一代記実録・扇全2巻313頁)
「さかさまに結ぶ縁[えにし]」とはまさしく「逆縁」のことであり、「法の花」は「妙法・御題目」のこと、「そしる」は「誹謗(ひぼう)」のことです。妙法を謗る逆縁もその縁に結ばれることによって妙法の感化を受けるのだから、逆縁正意、逆化折伏のご奉公を大切にせよ、というのが①の御教歌で、そうした逆縁を結ぶご奉公ができなくなったというのは、慈悲の折伏の思いが衰えたからだ、そんなことでどうするのだ、と活を入れられたのが②の御教歌です。
御指南の方は、宗外の謗法の人(当然逆縁の人)に対しては、顔を見る度ごとに、せめて一辺でも御題目をお唱えして耳に聞かせてやりなさい。御題目の音声(おんじょう)自体[法体(ほったい)]に逆化折伏の経力があり(これを「法体(ほったい)の折伏」という)、逆縁を結ぶことができるのだから、との意です。
○蓮の花の香りが移る
―ベトナム王宮秘伝「ハスの花茶」
「香りが移る」「色が移る」ということは諺(ことわざ)その他でもよく言われますし、私どもの日常生活の中でも折にふれて経験することですが、先日偶々(たまたま)テレビを見ていて「ハスの花茶」なるものがあることを初めて知りました。
それは8月1日夜10時から放映された「世界ウルルン滞在記」(毎日テレビ)。以前、NHKの「朝の連続テレビ小説」『こころ』のヒロイン役をつとめた女優・中越典子さんが、ベトナムに滞在し、ベトナム王宮に秘伝として伝わっていた「ハスの花茶」を伝承者の婦人に学び、一緒に作る一部始終でした。
西湖という古く大きな湖があり、そこには昔から香りのいいハスの花(蓮華)が季節になると沢山咲くのです。「ハスの花茶」というのは、このハスの花の優雅な香りを移したお茶のことです。作り方は、まず早朝、小さな舟を出してハスの中をこぎ回り、咲く直前のつぼみを約1000個ほど集めます。その花のオシベが香りのもとなので、ハチの巣のようなメシベの周囲にあるオシベの先端部分[葯(やく)]だけを集めます。1000個の花からでもほんの少量しか集まらないのですが、それを器の中で1.5キロのお茶と交互に重ねて1日置き、翌日フルイにかけてオシベだけ取り除き、そのお茶を匂いだけは残して茶葉は乾燥させる特別な方法で1日置きます。同じことを続けて3回行いますから、最低でも六日間かけて香りをお茶に移すのです。出来上がったお茶の外見は普通の茶葉と全く変わらないのですが、このハス茶にお湯を注ぐと、その時えもいわれぬハスの花の上品で優雅な香りが馥郁(ふくいく)として立ち昇るのです。大変な手間をかけ、6日間でやっと1.5キロの品しかできず、しかも季節も限られているのですから、これは実に貴重なものだと存じます。一度でいいから飲んでみたいと存じます。
それはともかく、御題目(妙法)の香りもいわば蓮華の香り、最高の香りで、これは私たち凡夫の心に移るのです。そして移そうと思えば、毎日でも、いつでも、何度でも移せるのです。開導聖人は先の御指南で「一辺なりとも」と仰せでしたが、繰り返せば繰り返すほど濃く、深い香りが移り、染まっていくのだと存じます。しかも、単なる茶葉と違って、私たち凡夫の心にはそれ自体にまだ開いていない蓮華(妙法・仏性)があって、外からの触発・媒染を待っているのです。蓮華で蓮華を開くのですから、これ以上の香りはないでしょう。たとえ最初は反発したとしても、ついにはそのように香り立ちたいものだと存じます。
「逆即是順」については次回で記します。
―仏性の開顕…妙法こそ「マスターキー」―
○「自覚の宗教」と「啓示の宗教」
前回まで3回にわたって「謗法を戒める…信仰の純正化」のテーマで記しました。
その(1)では「根本謗法」である「妙法不信」の意味内容について説明し、その(2)では「謗法の態様」についての略説を、そして(3)では「謗法を戒め信仰の純正化の努力をする」ことが誤って「原理主義」に陥らないよう、いわゆる「原理主義」との対比をまじえつつ説明いたしました。
ただ、全体を通じて、具体的な謗法の個別的な説明にはあまり触れませんでした。
その点はややご不満かと存じますが、個々の具体例となるとそれこそ無数にありますし、その程度等の問題もありますから、事例によってはいわば臨界線上のものもあろうかと存じ、これは具体的な状況に応じて、現場の御導師やお教務方にご相談いただき、そのご判断に従っていただいた方がいいのではないかと考えたのが、具体例にあまり触れなかった一番の理由です。
中でも最も問題になり易いと思われるのは「習俗」「風習」との関係です。
例えば「クリスマスツリー」や七夕の「笹飾り」、正月の「しめなわ」「門松」、節句の「ひな飾り」等は事相上でも問題となります。いずれも一般世間ではほぼ「習俗」化しており、特に「宗教」的なものとしては考えていないとも申せますが、厳密に申せばやはり、宗教的な意味を有しています。
「門松」は神道の神の「よりしろ」ですし、「しめなわ」「しめ飾り」もやはり神道のものです。クリスマスはもちろんキリスト教のものですし、「ひな流し」となればこれも「穢(けが)れを祓(はら)う」意味を持ちます。しかし、幼稚園でクリスマスツリーや笹飾りを作ったからといって目くじらを立てるのもどうかと思われますし、「ひな飾り」も「女の子の遊び」だと把(とら)えればムキになる程のことではないでしょう。
けれども、門松やしめ飾りは、当宗の寺院はもとよりのこと、ご信者宅でもまず用いないはずですし、お寺でクリスマスツリーを飾ったり、クリスマスパーティーを開くことは決してありません。「ひな飾り」等でも、ご信者宅の御宝前のすぐ横に御宝前よりも立派で大きな飾り段を設けるのはどうかと思います。その他節分の行事の「豆まき」や大阪の風習の、一定の方角(恵方)を向いての「巻寿司の丸かぶり」、各地の祭礼、地蔵盆等もちろん問題になります。また観光や修学旅行等で神社仏閣へ立ち入ることについても幾分問題があります。
開導聖人は、門祖日隆聖人の御修行参詣が25日の北野神社の縁日詣でと紛れぬよう、24日に御修行をお勤めになられましたし、かつては当宗のご信者は鳥居をくぐるのも忌避した程です。ただ、あくまでも私見ですが、修学旅行や観光で、他宗堂社を見るのは「文化財や美術品の見学」という観点からなら大目に見てもいいのではないかと思っています。もちろん、賽銭(さいせん)を投げたり、拝んだり、札守(ふだまも)りの類いを土産に買ったりするのは論外です。その他「相似の謗法」に類する具体例は多々あろうかと存じますし、世間的あるいは商売上のつきあい等でもいろいろな事例があろうかと存じます。各種の占いも謗法です。気になる点は所属の寺院の御導師やお教務にご相談いただくのが一番だと存じます。
さて今回のテーマは「自覚の宗教」と「啓示の宗教」です。
実は「宗教」の定義は大変難しく、「宗教学者の数だけある」ともいわれます。世界には、それほど多種多様な宗教が存在しているわけです。けれども大きく類別すると「創唱宗教」と「自然宗教」、「自覚の宗教」と「啓示の宗教」という区分はできるとされます。「創唱宗教」「自然宗教」というのは、その宗教の起源、発生に関する類別で、「創唱宗教」というのは、その宗教に創唱者が存在しているのに対して、「自然宗教」はそうした特定の創唱者や創始者となる教祖がなく、いわば自然発生的に成立した宗教のことです。
例えば仏教には釈尊、キリスト教にはイエス、イスラム教にはマホメット(ムハンマド)という創始者・創唱者がいますから「創唱宗教」だとされ、ヒンドゥー教や日本の神社神道(しんとう)などには特定の創始者はなく、いわば自然発生的に成立しているので「自然宗教」だとされます。アニミズムも自然宗教の典型です。
神道でも、天理教、金光教、黒住教、大本教等の教派神道は教祖・開祖がいますし、日本の仏教の各宗派も開祖が存在しますから「創唱宗教」だということになります。
また別の区分では、「一神教」(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教等)と「多神教」(ヒンドゥー教、神社神道等)という類別の仕方もあります。しかしいずれにせよ、これも極めて大雑把な区分ではあります。
これらの類別に対して「自覚の宗教」と「啓示の宗教」というのは概略次のような区分です。
「啓示の宗教」というのは、例えば、ユダヤ教はエホバ(ヤハウエ)の神の啓示を受けたモーゼがその啓示の内容(これを神の「預言(よげん)」・「預託(よたく)」といいます)を基として人びとに伝えた宗教ですし、キリスト教はイエスがゴッドから示された啓示のことば(預言)によって伝道したものであり、イスラム教はアッラーの神の啓示を受けたマホメットが、その啓示を記したとされる聖典『コーラン』によって布教したものです。モーゼにせよ、イエスにせよ、マホメットにせよ、いずれも神の託宣を聞いてそれを伝えたのであって、その内容は自分の外から与えられたものです。自身の内なる声でもなければ、自身が悟ったものでもありません。そういう意味で「啓示の宗教」というのです。『新・旧約聖書』や『コーラン』のような『啓典』を聖典とするため、「啓典の宗教」ともいい、またこうした宗教を信ずる人びと、民族を「啓典の民(たみ)」とも申します。
オクスフォード大学教授で、東洋の宗教・倫理学の権威であるR・C・ツェーナーによれば、これらセム族の一神教に共通するのは、「神によって与えられたと信じる啓示に服従し、その啓示の内容に従って神を崇拝する」という思想だとされます(森本達雄著・中公新書『ヒンドゥー教』30頁)。
これに対して仏教は「自覚の宗教」です。釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタは、神の声を聞いて啓示(預言)を受けたわけではなく、自らがこの宇宙の理法(ダルマ)を悟り、自覚し、その理法を説いたのであって、法を悟って仏(ブッダ・釈迦牟尼仏・釈尊)となったからです。その意味で、仏教は「仏の教え」であると同時に「仏になる(成仏の)教え」でもあるわけです。
これは先のユダヤ教、キリスト教、イスラム教の各宗教の唯一絶対神(エボバ、ゴッド、アッラー)が人間とは隔絶した存在であり、人間は決して神になれず、神との契約を守ることによって恩恵を受け、神の国に召されるのとは基本的に異なります。仏教(特に大乗仏教なかんずく法華経)では、人間も仏になることが可能なのです。
○“開く”ということ
―「四仏知見(しぶっちけん)」と不軽菩薩の礼拝行―
このように、仏教は元来が「自覚を促す」宗教です。これを法華経によって拝見しますと、まず方便品(ほうべんぽん)第2には次のようにあります。
「諸仏世尊は唯一大事(ただいちだいじ)の因縁(いんねん)を以ての故に世に出現したまふ。[乃至]諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄(しょうじょう)なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したまふ。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に[乃至]。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に[乃至]。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまふ」
(開結100頁~101頁)
これは、仏がこの世に出でたもう目的は一切衆生をして仏自身と同じく「仏知見」を「開・示・悟・入(かい・じ・ご・にゅう)」せしめんがためであることを明らかに示される御文で、これを「開示悟入の四仏知見」と申します。
この「四仏知見」の第一、最初が「開仏知見」―つまり「衆生をして仏の知見を開かしめる」ことなのです。
次に常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさっぽん)第20には次のごとくあります。
「是(こ)の比丘(びく)凡(およ)そ見る所ある比丘・比丘尼(びくに)[乃至]を皆悉(みなことごと)く礼拝讃歎(らいはいさんだん)して是(こ)の言(げん)を作(な)さく。
我(われ)深く汝等(なんだち)を敬ふ、敢(あえ)て軽慢(きょうまん)せず。所以(ゆえ)は何(いか)ん。汝等(なんだち)皆(みな)菩薩の道(どう)を行じて、当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得べしと」
(開結488頁)
この不軽菩薩の礼拝行については、この「入門シリーズ」の②③(平成14年2・3月号)で「不軽菩薩の心をいただく」(1)(2)としてやや詳しく記させていただいておりますので、参考にしていただけたらと存じます。
「我深敬汝等(がじんきょうにょとう)」以下の御文は漢字で24文字ですが、その心は御題目の心と同じだと日蓮聖人も『顕仏未来記』に仰せです。
御文の心は「あなたは菩薩行をすれば必ず仏と成る素質(仏性)を秘めておられるのですから、どうかご自身でそのことに気がついてください」と、行き会うすべての人びと(所見〈しょけん〉の人〈にん〉)を仏として礼拝し「仏性(ぶっしょう)の自覚」を促されたものに他なりません。しかも、み仏は同じ不軽品の中で仰せです。
「爾(そ)の時の常不軽菩薩は豈(あ)に異人(ことひと)ならんや。則(すなわ)ち我が身是(こ)れなり」
(開結492頁)
つまり、この不軽菩薩は他でもない釈尊自身の前世の姿なのだと仰っているのです。
この不軽の24字にせよ御題目にせよ、お唱えすることによって、閉ざされ、眠っていた凡夫の心を開き、仏性に目覚めさせるものだということを知らねばならないのです。
○「妙」とは「開」―妙法こそマスターキー
日蓮聖人は仰せです。
「妙とは法華経に云く、方便(ほうべん)の門を開(ひらい)て真実の相(そう)を示す云云。(乃至)妙と申す事は開(かい)と云事(いうこと)也。世間に財(たから)を積める蔵(くら)に鑰(かぎ)なければ開く事かたし。開(ひらか)ざれば蔵の内の財を見ず」
(法華題目抄・昭定396頁)
「我(われ)日本の眼目とならむ」
(開目抄・下・昭定601頁)
「日蓮が慈悲嚝大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(と)未来までもながる(流布)べし。日本国の一切衆生の盲目を開ける功徳あり」
(報恩抄・昭定1284頁)
「開発(かいほつ)」という語も元来は「人間の内に眠っている最も尊い素質(仏性)がみ仏の慈悲によって目覚め、ぱっと開かれ発動・発展する」という意味です。
妙法の本質は「開」であり、上行所伝の御題目こそが、末法のすべての衆生の心の中に閉ざされている仏性を開顕するいわば「マスターキー」なのです。
○妙法への帰依(きえ)による仏性の開顕・啓発を
染織家の志村ふくみさんに次のような文章があります。
「親のもとで成長した息子や娘が年頃になって結婚し、就職し、環境によってそれぞれの色彩に変わってゆく。もちろん人間の場合はそれほど単純ではないが、それもある種の媒染(ばいせん)である。自分の持っている素質と遭遇(そうぐう)した事実との関わり合いでどんな色彩に変わってゆくか。(中略)でき得るならば、人間の場合も、自分にもっとも適した媒染を受けて、その素質を伸ばしてゆきたいものである。
植物の場合、もっとも自然な美しい色彩を得るには梅には梅の灰汁(あく)、桜には桜の灰汁で媒染するのがよい。みずからの灰で、みずからを発色させる。人間の場合はどうなるのか。自分で自分を媒染する。さらには自分を何ものかに捧(ささ)げ、あるいは帰依(きえ)するとき、最高の色を発色するのではあるまいか」
(岩波カラーグラフィックス『色と糸と織と』より)
媒染とは、糸を草木を煮出すなどして染めた色を灰汁や石灰や鉄などの媒染剤をくぐらせることによって、元の色とは違った色を発色させ定着させる染織技術です。
それが桜の木で桜色を発色させるには、同じ桜の木の灰汁が一番自然な美しい色を発色させるのです。
人間の場合は「自分で自分を媒染する。さらには自分を何ものかに捧げ、あるいは帰依するとき、最高の色を発色するのではあるまいか」と言っているのです。これは志村さんという一流の染織家が、自身の仕事を通じて感得した卓見だと存じます。
ここで日蓮聖人の御妙判をいただきます。
「凡(およそ)妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と(乃至)三世の諸仏の解(さとり)の妙法と一体不ニ(いったいふに)なる理(ことわり)を妙法蓮華経と名づけたる也。故に一度(ひとたび)妙法蓮華経と唱ふれば一切の仏(乃至)一切衆生の心中の仏性を唯一音(ただひとこえ)に喚(よ)び顕(あらわ)し奉る功徳無量辺也。我が己心(こしん)の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給ふ処(ところ)を仏とは云ふ也。譬(たとえ)ば籠(かご)の中の鳥なけば空をとぶ鳥のよばれて集るが如し。空とぶ鳥の集れば籠の中の鳥も出(いで)んとするが如し。口に妙法をよび奉れば我身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ」
(法華初心成仏抄・昭定1432~3頁)
同じく媒染を受け、あるいは帰依するなら、私たちにとって最高のものをいただかねばなりません。それが末法の凡夫にとっては上行所伝の御題目なのです。
信仰の本質はまさしく帰依・帰命(きみょう)することに他なりません。最高の御本尊・み仏のたましいたる御題目に帰依し、すべてを捧げることです。
「南無」とは梵語(ぼんご)で「帰依」を意味する語の音写(おんしゃ)です。妙法に帰依し、受持信唱させていただくのは、一見すると自分の外の存在に向かっているようですが、実はそうではないのです。外なる妙法に帰依し口唱することが、実はそのまま自分の内なる妙法(仏性)を呼び顕わす(開き、啓発する)ことに他ならないのです。
それを日蓮聖人は籠の中の鳥と外の鳥とが鳴き交わす様(さま)に譬えておられるのです。しかも、妙法でなければ妙法(仏性)は呼応しないのです。志村さんは「自分で自分を媒染する」「あるいは帰依する」とき最高の色を発色するのではないか、と言っていますが、妙法の口唱はこの一行に両方の意味を兼ね備えているとも申せましょう。最高の御本尊(妙法)に帰依し妙法を口唱することによって、実はお互いの内に秘めた最高の素質(妙法・仏性)を開き、啓発させていただくのですから。
鳥が呼び交わす譬えは、本当によくわかります。
筆者も、少年のころ田舎で育ちましたから、メジロやウグイスを同じ方法で捕えました(現在はそんなことをすれば違法で、罰せられますが)。よく鳴く鳥を一羽籠に入れて森に行き、木の枝に吊るして、その周囲にトリモチを付けた細い棒を何本か仕掛けておくと、野生の同種の鳥が集まってきて、内と外で鳴き交わしているうちにトリモチにかかるのです。メジロにはメジロ、ウグイスにはウグイスが集ってくるのです。
日蓮聖人も、もしかしたら少年時代にそんな経験がおありだったのかもしれません。いずれにせよ、これは当時の民衆にもよく知られていたことなのでしょう。
開導聖人が御教歌に次のようにお示しくださっているのも同じ意かと存じます。
妙法の声をよそにやきゝぬらん
おのが心の名ともしらずて
(拝要抄(下)・扇全12巻167頁)
「凡夫の心の中に眠っている仏性の名が実は他でもない御題目なのだから、御題目を唱えるということは、実は自身の仏性に呼びかけているということなのだ。そのことに早く気付き、自覚してほしい」と仰せなのです。自分の名を呼ばれた方が、目も覚め易いのはもちろんですね。
毎年のことながら、今年も、裏庭のフウランが咲きました。柿の木に着床してます。
今日は28日ですが、何日か前から蝉も喧しく啼いてます。まだ梅雨明けしてないけど(北九州の梅雨明け宣言はまだです)…。
ご講有ご夫妻は、もうブラジルからご帰国かしら?(J・M)
―「原理主義」に陥(おちい)らぬよう―
○「原理主義」について
前々回来「謗法を戒める―信仰の純正化」のテーマで2回にわたって記し、その(1)では「根本の謗法」である「妙法不信」について説明し、その(2)では「謗法の態様」について略説いたしました。(2)では、謗法に対する折伏に関して、まず最初に整理・区分しておく必要があるものとして、「信者(宗内)」と「宗外者」とがあり、これを混同してしまわないように注意するべきである旨申しあげました。宗外者はもともと謗法の人ではあるものの、それは致し方のないことであり、むしろ教化して正法に帰入せしめ、真の幸せへと導くべき人であるのに対して、信者は既に入信し、妙法に帰依(きえ)した人だからです。「信仰の純正化」というのは、主として信者を念頭に置いたものであり、例えば宗風の各号、特に第4号(決定[けつじょう])の「妙法に一心帰依」とか、同第3号(止悪[しあく])の「習損[ならいそんじ]を戒め、謗法を折伏する」等は、当然ながら「信者を対象」とするものなのです。
注意を要する例として、親は強信者(ごうしんじゃ)であっても、当人は「ご信心から離れていた信者の子弟」を挙げましたが、同様のことは「宗外から信者に嫁いできた女性」等にも申せます。「信者と結婚した以上あなたも信者だ」という思い込みや決めつけは要注意です。そういった子弟やお嫁さんに対しては、むしろ宗外者を教化し、育成していくのと同じ姿勢で臨むべきではないかと存じます。
一概には申せませんが、家族・親族や、周囲のご信者にもそういう配慮が求められているのではないでしょうか。こうした場合、無意識のうちに「あなたも信者だ」と決めつけて、ややもすると信者に対するのと同様の視点で折伏をしてしまう例もあるようで、そうなると思いがけない無用の反発を誘発してしまうことにもなりかねません。むしろ「宗外者と同じなのだから」くらいに思い、「これから教化育成だ」という姿勢で臨んだほうが失敗が少ないように存じます。
さて、今回は「謗法を戒め信仰の純正化の努力をする」ことが、誤って「原理主義」に陥らないように、というテーマです。
そこでまず、いわゆる「原理主義」とはどういうものなのかを概説しておきます。
ご承知のように米国での同時多発テロ事件が発生して以来、「イスラム原理主義」という言葉があらゆるメデアを通して私達の耳目に触れるようになりました。この「原理主義」(ファンダメンタリズム)というのは、概して「何事であれ、一つの原理原則を金科玉条(きんかぎょくじょう)と決め込んで、それを他者に向けて強硬に主張する」というあり方だとされます。また、その共通の特色として、その内部では自分達の主張が「原理主義」だとは考えていません。例えば『コーラン』を絶対視し、そこに記されている通りのことを現代にも実践・実現し、それ以外の社会現象のすべてを否定しようとするのが「イスラム原理主義」ですが、当のイスラム原理主義団体の側には「イスラム原理主義」という言葉はありません。言葉すら無いということは、当然その自覚もないわけです。
東京外国語大学教授(比較宗教学)の町田宗鳳(そうおう)氏は近著の『なぜ宗教は平和を妨げるのか』(講談社+α[ぷらすあるふぁ]新書)で次のように記しています。
〈すべての信仰には、それぞれ独自の「宗教の原理」があるが、それは個々の宗教を特徴づけるものであって、決して有害なものではない。(中略)「宗教の原理」が問題となるのは、それが柔軟性を失って、硬化したときである。(中略)
信仰が純粋であればあるほど、異教の「宗教の原理」との心理的境界線が太くなり、まるで異人種でもあるかのように異教徒を見はじめる。それがいわゆる原理主義であるが、信仰の異なる者に対して排他的になり、やがてその立場を暴力的にでも否定しようとする〉(同書162頁)
また解剖学者・養老孟司(たけし)氏も近著『いちばん大事なこと』(集英社新書)の中で次のように言っています。
〈環境問題について、これまで私が発言したくなかった理由の一つに、環境問題の活動家たちのあいだに「環境原理主義」とでも呼ぶべき思想があったことがある。たとえば、グリーンピースという世界的な環境保護団体がある。かれらはクジラを絶対に食べるなという。(中略)それなら増えすぎたクジラは食べてもいいじゃないかと思うが、そういう話は通じない。(中略)
かならずしも予測が可能ではないこの世界では、「絶対」ということはありえない。(中略)現代社会で私が不安に思うのは、そこの理解である。たとえば宗教が提示する「絶対」に従う人間があんがい多い。宗教上の原理主義はそれである。近年ではオウム真理教の問題がそれだった〉(同書48頁~49頁)
○比較不能な価値観の対立と原理主義
東京大学法学部教授(憲法学)長谷部恭男(やすお)氏は、最新刊『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書)で次のようにいいます。
〈人生の意義にかかわる二つの根底的な価値観、たとえば2つの異なる宗教は、両方を比べる物差しが欠けているという意味で、比較不能である。それぞれの宗教は、それを信奉する人にとっては、その宗教こそが最善の宗教である。2つの宗教の価値を比べる物差しはない。(中略)
比較する客観的な物差しのないところで、複数の究極的な価値観が優劣をかけて争えば、ことは自然と血みどろの争いに陥りがちである。それぞれの人生の意義、宇宙の意味がかかっている以上、たやすく相手に譲歩するわけにはいかない。しかも、人の能力はさほど異なるものではなく、一方の陣営が必ずしも圧倒的な優位に立ちうるわけではない。宗教の対立が戦争を生み出しがちなのは、自然なことである。
哲学者のリチャード・ローティは、旧ユーゴスラヴィア等で民族や文化の対立が内乱を引き起こすとき、対立する者同士は、相手をそもそも「人間」とみなさない傾向があると指摘する。ボスニアのセルビア人にとって、ムスリムはもはや「人間」とはいえない。自分たちが人間として生きる上でこの上なく大切だと思う文化や価値を重んじない人間が現れれば、それを自分たちと同じ「人間」として扱わないということも生じうるであろう〉(同書55頁~57頁)
このような「価値観の比較不能性」が持つ意味をよく理解すれば、まず求められる課題は〈宗教的にも、哲学的にも、また道徳的教理の点でも正義と公正にかなった社会を確立すること〉であり、〈そして、これが課題として意識されるにいたった背景には、宗教改革とそれを発端とする宗教的寛容に関する論争がある〉(同書187頁)
とあります。
実は西欧の宗教戦争に対する反省に基づく、「価値観の比較不能性」を踏まえた「宗教的寛容」の思想こそ、立憲主義に相当する発想の基点の一つだとされています。だからこそ、日本国憲法も「信教の自由」を厳格に保障し、宗教に対して国及びその機関が中立・公正であり、宗教が国家権力から自由であることを明定しているわけです。
先程来、少々難しい引用をしていますが、全体としてご理解いただきたいのは、まず第1に、宗教には元来原理主義的な要素が内在していること、しかし、そのこと自体は決して有害なものではなく、むしろ個々の宗教を特徴づけるものだということです。しかし第2、にそうした宗教の原理が硬化し、柔軟性を失い、尖鋭化して、他者に対して排他的、暴力的になる(オウム真理教やイスラム原理主義、キリスト教原理主義等がその例)とこれは大きな問題となります。そして第3に、こうした宗教的原理主義が政治・経済の原理や民族の原理と結び付き、さらに権力と結び付いた場合には、紛争や戦争さえ引き起こしかねません。そうした危険から市民を守るための制度が、立憲主義であり、信教の自由の保障であり、政教分離原則なのです。国家権力の宗教に対する中立性・不介入や、政治的な権力と宗教との分離が求められる原点はここにあります。この背景として第4に、「価値観の比較不能性」(例えば思想や宗教や文化の価値の優劣を計る客観的な物差しは無いこと)に基づく「宗教的寛容」(他の宗教の存在を互いに容認しようとすること)も、権力側には強く求められているということも理解しておく必要があるのです。
○当宗の謗法観―原理主義との対比
では当宗の謗法観とはどういうものでしょう。開導聖人の御指南には、
○「法に背(そむく)を謗と云(いう)也」
(このシリーズ㉙で引用。扇全14巻23頁上欄)
○「仏祖の御意(みこころ)に背(そむ)く事をすればみな謗法也と知るべし」 (扇全7巻74頁)
とあるごとく、基本的に「妙法に違背すること」また「妙法(正法)を正しく教導された仏祖のみ教えに背くこと」はすべて正法を謗(そし)る「謗法」なのです。なぜなら妙法こそこの全宇宙の真理であり、生命であり、唯一根本のみ仏であり、全ての諸仏諸天善神を包摂する絶対の理法だからです。この妙法に帰依し、信奉する佛立信徒にとっては、妙法こそが唯一絶対・最高の教えです。唯一絶対の仏であり教えである以上、これを信受すべきであり、それができなかったり、その教えに違背するあり方は、当然すべて謗法だということになります。これがいわば当宗の謗法観の根本です。ここには当然ながら佛立宗としての「宗教原理」が存在します(例えば「佛立開講150年奉賛歌」の歌詞・参)。
しかし、町田氏も指摘するように、宗教は元来独自の宇宙観、世界観、価値観を有するものであり、真理の体系を持っていて、それが絶対のものであると主張するものです。むしろ、そうした教義体系は各宗教の独自性を特徴づけるものであって、それなしには宗教としての一宗の存在意義も認め難いとも申せます。
各宗教の価値の優劣を計る客観的基準がないため、国家権力等が宗教問題には介入しないのは当然といえば当然です。しかし、宗教・宗派間ではそうは参りません。各宗教が布教活動を行うにあたっては、当然ながら自宗・自派の優越性を主張します。当宗でいえば、宗外者に対する教化・折伏に際して、佛立宗の正当性や優位性を主張するのは、布教活動の一環としても当然なのです。ただその場合にも、次の諸点はよく心得ておく必要があろうかと存じます。
まず第1に、既に一定の思想なり信仰なりを持っている人に対しては、一概に真っ向からそれを否定したり、「謗法で間違ったもの」だと決めつけたりしてしまわないことです。まずは一応そうした信仰や思想の存在を認めた上で、なおかつ、例えば、すべては妙法の真理の中に包摂されてしまい、すべては御題目にこもるのだから、その他に別の教えを信奉する必要はないのだ、といった方向で説得する必要があります。
第2に、それでも、論理的・教義的な面での説得には限界があります。それは先に記したように、各宗教は独自の教義体系を有していて、その客観的な優劣を決定する共通の物差しはなく「比較不能」であるため、異なる宗教間ではいわば「議論の土俵」そのものが異なっており、いわゆる「水掛け論」の応酬となってしまうからです。「教義的な論争(法論)は不毛だから、むしろ客観的・具体的な事実(現証)の説得力を重視し、これで勝劣を決せよ」という先師の教えは、こうした法論の不毛性を踏まえたものなのです。当宗が「現証」を重視し、「現証布教」を大切にする理由もここにあります。
第3に、たとえ相手が反発しても、それでも何とか助けたいと思う心や姿勢が求められます。反発や攻撃に対して怒りの心を起し、こちらも反撃するということは許されません。教化折伏は慈悲に基づく菩薩行だからです。それなのに、こちらが正しいからといって、相手を正義に反する敵として攻撃したりすれば、それこそ「原理主義」に陥ってしまいます。それは慈悲を根とする「不軽流の折伏」ではありません。反発し暴力的な相手をも尊敬し、礼拝して、ついに正法に帰依せしめようと努力すべきだ、という姿勢が求められているのです。み仏も、不軽菩薩も、蓮・隆・扇三祖もみな暴力的な迫害や弾圧を受けられましたが、決して暴力的な応酬はなさっておらず、むしろ迫害を加えた人たちを「善知識(ぜんちしき)」(自身の信仰を高め、導くもの。よき教師の意)だと受けとめておられるのですから。
国家が各宗教に対して介入せず、中立を守ることを求めることの基礎となった「宗教的寛容」は経験に学んだ極めて大切な思想です。しかし、これは各宗教間ではそのままではありえません。各宗教が自宗以外の宗教を「そのまま是認する」とすれば、自宗の独自の存在価値もなくなってしまうことにもなるからです。無論そこでは「折伏」も必要ないことになってしまいます。そういう寛容さは、誤りをもそのまま正すことなく是認し、目をつむって受容していく、いわゆる「摂受(しょうじゅ)」になってしまいます。これは信仰の純正化を大切にする当宗の呵責謗法(かしゃくほうぼう)・折伏の教えに反するものです。
開導聖人は御指南に仰せです。
○「されば末法悪世には宗論問答何の詮(せん)かあらん。現証利益こそ御弘通の道也」
(開化要談・体・扇全13巻318頁)
○「経力を以て諸宗の学匠に勝ち、利生を以て人を助くる経力宗也」
(開導要決・扇全27巻239頁)
宗外者に対しては教義的論争ではなく、妙法の経力つまり現証利益という事実による折伏・説得が教化の直道(じきどう)であるとの御指南です。
また宗内に対しては次のように仰せです。
○「信者互に懈怠、不参、不行儀等を責合(せめあ)ふが持戒(じかい)なるを、責(せめ)ずして彼が為(ため)の悪友となるをかたく謹みて、臆病(おくびょう)なく、にくまるゝ迄に実意(じつい)をもて責るは当宗の持戒なる事」
(百座一句・扇全14巻357頁)
○「瞋恚(しんに)をおこさず実非(じっぴ)を糾明(きゅうめい)して、ことおだやかに取り計らひ(乃至)互ひにいさめあひて云々」
(三組講頭披露異体同心教誡状・扇全2巻380頁)
ご信者間で信仰の純正化のため折伏する場合であっても、相手を思う慈悲の心をもととし、真心をこめて折伏することや、「ことおだやかに取り計らひ」「互ひにいさめあ」うことが大切な心得だと仰せなのです。
これは宗内外いずれを通じてもいえることですが、いくら正しいことでも、言葉荒く、怒りにまかせて相手をなじっては、相手は腹を立て、反発を招くばかりで、それでは折伏も通りません。これは折伏の失敗という他はありません。開導聖人も、そんな折伏は「折伏の仕損じ」だと仰せです。やはり、信者間での謗法の折伏も、時と場所や状況をよく踏まえ、無用に相手を傷つけず、相手が得心し、腑(ふ)におちるよう、慈悲の心でさせていただくことが大切なのです。
○「人をうらめば我に罪あり。他を助くれば我に福あり。因果応報とは是なり」
(人を拝むに慈悲深かれの事・扇全17巻21頁)
との御指南もあり、また高祖日蓮大士の御妙判にも次のように仰せです。
○「かゝる重病をたやすくいや(癒)すは独(ひと)り法華の良薬(ろうやく)也。只(ただ)須(すべから)く汝(なんじ)仏にならんと思はゞ、慢(まん)のはたほこ(憧)をたをし、忿(いか)りの杖(つえ)をすてゝ、偏(ひとえ)に一乗に帰(き)すべし。(乃至)上根(じょうこん)に望めても卑下(ひげ)すべからず。下根(げこん)を捨(す)てざるは本懐(ほんかい)也。下根に望めても憍慢(きょうまん)ならざれ」
(持妙法華問答抄・昭定278頁)
「末法現代の衆生はすべて貪瞋癡(痴)[とんじんち]の三毒の重病に苦しむ定業堕獄(じょうごうだごく)の凡夫である。こんな重病を癒すことができるのはただ御題目という良薬だけなのだ。どうかあなたも慢心や忿怒(ふんぬ)の心を捨て、妙法に帰依されよ。(中略)自分より優れた人に対して卑屈(ひくつ)になったり、劣った人だからといって傲慢(ごうまん)になったりしてはならない。救い難く度(ど)し難い人を救済することこそがみ仏の本懐であり、私達の第一の願いなのだから」、とのお心です。
こうしたみ教えのおこころを常に忘れないで宗内の信仰の純正化に努め、宗外者の教化折伏に臨ませていただけば、当宗の「謗法に対する折伏」が間違っても原理主義に陥ることはないと存じます。
―「原理主義」に陥(おちい)らぬよう―
○謗法―その中身と態様
前回は「謗法を戒める―信仰の純正化(1)」として「根本の謗法」である「妙法不信」について説明し、この「不信」とは「積極的に妙法を信じ行ずる以外のすべて」、つまり「積極的に妙法を誹謗(ひぼう)し敵対する」ことはもとより、「信ぜず行ぜぬ」状態や、さらには「無関心」や「妙法を知らない」状態をも含む旨申しあげ、開導聖人の御指南もいくつか紹介させていただいた上で、〈要するに、当宗においては、上行所伝の妙法の受持信唱こそが信行の根本なのであり、妙法の一向口唱、一心帰依が肝心なのであってこれに反するもの、不純なものはすべて「謗法」となり、そうなると現証の利益はもとより、成仏の果報など到底いただけないことになるのです。
「謗法を戒める」ということは、そういう意味で「信仰の純正化」を意味するわけです。「妙法不信」という根本的な謗法がもととなって、懈怠(けだい)をはじめ信行ご奉公の具体的なありようにつき、さまざまな謗法が生じてきます〉と記しました。
今回は、この「根本謗法」に基づいて生じてくる謗法の中身ないし態様について極く概略の説明をさせていただき、次回では、特に「謗法に対する折伏」が、誤っていわゆる「原理主義」に陥(おちい)らないための用心について言及したいと存じます。
なお、まず最初に整理をしておかねばならないと思うのは、「信者」(宗内)と「宗外者」(宗外)との区分です。
「信者」も、「無始已来」の御文で常に言上申しあげるように、元来は妙法に違背してきた謗法の人だったのですが、入信して妙法に帰依してそれ迄の謗法を懺悔し、仏祖のみ教えに随順して罪障消滅を志す者です。その信行の道を歩むについて道を誤ることのないよう(つまり謗法を犯さぬよう)信心の純正化を心掛けるわけです。
これに対してまだ当宗に入信していない宗外の人びとは、当人の知・不知は別として、まだ妙法に帰依していないのですから、その意味で皆すべて「謗法の人」なのであり、一日も早く正法に随順せしめるべく折伏・教化をさせていただくべき対象に他なりません。宗外者を指して「謗法人」と一括して呼ぶこともありますが、それはそういう意味ですから、宗内でこそ許されるとしても、宗外者に向かって使用すべき呼称ではありません。
また同じく「謗法に対する折伏」でも、信者に対するときは主として「信行の改良や育成」を目的とするものであり、宗外者に対するときは「教化」を目的とするものなのです。こんなことは当然のことですし、よく分かっていることだとは存じますが、それでもややもすると混同してしまうようなこともあるようですから、やはり注意が必要です。宗外者に対して、あるいは本人はまだ信者の自覚を持っていない人に対して、こちら側はまるで「信者のごとく」思い込んで折伏をしてしまうようなこともあるわけです。
例えば、ご信者の家族・子弟で、幼い頃は親と共に薫化会やお寺に参詣していたものの、成長してからは信心から離れ、いわば宗外者同然になっている人に対してはどうでしょう。少しは当宗のことを知っているにしても、当人の意識なり自覚なりの上では信者とは言い難いのですから、そういうことをよく踏まえ、むしろ宗外者に準じた対応をする配慮が必要でしょう。
それなのに「あなたの親は立派な強信者だった。あなたもこうしなければ謗法だ」などと言ってしまったら、相手は到底受け入れ難いのではないかと存じます。これに類したことは他にもいろいろとあると存じます。「混同しないように」というのはそういうことです。
「謗法」はもちろんすべての衆生に基本的に該当するものであり、その折伏・改良も同様です。けれども、すでに信者となった者に対する場合と、宗外者に対する場合とでは、その折伏・説得のあり方も手順も当然異なるのだということをよく弁えておく必要があります。開導聖人の御指南をいただく際も、その点は留意する必要があるわけです。因みに開導聖人の御指南で謗法に関するご教誡の多くは、やはり信者に対するお折伏であり、信心の純正化に関するものだと申せます。
○「謗法」の種別と態様
謗法の種別と態様については、実に様々なものがあり、具体的な場面での細かな区分や類別をしていけば、文字通り際限がないと存じます。そこでここでは極く極く基本的な概説のみでお許しいただきたいと存じます。
①妙法不信(違背)、疑迷〔ぎめい〕、懈怠〔けだい〕
○「妙法不信」は既に記したごとくいわば「根本の謗法」です。そこから、意識的にせよ、無意識的にせよ、あらゆる謗法が派生してきます。「疑迷」は妙法や仏祖のみ教えに信順せず、これを疑ったり、道に迷ったりすることです。これは主として凡夫の考え・我見〔がけん〕(世間のいわゆる“常識”も含む)が邪魔をしているわけで、その意味では凡夫の「我」(が)こそが「信」を妨げる根源だと申せます。またこれは「自分の我見が仏祖のみ教えより優先する」ということで、これを「慢心」「憍(驕)慢〔きょうまん〕」と申します。そしてこうした心がもととなり「懈怠」が生じます。凡夫は元来が怠りがちなものですが、正しい信心のあり方、角度を定めても、これに向かって進む(精進〔しょうじん〕)ことを怠けるわけですから、これではご利生もいただけません。
○開導聖人が御教歌に
御利益のいたゞけぬみち四(よ)ついかに
うたがひまよひほこるをこたる
と仰せなのは正しくこの点です。
○「法華経は一切経の中の王也。南無妙法蓮華経の五字は一部(いちぶ)の御意(みこころ)也。故に万法具足の秘要法と申也。何(いず)れの経々の功徳も、何れの仏菩薩等の御利生(ごりしょう)も、みなみな此(この)一大秘法にこもれり。故に余宗余経(よしゅうよきょう)をたのむ心あるを謗法の疑迷(ぎめい)といふ也。御利生なし、御罰あり。」
(如四観三意抄・扇全13巻11頁)
○「もろもろの薬を薬とおもひて、上行所伝の要法(ようぼう)《良薬》を不信のものは、宗内の謗法人也。大良薬(だいろうやく)の外(ほか)に諸(もろもろ)の薬を求るは謗法也。」
(御弟子旦那抄上・扇全14巻75頁)
右の御指南は共に「疑迷」の具体的かつ代表的な例で、要は妙法に一心帰依のできていない姿です。また次のようにも仰せです。
○「信者謗法を改めずしていか程口唱に励むとも御利生ある事なし。云はゞ風呂のつめをせずして水を汲入(くみい)るゝが如し。」
(十巻抄第三・如説抄拝見完・扇全14巻411頁上欄)
妙法はすべての功徳が不足なく具(そな)わっている大良薬なのだから、ただ一筋に妙法の受持信唱をさせていただくいことが肝心。それなのに疑迷等の謗法があっては、いくら妙法を口唱しても御経力をいただくことなどできない。それはあたかも栓(せん)の抜けたままの風呂に水をためようとするようなものだ、と戒められるのです。
②「事相の謗法」と「心の謗法」
「事相の謗法」とは外見からそれと見える謗法、外形的に認知できる謗法のことであり、「心の謗法」とは内心の謗法で、外見からはそれと認識しにくい謗法を指します。
開導聖人は御指南に仰せです。
○「病(やまい)のつらさに謗法の札守(ふだまもり)等は払(はら)ふと云へども、其(その)心に若(もし)思ひ引(ひか)るゝ事かくし有る謗法等あるときは御感応(ごかんのう)なし。猶(なお)責(せ)めて用ひざれば助行する事なかれ。」
(和国陀羅尼〔やまとだらに〕・扇全14巻317頁)
右の御指南は次の御教歌のお書き添えです。
○おぼつかな折伏うけて謗法を
はらへど人をうらみがほなる
病人を折伏して入信せしめ、他宗堂社の札(ふだ)や守(まもり)等、外形からそれとわかる謗法(事相の謗法)は何とか払う(これがいわゆる「謗法払〔ほうぼうばらい〕」)ことはどうにかできたのだけれど、まだ心底では得心していないらしく、いかにも未練(みれん)がましい表情をしている(つまりまだ「心の謗法」は残存している)。これでは本当の入信・帰依ができていないのだから、ご利生をいただくこともおぼつかない。この点を再度よく折伏し、得心させてからでないとお助行も効果がなく、無駄になってしまい、結果却(かえ)って妙法を疑い軽しめることにもなりかねないから、そこをちゃんとするまではお助行もしない方がいいぞ、との意です。
概して「事相の謗法」は外形上のものですから折伏して払うこともある面で容易ですが、「心の謗法」は内心のもので外から認知しにくいため払いにくいとも申せます。余程ことを分けて穏(おだ)やかに、よくよく説明して、得心させる必要があるわけです。
③「言語の謗法」「所作の謗法」「心の謗法」
これはいわゆる「身(しん)・口(く)・意(い)三業(さんごう)」で犯す謗法です。こういう類別もあるのです。
御指南には次のようにございます。
○「先(まず)自(みず)らをつゝしむの一段。
われと謗法を改むるに大なる功徳をうる也。
さんげして口唱すれば所願速(すみやか)に成就す。
一 言語の謗法
二 所作の謗法
三 心の謗法也。(後略) 」
(一紙一座法門抄・扇全6巻428頁)
これは何れも「自身の改良」を促された御指南ですが、信者一般や相互にもあてはまります。
(1)「言語の謗法」は三業のうち「口」の謗法です。自身が嘘をついたり、謗法がましいことを口にするのはもちろんですが、同時に他の信者が口の謗法(悪口〔あっく〕、両舌〔りょうぜつ〕、妄語〔もうご〕等)を犯しているのを見聞きしながら折伏しないのも「与同(よどう)の謗法」(与同罪とも。自身が直接謗法を犯すのではないが、見てみぬふりをし、折伏しないのは直接犯しているのと同じ、いわば共犯だというのが「与同」の意)だと戒めておられます。
(2)「所作の謗法」は身体の振舞での謗法ですから、三業では「身」の謗法です。所作のすべてにわたりますが、例えば「他宗の堂社の前にて足袋(たび)のひもを結ぶ等」、心ではそうでなくても外形から見て謗法と紛(まぎ)らわしい所作振舞(これを「相似〔そうじ〕の謗法」と申します。気持は全くそうでなくても、他から見て間違われかねないような行動)も可能な限り避けよ、と諭されています。いわゆる「李下(りか)に冠(かんむり)を正さず。瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず」(文選〔もんぜん〕)ということです。
(3)の「心の謗法」は意業によるもので、内容は既に説明した通りです。なお、(1)と(2)は「事相の謗法」でもありますね。
―「原理主義」に陥(おちい)らぬよう―
○進行する静かな大変革
前回と前々回の2回にわたり、「平等と差別(不二と而二)―ジェンダー・フリーに寄せて―」のテーマで記し、仏教の「不二(ふに)と而二(にに)」の観点からの「ジェンダー・フリー」の概念の基本的な説明を試み、「男女共同参画の社会の中での佛立宗のお役中のあり方は?」という視点も、これからのお役中には求められている旨申しあげました。
この問題につき付言いたしますと、「時代の風」(平成16年4月11日・毎日新聞朝刊)で、川勝平太氏(国際日本文化研究センター教授)は次のように指摘しています。
「(前略)いまや、高等学校への進学率は97%で、ほぼ全員が高校に進学しており、実質的に義務教育と変らない。
大学(短期大学を含む)への進学率は50%。つまり、高卒の2人に1人が大学に進学している。この高い進学率の背景には女子の進学率の上昇がある。平成期に入ってから16年間、女子の大学進学率の高い年の方が多いのだ。これは現代の日本社会で進行している静かな革命である。というのは、平成元年に18~19歳で大学に入学した人は、現在では34~35歳、言い換えると、18歳から34、35歳までの青年の学歴は男女で差がなく、あと10年すると44、45歳まで、また20年すると54、55歳までがそうなる。つまりこれから20年のうちに、日本の働き盛りの年齢層で男女に学歴差がまったくなくなる(ただし、大学院への進学率は現在10%をこえたが、女子の大学院進学率はまだ男子の半分だ。しかし、確実に女子の大学院進学率も上昇しており、早晩、対等になるだろう)。
そのことから女性の社会的地位は確実に上がっていくと予想される。
「元始、女性は太陽であった」と平塚らいてうが1911年に雑誌『青鞜(せいとう)』の発刊の辞にかかげて婦人の地位向上の運動をおこして以来、その成果が実り、女性の地位はついに男性と対等になる。日本の社会は、卑弥呼(ひみこ)が女王であった時代を過ぎてからは、男子が圧倒的な優位をしめしてきた。それがくつがえる。2000年来の大変革である。女性にとっては、男女同権に向けた男との戦いにもまして、女性同士の競争が熾烈(しれつ)になるだろう。日本のすみずみにおいて、ますらおぶりの男性的価値から、たおやめぶりの女性的価値が重きをなすようになるだろう。(後略)」
「ジェンダー・フリー」も「男女共同参画社会」も、もう現在のものなのだということです。「意識変革とその実践の努力はお役中の急務だ」と申さねばなりません。
さて今回は「謗法を戒める…信仰の純正化」というテーマです。
このテーマに深く関連するものとして、このシリーズの「懺悔(さんげ)の大事」(1)(2)(平成15年1、2月号、シリーズの⑬⑭及びそれをまとめ補足した⑮)があります。例えば⑭では次のように記しました。
「まず懺悔すべきは妙法不信(謗法)の罪です。お互いの命の根源ともいうべき妙法を信ぜず、誤った生を繰り返す事で重ねた罪(根本罪障)を懺悔するのです。(中略)
お互いは方角を誤った旅人、あるいは脱線した列車にも譬えられます。進んでいるつもりが、目的地からは離れるばかり、いや前進すらできず無駄な労力を費やしているのです。一刻も早くそれに気付き、方角を正し、レールを復旧して乗せ直さねばなりません。根本さえ正せば、ずっと楽に本来の目的地に到達できるのです。」
「謗法」というのは「真実の大法(法華経本門八品に顕され、久遠のみ仏から上行菩薩に付属された御題目・妙法)を謗(そし)ること」つまり「妙法不信」ということに他なりません。そしてこの「不信」(違背)というのは必ずしも積極的に誹謗(ひぼう)し敵対することだけを意味するものではありません。消極的に「信じない」ことも、さらには無関心で妙法の存在そのものも知らず、結果的に妙法に背いた生き方をしている場合も含みます。言い換えれば、積極的に妙法を信じ行じていない限りすべて「不信」であり、「謗法」なのです。
私どもが「無始已来謗法罪障消滅(むしいらいほうぼうざいしょうしょうめつ)」と『無始已来の御文』で言上申しあげる「謗法」というのがまさしく謗法の根源であり、根本なのです。過去遠々劫来(おんのんごうらい)、無数の生を繰り返すなかで、意識的にせよ、無意識的にせよ、今日(こんにち)まで妙法を信ぜず行ぜず、誤った生を繰り返し、その為に罪(謗法罪)とその罪による成仏の障(さわ)り(罪障)とを積み重ねて来た、この謗法による罪障を消滅させていただけるよう、只今からは妙法を受持信唱し、成仏の果報をいただくまで(仏身に至〈いたる〉まで)もう決してはなしません(持奉〈たもちたてまつ〉る)、と言上申しあげるのですから、この御文こそ根本の謗法と罪障を懺悔し、改良をお誓いする御文なのです。
○謗法を戒める―信仰(信心)の純正化
謗法を改めるということは、先にも記したように「信心の角度を正す」「修正する」ということです。従来の誤った方角、角度を妙法に正対するよう改めると同時に、今後もその角度がズレたりすることのないよう、常に注意し続けていくことが大切なのです。「指南」の原意はコンパス、羅針盤のことだということも⑮で申しあげた通りです。角度は、ほんの1度、1分、1秒でも誤れば、遠い先では道を大きくはずれることになります。「謗法はいわば信心の角度違いなのだから、たとえわずかでも誤れば目的地(成仏)には到達できない。よくよく注意をするように」というのはこのことです。とにかく「方角を正し、まっすぐに進み続けること」が大事なわけです。
当宗の「宗風」第四号(決定〈けつじょう〉)に「……悪世末法(まっぽう)の求法(ぐほう)の道に迷惑(めいわく)せぬよう用心し、妙法に一心帰依(いっしんきえ)して……決定無有疑(けつじょうむうぎ)の素懐(そかい)に住(じゅう)する」と明定(めいてい)とされているのも、こうした観点からいただくこともできます。「求法の道に迷惑せぬ」というのはまさしく「成仏を期して、妙法の正しい信心の道を誤り迷うことのないよう」ということで、その為にはフラフラせず「妙法に一心帰依」せよと示されるわけで、これは当然ながら、第三号(止悪〈しあく〉)の「習損(ならいそん)じを戒め、謗法を折伏する」ことと一体となっています。
ここで開導日扇聖人の御指南をいくつか頂戴しておきます。
①「法に背(そむく)を謗と云(いう)也」(上欄)
「祖師の御(み)をしへにまかすか、我が迷ひのおもはくにまかすか。これによりて信不信、賞罰顕然(しょうばつけんねん)也。」
(開化要談・教・扇全14巻23頁)
②「謗法は障(さわり)也。
(乃至)謗法あらば信者たりとも御利生(ごりしょう)顕(あらわ)れず。(乃至)御題目を願ふ外(ほか)に余所(よお)を頼むを謗法と云也。」
(本門正機信入抄・扇全11巻217頁)
③「謗法となる筋(すじ)と信心の用心とを常に御(おん)心がけ候て(乃至)成仏の叶(かな)ひがたきは只これ謗法にあり。謗法だにまぬがれたらば、成仏は掌(たな)ごゝろにあり。」
(御書抄・全・扇全15巻332頁)
○諸(もろもろ)の悪の中には謗(ぼう)法華経第一の極悪重罪也。
○諸善(しょぜん)の中には題目信唱第一の極善(ごくぜん)大福也と云々。」
(末法折伏要学抄・扇全9巻115頁)
以上要するに当宗においては、ただ上行所伝の妙法の受持信唱こそが信行の根本なのであり、妙法の一向口唱、一心帰依が肝心なのであって、これに反するもの、不純なものはすべて「謗法」となり、そうなると現証の利益はもとより、成仏の果報など到底いただけないことになるのです。「謗法を戒める」ということは、そういう意味で「信仰の純正化」を意味するわけです。「妙法不信」という根本的な謗法がもととなって、懈怠(けだい)をはじめ信行ご奉公の具体的なありようにつき、さまざまな謗法が生じてきます。
次回には、謗法の中身についてもう少し具体的に記すると同時に、いわゆる「原理主義」との対比を通して、誤って原理主義に陥らないための用心についても触れたいと存じます。
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