─「ジェンダー・フリー」に寄せて─
○「男女共同参画」とは
前回は「平等と差別」という問題について仏教でいう「不二(ふに)と而二(にに)」という視点からの見方を紹介しつつ、この観点からいわゆる「ジェンダー・フリー」という概念の基本的な説明を試みました。
もっとも、前回も申したように、この問題は、私自身随分至らない点が多いわけですから、「ともに入門」ということで、一緒に勉強し、考えてまいりたいと存じます。
「不二」と「而二」についてもう一度申せば、「不二」は「同一性」であり、「而二」は「相違」「個別性」「不同性」を意味します。それが「而二不二」と熟字すれば「個性はありながらも本質的には同一である」(同一性の重視)という意になり、反対に「不二而二」となると「本質的には同じでありながら現実的・具体的には個性的・個別的である」(個別性の重視)という意味になります。これを男女でいえば「而二不二」は「男と女は性別は異なるけれど人間という意味では同じだ」となり、「不二而二」だと「人間という点で男も女も違いがないが、性という点から見れば男女の性別がある」ということになります。それは同性であっても、何であっても同一性と個別性はあるわけですから、あらゆるレベルや範疇(はんちゅう)についていえることです。特に生物や自然(天然)のものについていえば全く同じ個体は一つとして存在しません。木でも虫でも、たとえ同じ種であってもすべて個体差があります。それが「而二」ということです。
ところが、人間は、歴史的・文化的・心理的に、例えば男はこうあるもので、女はこうあるべきだという決めつけや典型・モデルがあって、本来なら同一・平等であるべき部分までそのように考えず誤った差別をしている場合もあれば、反対に、相違に基づいて区別すべきところを同一視してしまうこともあるわけです。
ここで「ジェンダー・フリー」や「男女共同参画」に関連して、最近問題になっている卑近な例をいくつか挙げてみましょう。
①大相撲春場所(大阪場所)の優勝者に対し大阪府知事が土俵上で「知事賞」を授与してきた慣例があるが、太田知事になってから「女性である」ことが、大相撲のしきたり(神事としての伝統で、女人が土俵に入ることを禁制する)に触れるとして、土俵上での授与を相撲協会側が拒否してきたことが物議をかもしています。
特に今年(平成16年)は、3月14日の初日を控えた12日、市民グループの過去3回にわたる要請を受けた府の監査委員会が「知事が女性であることを理由に土俵上での授与を拒んでいるにも拘わらず、この賞のために公金50万円を支出するのは、男女共同参画社会のあり方としては適切でない」旨、府側に勧告したことが報道されました。
②某自治体のパンフレットのイラストで、女の人の乗っている自転車に前カゴをつけたところ、それが「買い物は“女の仕事”だと決め付けているような印象を与える」としてボツになった例もあります。
③先頃の関西テレビ『とくダネ!』では、日本人男性の約3割が、洋式トイレでの小用を座ってしているというアンケート結果が紹介されました。因みに、ほとんどの外国人男性は「立って」しており、日本の調査結果に驚いています。「立ってするとしぶきでトイレを汚すから、座って!」という妻の要請によるというのが一番の理由だそうですが、「男は立って、女は座ってするのが当然だ」と、何の疑いもなく思い込んできた筆者にはショッキングな結果でした。2人の息子にもそう教えてきたのですが、これも一種の決め付けであり、「ジェンダー・バイアス」なのでしょうか。確かに洋式トイレは、構造的には座用を主に作られているようです。しかし、これこそ性別による体の器官の相違にも関係します。できるだけ汚さぬよう注意をし、汚した場合は自分でキレイにするということで、折り合いは付けられないかと存じます。
①の神事等における「女人禁制」は、主として女人に対する不浄観等に根ざす場合が多く、これは山岳信仰や神社・仏閣・社域・寺域等における「結界」等にも関係している場合があります。ただし、大峯山などは女人禁制であるのに対し、熊野は生理中の女性でも入山できますから、いろいろです。祭りでもそうですね。古来の伝統もあり、そう簡単には参りませんが、どちらかといえば開放されていく傾向にあるかと存じます。なお、当宗には、この種の「禁制」は全くありません。
②の前カゴ付きの自転車は、そんなに神経質になる必要があるのかと存じます。自治体のパンフだから神経質になっているのでしょう。因みに筆者の自転車は、前にも後部にもカゴが付いていて、それが重宝です。ただ関西弁の「ママチャリ」[買物自転車]という呼称などは、使い方によってはやはり問題になりそうです。
○ご奉公の中での役目の分担・協力にも「男女共同参画」の観点を
ご奉公の中でまず問題になるのは言葉遣(づか)いでしょう。人前で、何の抵抗もなく自然に「妻」と言えず、ついつい「家内」などと言っている私などは既に問題ありです。でも女性も自分の夫のことを「主人」とか「檀那」とか呼んでいる方は結構多いようです。でも、それでお互いに問題がなければ、まずはよしとしていいのではないかと存じます。あまり神経質になると却(かえ)ってギクシャクしてしまいますからね。お祖師さまが「や(箭)のはしる事は弓のちから、くも(雲)のゆくことはりう(竜)のちから、をとこ(男)のしわざは女のちからなり」(富木尼御前・昭定1147頁)と仰せのように、女性としては「夫のあり方は、つまるところ妻である私次第だ」くらいに思っていたらいいのだと存じます。実際のところ多分にその通りだとも思われますから。
ただ役務やご奉公においては、今後はやはり「男女共同参画」はさらに進めるべきかと存じます。現在でもすでに組(部)長や教区長をはじめ、各種役中さんの半分前後は女性がなさっておいでです。もっともこれが事務局の幹部や責任役員等になると急に数が減少し、さらに宗門レベルになれば責任役員は男性ばかりであり、宗会議員でも女性は現在(当時)1名のみ(58名中)です。こういう点はやはり少々気になります。お教務について申せば、女性の数は極く少なく、国内の寺院で女性の住職は現在ありませんし、夫のある女性教務もありません。念のため申しておきますが、これは結果的に現状がそうなのであって、制度上は何の差別もありません。でも実際には、当宗では若い女性が剃髪得度する例はまずありません。やはり種々の困難があるのです。剃髪や結婚はもとより、教務さんの学校等の受け入れ態勢も、女性にとっては男性以上の困難が伴うようです。これも将来問題になる可能性は無きにしもあらずです。
次に各種のご奉公の現場について考えてみます。
①最初に御講席に関連した問題です。
まず自宅で御講を奉修させていただく際、席主が夫の名であれ、妻の名であれ、準備等、本来分担協力してさせていただくのが理想ですが、実際には一方に任せっ切りのこともあります。こういったところから少しずつでも協力していけたらと存じます。また参詣者の席などについても役目柄というのは別として、とにかく男性は前、女性はその後という風に決め付けるのはどうでしょう。一般世間の慣習も大きく影響していますから、急にどうこうはできにくいものでしょうが、それが当然という感覚は(特に男性の)、今後は改めていく必要があります。「女だてらに」とか「女子供が」といった感覚や言葉も要注意です。
②次に、具体的な各種のご奉公は、例えば設営や撤収などの力を要するご奉公なら、やはり男子青年会や壮年会が中心になるでしょうし、ご供養の調製なら力を要するところは男性が、細かな作業は女性が中心となるという分担・協同が大切になるでしょう。それらは自然にそうなっているはずです。男女の性別によって、肉体的な性差は当然あるのですから、それに基づく相違があるのは当然です。でも、性別とは関係のない作業については、共同参画すべきであり、双方の見方や意見が出され、それを共に考えた方がよい企画や結果が期待できることが多々あろうと存じます。
同じ人間であり、同じ佛立信者であっても、男女をはじめ種々の共通点や相違点があるのですから、要はそれをちゃんと認識しつつよりよい関係やあり方を築きあげていく努力が、私たちにも求められているのです。
「男女共同参画の社会の中での佛立宗のお役中のあり方は?」という視点も、これからのお役中には求められていると存じます。
─「ジェンダー・フリー」に寄せて─
○「男女共同参画」とは
前回は「平等と差別」という問題について仏教でいう「不二(ふに)と而二(にに)」という視点からの見方を紹介しつつ、この観点からいわゆる「ジェンダー・フリー」という概念の基本的な説明を試みました。
もっとも、前回も申したように、この問題は、私自身随分至らない点が多いわけですから、「ともに入門」ということで、一緒に勉強し、考えてまいりたいと存じます。
「不二」と「而二」についてもう一度申せば、「不二」は「同一性」であり、「而二」は「相違」「個別性」「不同性」を意味します。それが「而二不二」と熟字すれば「個性はありながらも本質的には同一である」(同一性の重視)という意になり、反対に「不二而二」となると「本質的には同じでありながら現実的・具体的には個性的・個別的である」(個別性の重視)という意味になります。これを男女でいえば「而二不二」は「男と女は性別は異なるけれど人間という意味では同じだ」となり、「不二而二」だと「人間という点で男も女も違いがないが、性という点から見れば男女の性別がある」ということになります。それは同性であっても、何であっても同一性と個別性はあるわけですから、あらゆるレベルや範疇(はんちゅう)についていえることです。特に生物や自然(天然)のものについていえば全く同じ個体は一つとして存在しません。木でも虫でも、たとえ同じ種であってもすべて個体差があります。それが「而二」ということです。
ところが、人間は、歴史的・文化的・心理的に、例えば男はこうあるもので、女はこうあるべきだという決めつけや典型・モデルがあって、本来なら同一・平等であるべき部分までそのように考えず誤った差別をしている場合もあれば、反対に、相違に基づいて区別すべきところを同一視してしまうこともあるわけです。
ここで「ジェンダー・フリー」や「男女共同参画」に関連して、最近問題になっている卑近な例をいくつか挙げてみましょう。
①大相撲春場所(大阪場所)の優勝者に対し大阪府知事が土俵上で「知事賞」を授与してきた慣例があるが、太田知事になってから「女性である」ことが、大相撲のしきたり(神事としての伝統で、女人が土俵に入ることを禁制する)に触れるとして、土俵上での授与を相撲協会側が拒否してきたことが物議をかもしています。
特に今年(平成16年)は、3月14日の初日を控えた12日、市民グループの過去3回にわたる要請を受けた府の監査委員会が「知事が女性であることを理由に土俵上での授与を拒んでいるにも拘わらず、この賞のために公金50万円を支出するのは、男女共同参画社会のあり方としては適切でない」旨、府側に勧告したことが報道されました。
②某自治体のパンフレットのイラストで、女の人の乗っている自転車に前カゴをつけたところ、それが「買い物は“女の仕事”だと決め付けているような印象を与える」としてボツになった例もあります。
③先頃の関西テレビ『とくダネ!』では、日本人男性の約3割が、洋式トイレでの小用を座ってしているというアンケート結果が紹介されました。因みに、ほとんどの外国人男性は「立って」しており、日本の調査結果に驚いています。「立ってするとしぶきでトイレを汚すから、座って!」という妻の要請によるというのが一番の理由だそうですが、「男は立って、女は座ってするのが当然だ」と、何の疑いもなく思い込んできた筆者にはショッキングな結果でした。2人の息子にもそう教えてきたのですが、これも一種の決め付けであり、「ジェンダー・バイアス」なのでしょうか。確かに洋式トイレは、構造的には座用を主に作られているようです。しかし、これこそ性別による体の器官の相違にも関係します。できるだけ汚さぬよう注意をし、汚した場合は自分でキレイにするということで、折り合いは付けられないかと存じます。
①の神事等における「女人禁制」は、主として女人に対する不浄観等に根ざす場合が多く、これは山岳信仰や神社・仏閣・社域・寺域等における「結界」等にも関係している場合があります。ただし、大峯山などは女人禁制であるのに対し、熊野は生理中の女性でも入山できますから、いろいろです。祭りでもそうですね。古来の伝統もあり、そう簡単には参りませんが、どちらかといえば開放されていく傾向にあるかと存じます。なお、当宗には、この種の「禁制」は全くありません。
②の前カゴ付きの自転車は、そんなに神経質になる必要があるのかと存じます。自治体のパンフだから神経質になっているのでしょう。因みに筆者の自転車は、前にも後部にもカゴが付いていて、それが重宝です。ただ関西弁の「ママチャリ」[買物自転車]という呼称などは、使い方によってはやはり問題になりそうです。
○ご奉公の中での役目の分担・協力にも「男女共同参画」の観点を
ご奉公の中でまず問題になるのは言葉遣(づか)いでしょう。人前で、何の抵抗もなく自然に「妻」と言えず、ついつい「家内」などと言っている私などは既に問題ありです。でも女性も自分の夫のことを「主人」とか「檀那」とか呼んでいる方は結構多いようです。でも、それでお互いに問題がなければ、まずはよしとしていいのではないかと存じます。あまり神経質になると却(かえ)ってギクシャクしてしまいますからね。お祖師さまが「や(箭)のはしる事は弓のちから、くも(雲)のゆくことはりう(竜)のちから、をとこ(男)のしわざは女のちからなり」(富木尼御前・昭定1147頁)と仰せのように、女性としては「夫のあり方は、つまるところ妻である私次第だ」くらいに思っていたらいいのだと存じます。実際のところ多分にその通りだとも思われますから。
ただ役務やご奉公においては、今後はやはり「男女共同参画」はさらに進めるべきかと存じます。現在でもすでに組(部)長や教区長をはじめ、各種役中さんの半分前後は女性がなさっておいでです。もっともこれが事務局の幹部や責任役員等になると急に数が減少し、さらに宗門レベルになれば責任役員は男性ばかりであり、宗会議員でも女性は現在(当時)1名のみ(58名中)です。こういう点はやはり少々気になります。お教務について申せば、女性の数は極く少なく、国内の寺院で女性の住職は現在ありませんし、夫のある女性教務もありません。念のため申しておきますが、これは結果的に現状がそうなのであって、制度上は何の差別もありません。でも実際には、当宗では若い女性が剃髪得度する例はまずありません。やはり種々の困難があるのです。剃髪や結婚はもとより、教務さんの学校等の受け入れ態勢も、女性にとっては男性以上の困難が伴うようです。これも将来問題になる可能性は無きにしもあらずです。
次に各種のご奉公の現場について考えてみます。
①最初に御講席に関連した問題です。
まず自宅で御講を奉修させていただく際、席主が夫の名であれ、妻の名であれ、準備等、本来分担協力してさせていただくのが理想ですが、実際には一方に任せっ切りのこともあります。こういったところから少しずつでも協力していけたらと存じます。また参詣者の席などについても役目柄というのは別として、とにかく男性は前、女性はその後という風に決め付けるのはどうでしょう。一般世間の慣習も大きく影響していますから、急にどうこうはできにくいものでしょうが、それが当然という感覚は(特に男性の)、今後は改めていく必要があります。「女だてらに」とか「女子供が」といった感覚や言葉も要注意です。
②次に、具体的な各種のご奉公は、例えば設営や撤収などの力を要するご奉公なら、やはり男子青年会や壮年会が中心になるでしょうし、ご供養の調製なら力を要するところは男性が、細かな作業は女性が中心となるという分担・協同が大切になるでしょう。それらは自然にそうなっているはずです。男女の性別によって、肉体的な性差は当然あるのですから、それに基づく相違があるのは当然です。でも、性別とは関係のない作業については、共同参画すべきであり、双方の見方や意見が出され、それを共に考えた方がよい企画や結果が期待できることが多々あろうと存じます。
同じ人間であり、同じ佛立信者であっても、男女をはじめ種々の共通点や相違点があるのですから、要はそれをちゃんと認識しつつよりよい関係やあり方を築きあげていく努力が、私たちにも求められているのです。
「男女共同参画の社会の中での佛立宗のお役中のあり方は?」という視点も、これからのお役中には求められていると存じます。
多分、寒桜の交配品種「陽光」(ようこう)だと思いますが…。鉢植えで花を付け、今日(春分の日。春のお彼岸)最初の花が開花しました。何でも、鹿児島では今日「桜の開花宣言」が出たとか…。ウチのお寺の桜(ソメイヨシノ)は、膨らんできたとはいえ、まだ蕾です。開花にはまだ数日を要しそうです。(J・M)
何年か前に頂いて地植えにしてたら、年々元気に成長して、今年は沢山の蕾を付けてます。アーモンドは、バラ科で桜や桃、杏子の仲間です。日本で「花」といえば、基本的には桜の花のことですが、中国なら、杏子や桃、さらには牡丹等の花を指す由。アーモンドは杏子に近い仲間なのかもね。実はペッタンコの桃みたいで、果肉は硬いし、薄いし、とても食べられません。やはり核果の中の仁を利用するのだと存じます。(J・M)
─「ジェンダー・フリー」に寄せて─
○「差別」と「区別」「差違」
前回は「無常」について『徒然草(つれづれぐさ)』の一節なども引用しながら、「自身も含めてすべては無常であるが、だからこそ一日一日を大切に」ということを申しあげました。ただ、前回は触れませんでしたが、「諸行無常」といえばすぐに生命の無常、生老病死の迅速(じんそく)であることに意識が向かいますが、「無常」によって感得すべきものは、決して悲観的な価値観や感懐だけではありません。「無常だからこそ今が大切」という、現在の価値を高からしめる価値転換はもちろんのこと、もう一つ「すべては遷(うつ)り変り、変化する」からこそ、例えば「現在が苦しくとも、それが善い方向に変わっていくことも可能」であるというプラス方向での受け止め方もできるのです。
つまり、「冬はいつかは春になる」という把(とら)え方もできる訳です。「すべては変化する」とはそういうことでもあります。何時かは知らないが、刻一刻臨終に近づいているのは厳然たる事実ですが、だからこそ今を大切に、というのと同時に、今と未来をよりよい方向に変えていく、それを自身の努力はもとよりのこと、妙法の経力を頂いてさせていただこうというところに、このご信心の妙味があるのだと存じます。
さて今回は「平等と差別」というテーマです。これも随分大きな問題ですから、そのほんの一部を、特に役中さんにも必要だと思う範囲で触れておきたいと存じます。
最初にちょっとお断りしておきたいのは「差別」という言葉の意味です。現代の用語で「差別(さべつ)」というと「法の下(もと)の平等」に反するような、人種、性別、家柄等による非合理的ないわれのない差別、つまり人種差別とか女性差別等の社会的、文化的、心理的な偏見に基づく蔑視や不平等なあり方を指しますが、仏教でいう「差別(しゃべち)」は、決してそういう意味ではなく、現代用語で言うなら「差違」「相違」「区別」等の意味で用いています。この点どうか誤解のないようにお願いします。私もできるだけそうした誤解を招かないよう、注意はいたしますが、どうか混同・誤解をなさいませんよう、この点よろしくご注意ください。
○「不二(ふに)」と「而二(にに)」
前回にも引用させていただいた開導聖人の御指南に「能所(のうじょ)不二(ふに)の上に而二(にに)なりの事」(扇全17巻338頁)という出典がありました。これは「道場」に関する御指南で、法華経如来神力品第二十一の中の「若於僧坊(にゃくおそうぼう) 若白衣舎(にゃくびゃくえしゃ)〈乃至〉是中皆応起塔供養(ぜちゅうかいおうきとうくよう)〈乃至〉当知是処即是道場(とうちぜしょそくぜどうじょう)」[若(もし)は僧坊においても、若は白衣の舎(しゃ)にても、〈乃至〉是中(このなか)に皆塔(みなとう)を起(た)て供養すべし。〈乃至〉当(まさ)に知(しる)べし、是処(このところ)は即(すなわち)これ道場也](『妙講一座』所収)の「即是道場」の理解の仕方についての説明でもあります。
どういうことかと申しますと、この御文は、み仏が、寺(僧坊)であろうと、在家の信者の家(白衣舎)であろうと、山や谷間や曠野(こうや)であろうと、それがどこであっても、御題目(御本尊)をおまつりして御題目をお唱えすれば、そこは皆「道場」なのだと仰せになっているという御文です。この「即是道場」とあるのを根拠に、「自宅にも御宝前があるのだから、これもお寺と同じく道場に違いがないはずだ。だから、特にお寺や御講席に参らなくても自宅でしっかりお看経(かんきん)をあげていれば十分で、何もわざわざ遠くまで参詣しなくてもいいでしょう」、というご信者の質問に対して、「いや確かに道場という意味では同じ一つのもの(不二)だけれど、同じ道場でもその中にも能所(のうじょ)という違い、区別がある(而二)のだよ」、というのが「不二而二[ふににに]」(不二にして二)ということなのです。
「能所(のうじょ)」というのは、このシリーズの通番の⑤(平成14年5月号)で少し説明したように、「能」は元来が漢文の「能(よ)く……す」という能動の意であり、「所」は「……せ所(ら)る」という受身・受動の意に基づくもので、例えば「能化(のうけ)」は化導をする側、「所化(しょけ)」は化導を受ける側であり、仏と衆生、師匠と弟子等もそれぞれ能所の関係になるわけです。前回で「本(もと)」と「末(すえ)」と記したのも、こういう意味に基づく「本末(ほんまつ)」です。念のため申しますと、み仏においても久遠の本仏は「能」、他の諸仏・迹仏(しゃくぶつ)はすべて「所」ですし、み仏に対すれば衆生は、すべて「所化」です。
末法のお互い衆生はすべて三毒強盛・定業(じょうごう)堕獄の凡夫なのですから「師弟(してい)ともに凡夫」であることは同じ(不二)ですが、その同じ凡夫であっても師弟という違い・区別はやはりある(而二)ということになります。仏教でいう差別(しゃべち)というのは原則としてこういうことです。
もっとも小乗仏教はもとより大乗仏教でも法華経以前は五逆(ごぎゃく)罪を犯した極悪人はもとより、声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)の二乗(にじょう)、女人(にょにん)等は成仏できないとされていました。これはやはり不平等で差別的な教えだといわれても致し方ないと存じます。しかし法華経はそうではありません。極悪人も、二乗も、もちろん女性も、誰であろうと妙法を信じ唱えて菩薩行に励めば、すべて成仏できるのだと申します。その意味で「平等」です。ただし、先にも記したように、末法のお互いはすべて未下種(みげしゅ)の凡夫ですから、妙法を受持信唱しない限りは定業(じょうごう)通り堕獄する、という点でも平等です。こういう基本的な平等の上での「師弟」であり、「教講」であり、「役中」と「一般信者」という能所の別・差違・区別があるわけです。さらに申せば、同じ役中や信者でも、十人十色で皆違います。これも「而二」です。
これを世間でいえば老若男女おしなべて人間であるという点においては全く同じ(不二)だけれど、その中でも老幼、男性と女性、親と子といった違いもあれば、さらに個性もあるということですね。
もっとも、この違いが「男女の性別で上下がある」という考え方になると、これはいわゆる「女性差別」に他なりません。これは誤った考え方ですが、程度の差はあっても、どこの社会にも、そうした差別が現代でも存在しています。これを正しい方向に変えていこうとするのが「女性学」であり、いわゆる「ジェンダー・フリー」という概念です。
現代のお役中はこういった問題もある程度承知しておく必要があり、それは今後ますます重要になってくると存じます。私自身、この問題に関していえば、改良すべきところが多々あるわけで、決して偉そうなことは申せません。文字通り「一緒に入門」ということで、極く基本的な理解だけでもさせていただきたいと存じます。
○「女性学」と「ジェンダー・フリー」
いわゆる「女性学」や「ジェンダー・フリー」に関する書籍は、少し大きな書店へ行けば専門のコーナーが設けられており、関係書はそれこそ山ほど刊行されています。ちなみに私が参考にさせていただいたのは『女性学教育・学習ハンドブック=ジェンダー・フリーな社会をめざして』(新版・国立女性教育会館 女性学・ジェンダー研究会編著 有斐閣[ゆうひかく] 2001年刊)です。
同書によれば、「女性学は1960年代末の第二フェミニズム運動の中から生まれたが、女性差別の撤廃(てっぱい)は、『国連女性の十年』をつうじて世界の女性たちの共通目標となり、『女性差別撤廃条約』や『北京行動綱領』へと結実していった」ものです。そして「女性学が誕生以来、ここ四半世紀の間に生み出した主要概念の一つが『ジェンダー』(社会的・文化的な性別・性差別)である」とあります。したがって「女性学」でいうジェンダー概念は「男女の上下、優劣、支配服従の関係を維持するための装置」なのです。もう少し説明すると、「ジェンダー」(Gender)とは、「一般に、オス、メスといった生物学的な性のあり方を意味するセックス(sex)に対して、文化的・社会的・心理的な性のあり方をさす用語として使われている。(中略)『男らしさ』『女らしさ』といった固定的な『らしさ』を意味する。セックスは自然が生み出したものだが、ジェンダーは、人間の社会や文化によって構成された性であり、文化や社会において、また歴史の展開に対応して変化する」とあり、さらに「このジェンダーの構図は、家庭・地域社会・学校から職場まであらゆる生活領域において構造化されることで、男性優位の支配メカニズムを支える大きな要因ともなっている」ということです。「ジェンダー・バイアス」とは「ジェンダーに基づく固定的な決めつけ・偏見」等を意味し、こうした「ジェンダーの束縛(そくばく)から自由になった、固定的な性別にとらわれない状況」が「ジェンダー・フリー」なのです。
「ジェンダー・フリー」に関する講座は、既に多くの大学や短大等に設けられており、自治体・企業・地域等でも研修会などが広範に開催されています。
どうでしょう。この問題に関するお役中の理解は、これからのご奉公の上でもとても大切になってくると思われませんか。
次回ではもう少し具体的に申しあげたいと存じます。
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