―色香美味(しっこうみみ)と五感(ごかん)の共働(きょうどう)―
○ 良医病子の(ろういびょうし)譬(たとえ)〈法華経如来寿量品第十六〉
前回では、凡夫の欲が貪欲(とんよく)に趣(おもむ)くことによって自他を共に苦しめることのないように制御・抑制する智慧としての「少欲知足(しょうよくちそく)」の教えの大切さを中心に記し、その一方で、自他の真の幸せを求める向上心(真実の大法を求め、自他の成仏を期する大乗の菩薩の心)を持たず、努力もせず、ただ小法に甘んじてそれでよしとする二乗(声聞〈しょうもん〉と縁覚〈えんがく〉)のあり方は「少欲懈怠(しょうよくけだい)」であり、それは卑屈と慢心とが同居し、その間を揺(ゆ)れ動く心として誡(いまし)めねばならないことも申しあげました。
お役中は、願わくはそのご奉公においてもこの少欲知足の教えを大切にさせていただくと同時に、少欲懈怠とならぬよう注意していただきたいと存じます。
さて今回は、法華経如来寿量品第十六に説かれる有名な譬喩(ひゆ)「良医病子(ろういびょうし)の譬(たとえ)」を紹介しつつ、中でも特に「此大良薬(しだいろうやく) 色香美味(しっこうみみ)」 皆悉具足(かいしつぐそく) 汝等可服(にょとうかぶく)」(此[こ]の大良薬は色香美味、皆悉〈みなことごと〉く具足せり。汝等服すべし)の御文の意について学ばせていただきたいと存じます。先に申しておきますと、「此大良薬」とは他でもない私どもがいただく上行所伝の御題目のことであり、「皆悉具足」とは万法具足のこと、「汝等可服」は信唱せよということなのですが、「色香美味」とあって、色も香も味わいも優れているという御文については、どのように感得させていただくべきなのか、この点について少し詳しく触れたいと存じます。
いずれにせよまず「良医病子の譬」(開結424~426頁)の概略を紹介しておきます(この譬喩は、いわゆる「法華七喩〈ほっけしちゆ〉」の一つで「良医の譬」「良医治子(じし)の譬」等とも称されます)。
ある所に最高の名医がいた。多くの子息がいたが、父の他出中に愚かにも誤って毒薬を服し、毒に中(あた)って悶(もだ)え苦しんでいる所に父が帰宅した。驚いた父は最高の処方によって毒消しの妙薬を調合し、子に与えて言った。「この大良薬は色・香・美味皆(みな)悉く具足せり。汝等服(なんだちふく)すべし。速(すみ)やかに苦悩を除(のぞ)いて復衆(またもろもろ)の患(うれえ)なけん」。
すると多くの子の中でも軽症で判断力を失っていない者(不失心者)は素直に薬を飲み、すぐに回復することができた。ところが重症(毒気深入〈どっけじんにゅう〉)で正気を失い錯乱状態になってしまっていた者(失心者)は、判断力もおかしくなっていたため(心皆顛倒〈しんかいてんどう〉)、良薬を苦(にが)いと言って服さず、更に苦悩を増す有様だった。
そこで名医は薬を飲ませるための一計(方便=巧みなてだて)を案じ、次のように言った。「私は老い衰え死も間近であるが、今からまた他国に行かねばならない。そこで是(こ)の好(よ)き良薬を今留(いまとど)めて此(ここ〉に在(お)く(是好良薬〈ぜこうろうやく〉 今留在此〈こんるざいし〉)。必ず服しなさい。きっとよくなるから」こう言い置いてから他出し、出先から使をやって「お父さんは死んだ」と伝えさせたのだ。
父の死の報に接するや、錯乱していた息子たちも流石(さすが)に驚き悲しみ、「常(つね)に悲感(ひかん)を懐(いだ)いて心遂(こころつい)に醒悟(しょうご)し」(常懐悲感〈じょうえひかん〉 心遂醒悟〈しんすいしょうご〉……深い悲しみに沈むなかでやっと目が醒〈さ〉め、素直な本来の心を取り戻す意)父の薬が大良薬であることも分かって、素直に服したところ、さしもの病悩も皆癒(い)えた。そのことを聞き確かめた名医は再び帰宅し皆に見(みま)えた。
概略以上のような譬え話ですが、この譬喩(長行〈じょうごう〉)の意を重説(じゅうせつ)する偈頌(げじゅ)が「自我得仏来(じがとくぶつらい)」から始まる「自我偈(じがげ)」です。この話の中の名医は久遠(くおん)のみ仏であり、毒を服んで苦悩する多くの子息が衆生です。中でも特に重症患者(毒気深入の失心者)が釈尊滅後末法の私共(三毒強盛〈さんどくごうじょう〉・定業堕獄〈じょうごうだごく〉・未下種〈みげしゅ〉の凡夫〈ぼんぶ〉)であり、今留在此(こんるざいし)の是好良薬(ぜこうろうやく)こそ滅後末法の衆生の為の妙法なのです。名医が方便で他国へ行き死んだと伝えるのは歴史上の釈尊(始成正覚〈しじょうしょうがく〉の仏)の入滅を意味し、実には入滅せず再び見(みま)えるのは、久遠のみ仏の寿命は実は永遠であり、従って釈尊としての入滅は方便のための涅槃[ねはん](非滅現滅〈ひめつげんめつ〉…滅に非〈あら〉ずして滅を現わす)であることを示すとされています。
「常懐悲感(じょうえひかん) 心遂醒悟(しんすいしょうご)」は、わけもなく親に逆らっていた子が、思いがけず、親の死に直面し、その悲哀の中でやっと素直な心を取り戻し、信心を起す姿を彷彿(ほうふつ)とさせるようで、そう思って拝見すると説得力があります。いつもそばにいて、疎(うと)ましくさえ感じていた相手も、もう会えないとなると急に寂しく懐(なつ)かしく思われるというのは、誰しも思い当たるところがあるのではないでしょうか。親のお葬式を通じて、意外に法燈相続やお教化ができることが多い理由の一つはここにあるとも申せます。
○ 「色香美味皆悉具足(しっこうみみかいしつぐそく)」と「五感(ごかん)の共働」
さて問題は「色香美味皆悉具足」の大良薬である御題目であるのに、私共末法の凡夫は、毒気深入[どっけじんにゅう](三毒強盛)で心が皆顛倒(てんどう)しており、正しい判断能力がなく、すべてさかさまな見方しかできなくて、苦(にが)くて臭いなどと感じ、素直に有難く服する(信じ唱える)ことが中々にできにくいということです。
この点につき開導聖人は次のように仰せです。
○ 題・妙法五字万法具足(まんぼうぐそく)
御教歌
いろもかもめに見えずしてそなはれる ことは利生に顕れにけり
(開化要談・体・扇全13巻340頁)
御教歌お書添え御指南
「御供水(おこうずい) 白き水に見えれ共(ども) 色香美味(しっこうみみ)。妙法五字 黒き文字と見え 万法具足はみえず。
何にても所願具足(しょがんぐそく)するをもて いろか顕(あらわ)るゝは事相(じそう)也」
○ 題・絶待妙(ぜったいみょう)
御教歌
世の人を救ふ御法(みのり)のはす[(はちす)]の花 これにくらぶる色も香(か)もなし
(仏法大要・上・扇全11巻43頁)
末法の衆生を救うことができる南無妙法蓮華経の御題目・妙法五字にはみ仏のすべての功徳が具(そな)わっており、色も香りもすぐれ、他に較(くら)べるべくもない最高の御法であることは、凡夫には感知し難いけれども、現証(ご利生)によってそれと腑(ふ)におちる。これを感得すべく、まず素直に妙法を受持信唱させていただくことが大切だとの意です。
御供水は、凡夫の目にはただの無色透明の水にしか見えないが、実は妙法の功徳水であり、色香美味である。御題目は黒い文字としか見えず、その五字七字の中に万法が具足していることは感見し難いが、ご利生という事実・形に対したとき、凡夫にもそれと感得できるのだと仰せです。「絶待妙(ぜったいみょう)」というのは相待妙(そうたいみょう)に対する語で、元来が絶対のもので他と比較相対できない、そういうことをもともと超越しているという意です。
ただ、それにしても、では「色香美味」等はいわば単に譬えなのか、というと決してそうではありません。実はこれは言葉を超えたものであると同時に現実にその通りに感得し得るものなのです。そのことの理解の一助となるのではないかと思う一文を紹介しておきたいと存じます。
○ 「この犬“おいちい”ネ」
これは『老いの発見3……老いの思想』(岩波書店・1987年)の中で鶴見俊輔氏が紹介している戸井田道三氏(能と伝統芸能の研究者)の、自身の「おいしい犬―幽玄(ゆうげん)」のメモに拠る文章の一節です。少々長くなりますが次の通りです(同書35頁・一部割愛)。
「昔、私の家に小さな犬を飼っていたことがある。友人が三つくらいの男の子をつれて遊びに来た。その子が小さな犬をダッコしてひどくかわいがった。『この犬おいちいネ』と彼は言った。かわいいという言葉をまだ知らなかったのかもしれない。その場の雰囲気や情況からいって『おいしい』というのはまことに適切であった。まわりにいたおとなどもは皆笑ったが、これ以上にうまい表現は不可能とさえ思えた。
笑ったのは『かわいい』というべき情緒を味覚でいった錯誤(さくご)に対してであった。しかしおとなだってつねにそのような間違ったいいかたはしている。たとえば『苦(にが)みばしったいい男』とか『少し甘い女』などいくらでもある。但しこれは常用されているあいだに味覚の応用とは認められなくなった。やはり適切な言葉として容認されたのであろう。つまり視・味・嗅・聴・触などの感覚器官とそれに対応する言葉とをつなぐ回線がまちがった方が適切だという場合もありうるわけである。それが可能なのはいわゆる五感がひとりの身体に統一されているからで、五感の各々が別に感じられると同時に、いっしょに働いているからにちがいない。(中略)『この犬おいちい』などというのは、たしかにまちがいである。しかし、まちがえることによって分類以前の混沌(こんとん)にさかのぼることにはならないであろうか。混沌をつかまえるためには言語の明晰(めいせき)以前にさかのぼる必要があり、それがあるから身体の自発性が共感覚を刺激する作用をするのではないだろうか」(戸井田道三『忘れの構造』筑摩書房・1984年)
幼児が「この犬おいちいネ」と言ったその言葉は、子犬の暖かさや匂い、柔らかな感触、たべてしまいたいような可愛さ等々、そのすべてを身(からだ)と心の全部でそのまま丸ごと受けとめ、感極まって発せられたものであり、文字通り五識六識が一体となった表現です。そういえば「痛い思い」「甘い言葉」「冷たい仕打ち」「暖かい色」などの表現は実際、無数にあり、すでに日常生活で何の違和感もなく自然に使っています。
仏教では六種の感官能力を眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(に)の六根(ろっこん)とし、これによって六識(ろくいき)が生じ、色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)の六境(ろっきょう)を認識するとされますが、さらに「六根互用(ろっこんごゆう)」といって、各根が互いに他の五根の作用・能力を具することも説かれます。例えば鼻で聞いたり、味わったりもできるわけで「聞香(もんこう)」という言葉もあります。通常の感覚器官は五根(眼・耳・鼻・舌・身)で、これが色・声・香・味・触を感じ認識・識別しているのですが、音や香りや味に色を感じることも決して不思議なことではなく、実は五感が共働し、一体となって、言葉によって分類される以前の本然(ほんねん)のものを体全体で感得することも、私たちにはできるのです。
確かに通常、御題目は眼には黒い文字にしか見えず、御供水は無色透明の水としてしか認識できませんが、ご利生をいただき、歓喜の心で唱え服(ふく)するときは、御題目は輝き、御供水は匂いたつ甘露(かんろ)だと感得させていただくこともできるのです。
「此大良薬 色香美味 皆悉具足」の御文を真の意で感得させていただくには、やはり素直な「柔和質直(にゅうわしちじき)の信心」が要(かなめ)となるのです。
例年通り、裏庭のホトトギスが咲きました。ウチのは台湾ホトトギスではないかと思ってます。台風が襲来したりしてますが、季節はちゃんと進んでいるのですね。金木犀も匂ってたし、黄色の彼岸花も終わりました。そういえば、昨夜(10月8日)は皆既月食だったですね…。(J・M)
無花果〔イチジク〕の「蓬莱柿」(ほうらいし)は、昔ながらの品種ですが、皮が剥きやすく、甘味と酸味が共に強くて、しかも種のプチプチ感がたまりません(もしかしたら最近、福岡ブランドとして売り出してる「とよみつ姫」〔皮が剥きやすく、甘味が強くて、普通は白い周りが黄色く、中の実の赤色が強く鮮やか。ケーキ屋さんでも人気〕は、蓬莱柿の改良品種かもしれません)。今年、蓬莱柿の苗木を1本入手して、鉢植えにしてたら、それでも、小さな実が成ってます。時期を見て鉢増しをします。
オリーブは、同時期に花の咲く、違う品種の木を2本は植えて受粉させないと実が成らない由だけど…昨年植えたら、今年は両方で50個ほどの実が成ってます。この実は、どうするのがいいのかな?😄💦 青い実なら塩漬けにするのかな? 黒熟した実も塩漬けかな?(J・M)
≪上の写真が無花果の「蓬莱柿」
下の写真がオリーブ≫
例年通り、フクシャが咲きました。ほったらかしだけど…。
インド辺りが原産のジンジャーの仲間らしいから、葉っぱも根っこもショウガみたいです。ゲットウ〔月桃〕とも同じ仲間みたいですね。
夕方には芳香が強くなります。
九州も天気が不安定で雨が多いけど…やはりちゃんと開花して…。健気です。(J・M)
―自他の幸せと共存・欲の制御の智慧―
○「求不得苦(ぐふとっく)」と「少欲知足(しょうよくちそく)」
前回では「笑顔と喜びを大切に」というテーマで「無財の七施(むざいのしちせ)」の中の「和顔施(わげんせ)」(和顔悦色施[わげんえつじきせ])の教えに基づきつつ「笑顔の効用」とその活用法について記しました。その際、「無財の七施」を「いずれも金銭や財物を与えなくてもさせていただける布施」と記しましたが、出典である「雑宝蔵経」(第六・七種施因縁)の原文には「仏説に七種施有り。財物を損(そこな)なわずして大果報を獲(う)。一に眼(げん)施と名づく(乃至)。二に和顔悦色施(乃至)云々」(大正蔵第4巻479頁上。訓(よ)み下しは筆者)とありますから、より精確(せいかく)には「自己の財物を何も減損することなく大果報を獲得できる七種の布施」というべきかと存じます。
いずれにせよ「笑顔」は、財物は全く与えず、自分の物は何も減らしはしないのに、しかも周囲に対する大きな布施となり、同時に自身にも大きな果報がいただけるものなのです。この「笑顔」が自他に及ぼす優れた効果について、現代的な新しい観点の一つとして「表情分析学」でいう「笑顔の四つの効用」も紹介させていただいたわけです。
前回記したごとく、組なら組長さんの「笑顔」が次第に周囲を染め、引きつけて、組全体が明るく前向きに歩んでいく原動力ともなっていただければと願っています。そういう意味で「笑顔」は、結縁、育成、法燈相続はもとより、組内、家庭内、社内等あらゆる組織の活力や円満、そして自他の若返りに大きな効果を発揮するに違いないと存じます。
さて今回は「欲」をいかに制御すべきか、み仏はそれをどのように教えておられるか、というテーマです。
仏教では人間の根源的な欲を「五欲(ごよく)」とします。
①財欲[ざいよく](財物・金銭の獲得欲)
②色欲[しきよく](性欲・性殖欲)
③飲食欲[おんじきよく](食欲)
④名聞欲[みょうもんよく](見栄・体裁・名誉欲)
⑤睡眠欲[ずいめんよく](睡眠・横になって休みたい欲・嗜臥[しが])
この五つの欲はいずれも人間の生存に直接必要な、生命の維持と種の存読に不可欠な欲望だとも申せます。色欲、飲食欲、睡眠欲はもとより、財欲や名聞欲も他の欲を満たし、それらを有利に獲得するためのものと申せます。
この五欲について小乗仏教では概して極力制限し、できれば無くしてしまうことを理想としました。でもこれを徹底すると生物としての人間は死んでしまう他ありません。つきつめれば生存そのものの否定(これを灰身滅智[けしんめっち]と申します)にさえつながるわけですから、これは極端というものですし、人びとにそれを求めることは無理というものです。
大乗仏教、特に法華経の教えはそうではありません。「欲を抑え、本当に必要な程度で満足せよ。それが自他の幸福の根本だ」と教えました。それが「少欲知足」の教えです。
考えてみれば「欲」のすべてが悪いわけではありません。財物も正しい方法で必要なだけ得、それを正しく活用することは決して悪ではありませんし、性欲も正しく用いられることは種の存続のためにも必要であり自然です。総じて欲は善用されれば、自他を生かし、向上させる大切なものなのです。それはあたかも川の水の流れにも譬えられます。適量の水が、川筋にそって然るべく流れていれば、この水はあらゆるものを生かし、活用される有益なものです。ところが、これが枯渇(こかつ)したり堤(つつみ)を破って決壊(けっかい)・氾濫(はんらん)したりすると一転して大変な災厄(さいやく)をもたらすわけです。財欲、性欲、食欲、名誉欲はもとよりですが、睡眠も、これが高じていつもダラダラ横になって、ものぐさ、懈怠となれば、自他の難儀を招きます。要は何事においても両極端でなく丁度いい、適正・適度であることが大切で、これを「中道(ちゅうどう)」と申します。この適度さを超えてあるが上にもさらに得ようと求める貪(むさぼ)りの欲が「貪欲(とんよく)」です。生(しょう)・老(ろう)・病・死の四苦に「求不得苦(ぐふとっく)」「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「五陰盛苦(ごおんじょうく)」を加えて八苦と申しますが、何にせよ「求めて得られない」、総じて「自分の思い通りにならない」というのがあらゆる苦しみの根本です。これは四苦八苦のすべてに通底しています。だからこそみ仏は法華経で次の如く諭されるのです。
○「諸苦所因貪欲為本(しょくしょいんとんよくいほん)」(諸苦の所因[しょいん]は貪欲これ本[もと]なり)
(譬喩品[ひゆほん]第三・開結156頁)
○「少欲知足(しょうよくちそく)」(欲少くして足ることを知る)
(普賢菩薩勧発品[ふげんぼさつかんぼっぽん]第二十八・同596頁)
文字通り「諸(もろもろ)の苦の原因は貪欲こそが本(もと)である」「欲を少くして少ししか得られなくてもそれで満足することが大切」だとの意です。
因みに仏法の根本理である「四諦(したい)」(苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)[いわゆる八正道]=苦集滅道[くじゅうめつどう])や「十二因縁[十二縁起]」(無明[むみょう]・行[ぎょう]・識[しき]・名色[みょうじき]・六入[ろくにゅう]・触[しょく]・受[じゅ]・愛[あい]・取[しゅ]・有[う]・生[しょう]・老死[ろうし])においても「苦」をいかに制し、離れるかが基本命題です。例えば「十二因縁」の「愛(あい)」は「苦を避け楽を求める根本的な欲求」であり、「取(しゅ)」は「自己の欲求するものへの執着」を意味します。そしてその上に「有」(生存)があり「生」と「老死」がある、とするのです。けれども「苦を避け楽を求め、欲するものに執着する」のは人間の生存の根本ですから、その理由がわかったからといって、それを完全に制することなどほとんど不可能なことです。それは先に申した通りです。やはりここは「少欲知足」の他はないでしょう。でも、この「少欲知足」さえ、凡夫には実際困難なことです。
○欲には際限がない―便利・快適・体裁―
際限のない欲に流され、あくせくと生きる戦後から今日までの日本人の姿を堺屋太一氏はその著『風と炎と』(産経新聞社刊・第2部24頁以下)の「便利・快適・体裁」という章で、ほぼ次のように指摘しています。
・人間が財物やサービスを求め、消費する目的
①「生存と繁殖」…戦中戦後の食糧難期
②「便利さ」…1950年以降「三種の神器(じんぎ)」(洗濯機・テレビ・冷蔵庫)を求め、インスタント食品が脚光(きゃっこう)を浴びた。
③「快適さ」…60年代から。「3C」(カラーテレビ・自動車[カー]・クーラー)が人気を博し、 “使い捨ては美徳”に。
④「見栄(みえ)と体裁(ていさい)」…特に80年代以降。ブランド商品・高級車・高級マンション・海外旅行などがもてはやされた。
その後のいわゆる「バブルの崩壊」で少しはその勢いにかげりが出たとはいえ、①~④へとそれこそ際限なく追い求めてきた日本人の姿は、まさしく「生涯衣食(えじき)の獄(ごく)につながれ名利(みょうり)の網(あみ)にかゝりて……」(妙講一座)の御文の通りです。
開導聖人は御教歌に仰せです。
①何ごとも気に入らぬこと(が)おほし これがうきよと観念をせよ
[十巻抄(四)・四五抄拝見(完)・扇全14巻450頁]
②何よりも達者(たっしゃ)でくらす御利益を こんなもうけはなしとよろこべ
[鄙振[ひなぶり]一席談・扇全9巻154頁]
③とるならば貪(とん)をはなちて信をとれ 信をはなちて貪をとるなよ
[開化要談(宗)・扇全13巻383頁]
②の御教歌の御題等
御題・経云、諸苦所因貪欲為本文
○貪欲は我身(わがみ)を破る斧(おの)也。
御書添え
○少欲知足
「悦ぶべきは人身(にんしん)を得、時機相応の大法にあふ事也」
③の御教歌の御題等
御題・貪欲苦因。諸苦所因貪欲為本文
御書添え「信をとらば諸苦一時に破る」
開導日扇聖人御指南
「迷ひの人の上のつたなさ愚かさは、唯(ただ)衣食住の三つ、名聞利養(みょうもんりよう)のためのみに一生を送りて、朝夕(ちょうせき)に営む所(ところ)多くは皆(みな)貪利(とんり)の為のみ。我等の上から之(これ)をみれば不便(ふびん)也。折伏せずしてあられんやは」[扇全13巻147頁]
「末代(まつだい)の愚人(ぐにん)は少欲知足を信唱にかふれば所願具足(しょがんぐそく)也」 [此三冊(上)・扇全11巻 298頁]
門祖日隆聖人御聖教
「欲には斉限(際限・さいげん)なし云云。されば貪欲をば水に譬(たと)ふるなり。何(いず)れも流行(るぎょう)を能(のう)として更に留(とどま)る処を知らざるなり」
[名目見聞抄第十二・刊527頁]
〈欲を追い求めても満たされることはなく、そのために苦しみを増すばかりである。際限のない欲に振り回されぬように心せよ。何といっても人間に生を受け、しかもこの真実の大法にお出値(であ)いして、堕獄の定業(じょうごう)を転じ、現当二世の大願を成就させていただける大果報をいただいた佛立信者となったのである。これほどの喜びはないと知らねばならない。「少欲知足」ということは難しいが、そこを御題目の受持信唱によって自然(じねん)に感得させていただくことが大切なのだ〉とのお意(こころ)です。
○思い通りにならなくても腹を立てない
お役中のご奉公についていうなら、自分自身のことはもとよりですが、例えば、受持(うけもち)の組内のご信者が、中々思い通りにならない、折角の心が通じない、といったことがあったとしても、それで腹を立てて投げ出したり、叱り散らしたりしても、それではどうにもならず、却って事態が悪化してしまうことにもなりかねません。思い通りにならなくても、たとえほんのわずかでも得るところがあれば、まずそれを喜ぶ心を大切にする、そういうあり方も「少欲知足」のあり方の一つではないかと存じます。焦っても仕方がないのですから。そういう時こそ、落ち着いて、じっくり対処し、一歩一歩進んでゆくことも大切なのです。
○「少欲知足」の智慧こそ21世紀の人類共存の規範
バングラデシュの貧(まず)しい村の出身で、自身も飢餓(きが)を経験し、後に世界の飢饉(ききん)に関する研究でノーベル経済学賞(1998年)を受賞したアマーティア・セン氏は、次のように指摘しています。
〈近年は、ほんとうの食糧不足が原因で飢饉が起こったことはなく、別の地域では余っている食糧が、それを必要とする人たちのところへうまく届かないせいで餓死者が出ているのだ〉
これは戦争や紛争はもとより、大国や先進国のぜいたくやエゴのため、分け合えるものも分けない独占が起こり、そのために貧しい国や途上国の人びとが苦しんでいるという現実の矛盾を指摘したものです。ある試算によると、日本人は平均して最も貧しい国の人の約30倍ものエネルギーを消費して生活しているともいわれます。しかもそれでも満足せず、不満を持っているのですから、このままでは文字通り罰が当たっても当然かもしれません。何億人もの人が一日1ドル以下の総生活費で生きているというのに、同じその世界でありながら、一方ではペットまでが肥満で苦しむ、それが今日のこの世界なのです。
宮崎駿(はやお)氏の作品『千(せん)と千尋(ちひろ)の神隠(かみかく)し』などが一貫して訴えているのも、実はこの「少欲知足」ではないかと存じます。氏は言います。「お互いに気を配れば、少しずつでも変わるんですね。(中略)誰かのせいにする方便はありますが、この社会っていうのはみんなの欲の集まりで出来上がっているんです。その欲をちょっとずつ抑えたら、ずっと改善されるのに」(毎日新聞 平成13年8月7日朝刊・「21世紀のレオナルド・ダ・ビンチ~地球を守る次世代へのメッセージ~第3回」より)
そういえばあのアニメでは、ご馳走を貪(むさぼ)り食べた両親は豚になってしまい、それを救う千尋は、幼いながらも風呂掃除などをいとわない心や、財物にとらわれない心を身につけていく、そんなありようが基調にありました。
「中外(ちゅうがい)日報」の社説(平成13年7月28日)にも、「新たな人類の指針として、東洋の思想、とくに仏教の『少欲知足』の智慧が注目されている」として、足利工大教授・安原和雄氏の「少欲知足の智慧をどう実践するかが21世紀の日本の行く末を決める重要なポイント」だとの提言(『仏教経済研究』第29号所掲)が紹介されています。
「少欲知足」の教えは、佛立信心の身近な教え、規範としてはもとより、この世界の未来をも左右する大きな力・影響力を持っているのです。
○「小欲懈怠(しょうよくけだい)」はいけない
「少欲知足」の教えの大切さはこれまで記した通りですが、だからといって「小欲懈怠」はいけません。
この「小欲懈怠」というのは同じく法華経の御文で「小欲懈怠なりと雖(いえど)も、漸(ようや)く当(まさ)に作仏(さぶつ)せしむべし」(五百弟子授記品第八・開結283頁)とあるのがそれです。
欲を出すなといっても、それは求める対象によるわけで、二乗の如く、自分は小乗の教えで十分であり、それでも立派なものだと満足し慢心する一方で、「自分はどうせそんなものだ」と卑下し、「大乗の教えで自他の成仏を」という望みを持たず、小法に甘んじてそれでよしとしているのは、慢心と卑屈とが同居している心であって、それではいけない、それはやはり懈怠なのだと戒められる御文です。
欲が貪欲となっては害であり(貪欲[とんよく]・瞋恚[しんい]・愚痴[ぐち]が人を害する三毒とされるのはこの意)これは抑制しなくてはいけないけれど、一方欲そのものは生存と向上の基礎、原動力でもあり、特に自他の救済・成仏を求める菩薩の願いは、それがいかに大願であろうとそれは自他を真に利するものですから、これを抑制する必要はないわけです。そこを誤解・混同してはいけないということです。
なお「少欲知足」について付言すれば、
「未得(みとく)の事法(じほう)に於て多く求めず貪(とん)せざるを少欲といい、已得(いとく)の事法に於て少しく得るも満足するを知足という」(長阿含第十二)とある他、少欲知足の語は法華経以外にも大般涅槃経その他多くの経論に見られます。
またさらに申せば、法華経が漢訳される以前の中国の老子(紀元前6世紀頃の人)の『老子道徳経』(現在最古のものは前3世紀頃までの成立)にも次の如くあります。
「甚だ愛(あい)すれば必ず大いに費(つい)え、多く蔵(ぞう)すれば必ず厚く亡(うしな)う。足るを知れば辱(はずか)しめられず云々」(講談社学術文庫『老子』145頁)
「足るを知る者は富む」(同書113頁)
こうした「知足」の教え自体は東洋の智慧の底流として古くから存在したのです。
雨が続いたせいか、かなり大きいサイズです。種類も名前も不明ですから、食べません。
ところで、今日は、69年目の広島平和祈念式典の日ですね。長崎の原爆忌は8月9日だったかと。どちらも、経験を伝える「かたりべ」の養成が大切だって。概して戦争の悲惨さの経験者がだんだん亡くなって、戦争経験が風化仕掛かっているのが問題なのですね。「ひめゆり部隊」も…。現在の政府や内閣の要人も、多分、戦争の経験者ではなくなっているかと存じます。由々しいことですね。
もしかしたら、信心の相続や後継者の育成も…。(J・M)
裏庭の柿の木に着床している風蘭で、数年前に次男が巻き付けていったのが増殖し、毎年花を付けます。
いつも、開導日扇聖人の「枯〔かれ〕るなら枯よと思ひ捨〔すて〕たりし 庭の風蘭花さきにけり」の御歌を思い出します。因みに、向かって左側の背後の大きな葉はフクシャ〔ショウガの仲間。白くて芳香のある花を咲かせます〕の葉です。(J・M)
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