㉑笑顔と喜びを大切に
2014年7月22日(火)
 

―お役中は周囲の太陽たれ―


○「和顔施(わげんせ)」と「笑顔の効用」

 前回まで三回にわたって「法燈相続の大事」(―「あとつぎづくり」と「信教の自由」―)のテーマで記しました。特に前回は少々固い内容でしたから、興味を持っていただきにくかったかもしれません。でも「信教の自由」の内容やその限界については、お役中ともなれば一通りの基本だけは理解しておく必要もあろうかと存じます。知っておけば、自信をもって対応できることにもなるからです。

 

 さて今回は少し柔らかく「笑顔の大切さとその効用」について記したいと存じます。

 仏教に「無財(むざい)の七施(しちせ)」という教えがあるのをご存知の方は多いと存じます。

①眼施〈げんせ〉(まなざし)

②和顔施〈わげんせ〉[和顔悦色施〈わげんえつじきせ〉](表情)

③言辞施〈ごんじせ〉(言葉)

④身施〈しんせ〉(体の奉仕)

⑤心施〈しんせ〉(慈悲の心)

⑥床座施〈しょうざせ〉(席を譲る)

⑦房舎施〈ぼうしゃせ〉(部屋や家の使用のための提供)

(雑宝蔵経第六「七種施因縁」大正蔵第4巻479頁)

 以上の七つで、いずれも金銭や財物を与えなくてもさせていただける布施ですね。

「和顔施」はその二番目ですが、端的にいえば周囲に対し笑顔や慈悲の表れたよい表情で接することですから、当然ながら①の「眼施」(まなざし)も関係しますし、そのもととなる「心」のありようも深く影響します。

 

 この「笑顔」は、実はお役中にとっては殊(こと)に大切なものだと思うのです。それは周囲のご信者の教導はもとより、結縁、育成、法燈相続をはじめ、家庭内の円満の秘訣(ひけつ)の一つだとも申せます。では笑顔にはどんな効用があるのでしょう。

 

○「笑顔の効用」を生かす

 

 以前NHKテレビで『オモシロ学問人生』というシリーズ番組がありました。毎回ちょっと変わった研究をしている学者さんとその研究内容が紹介されるのですが、その中の一つで、「表情分析学」という聞き慣れない学問を研究している工藤 力(つとむ)教授が紹介された(1999年3月2日・NHK総合)のです。タイトルが「顔は口ほどのものをいう」でした。この工藤先生、最初は別の研究をしていたのですが、当時ある女性を好きになり、やっと初デートにこぎつけることができて、一日のデートをしたのです。ところが、それまでそうした経験が全くなかったところへもってきて根が真面目でカタブツだった先生は、カチカチになってしまい、少しは言葉を交(か)わしたものの一日中固く強(こわ)ばった表情のまま過ごしてしまいました。そのまま別れ際になったとき相手の女性は「あなたは私と一緒に居ても少しも楽しくないのですね。もうお会いしない方がいいと思います」と言った由で、彼女とはそれっきりになってしまいました。この失恋にショックを受けた先生は、改めて表情の大切さに気がついたのです。いくら心の中で相手を好ましく思い、一緒に過ごせることをうれしく思っていても、表情にそれが出ていないと、決して伝わらず、誤解さえされてしまうことを思い知らされたわけです。それで先生は発奮して、当時研究が進んでいた米国の大学へ渡り、表情分析学を修めました。その成果もあってか、帰国してからの恋愛には成功して、今の奥さんと結婚することができたのだそうです。

 

 さてこの工藤教授の研究によれば、人と人がコミュニケーションをする際、特に面と向かって会う場合、客観的な「言葉そのもの」の伝達力は意外にも全体のほんの数パーセントの効果しかないのです。それが「活字」と全く違うところだというのです。むしろ、声音(こわね)とか、身体全体の雰囲気とか、特に顔の表情、目、顔色などのほうがずっと大きな伝達力を持っているのです。そういえば「どうぞごゆっくり」と言いながら人を追い出すこともできますね。そして表情の中でも最も影響力があるのが「笑顔」なのだそうです。先生は「笑顔の効用」として次の4つを挙げます。

①笑顔は伝染する。

②笑顔は引きつける。

③笑顔は明るい話題になる。

④笑顔は7~8歳若く見える。

 

 ①の「笑顔は伝染する」というのは、例えば電車の中などで向かい側の席に赤ちゃんがいてニコニコ笑っていると、大概の人はつられてほほがほころびますね。「貰い泣き」というのはつられて泣くことですが、笑顔の方が伝染力は強いのです。いい笑顔は周囲を笑顔に染めていく強い力を持っているのです。

 

 ②の「笑顔は引きつける」とは、笑顔のある所や人の周囲には他の人が引き寄せられ、集まってくるということです。怒った顔や気難しそうな顔、悲しく暗い表情を好きな人はありませんから、必要のない限りそんな所には近寄らないように、自然になっていくのが普通です。

 

 ③の「笑顔は明るい話題になる」とは、暗く陰気な表情や、怒ったような顔で会話や話し合い、会議などをしていると、どうしても話の傾向やその場の雰囲気が消極的で非生産的な方向に趣(おもむ)いてしまい、大概はロクでもない結果にしかならないのに対して、笑顔を大切にして会話や会議を進めていくと、不思議に明るい方向、積極的で生産的な方向に話題が向かい、善い結果を得られることも多いという意味です。

 

 最後に④の「笑顔は7~8歳若く見える」とは、人は地球の重力を受けて生活しているため、生まれて以来加齢とともに筋肉も皮膚も下に向かって垂れ下がってゆくのですが、にっこり笑うとアゴの筋肉やほほ全体が上に引き戻されるので、その分必ず表情は数歳から7~8歳は若返る道理だということです。実際同じ人の写真でも笑顔の方が感じもよく、若々しく、イキイキとして見えますね。

 

 開導日扇聖人は御教歌に仰せです。

  いか計(ばかり)うれしき事のあるやらむ

    みるにゑまるゝみるにゑまるゝ

「あの人はあんなにうれしそうにニコニコしているが、一体どれほどのいいことがあったのだろう。それにしても見ている私までもがつられて自然にほほえんでしまう。いやほんとうに結構だなあ」というほどの意でしょうか。「こちらまでうれしくなってついつい目が離せない」という雰囲気ですね。見ているこちらに文字通り「笑顔が伝染」し、「笑顔に引きつけられ」ており、「なぜだろう」と興味・関心を喚(よ)び起こされてしまっているわけです。

 

 笑顔の大切さは、女子マラソンの高橋選手に対する小出義雄監督の言葉にもあります。〈小出監督はいつも言っていた。「嫌(いや)な顔をしてやっちゃいかん。楽しんでやれ。ニコニコしている顔に出会うと、こっちまでうれしくなる」高橋選手がけがをしたり、風邪(かぜ)をひいて焦(あせ)っていると、「せっかく風邪をひかせてくれた。せっかくお腹(なか)が痛(いた)くなったのだ。ありがたい。そう思う心が大切なのだ」と小出監督は書いている。(『君ならできる』幻冬舎)〉[毎日新聞・2〇〇〇年9月26日『余録』]

 

 笑顔の効用の素晴らしさは以上の通りですから、まずは形から、事相(じそう)・外見からなりとも笑顔の稽古をすべきですが、もちろん本物で自然な笑顔には、そのもととなる心のありようがやはり大切だというのは当然です。深い喜びや感謝の心があれば、自然にそれが目に、表情に、雰囲気に表れてくるでしょうから。ただそれでも工藤教授の失敗のような例も一方ではあるのですから、やはり努力や工夫も大切なのでしょうね。稽古や喜びと感謝の心の大切さについては、これまでに記した「稽古の大切さ」(新役中入門⑯⑰)や「懺悔の大事」(同⑬)の中の「随喜段」の説明等で既に触れておりますから、参照してください。

「まれな人間に生まれ、その上真実の大法にお出会いできた。そのおかげで堕獄の定業(じょうごう)を能転(のうてん・よく転じ)して現当二世の大願を成就させていただける。これほどの喜び、うれしさがあろうか」という最も根源的な深い喜びを感得させていただけるのが佛立信者なのです。これさえ忘れなければ、きっと大丈夫だと存じます。

 

○お役中は周囲の太陽たれ

『妙講一座』の「日月の御文」やイソップの「北風と太陽」の寓話(ぐうわ)ではありませんが、お役中はやはり周囲のご信者にとって太陽のように明るく暖かい存在であってほしいと存じます。そのためにもまず笑顔を大切にしてほしいのです。

 先の工藤教授の4つの「笑顔の効用」にあるように、組なら組長さんの笑顔が次第に周囲を染め、引きつけて、その組全体が明るく前向きに歩んでいく原動力ともなっていくのだと思うのです。

 

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 ツマグロヒョウモン〔タテハ科だっけ?〕は、スミレの仲間が食草で、三色スミレやビオラと共に増殖しているように見えます。
  ウチのお寺の三色スミレのプランターにも、毎年この時期になるといつの間にか産卵されて幼虫が出てきます。4回くらい脱皮してからサナギになりますがこんな怖い感じの幼虫が、綺麗な蝶々になるなんて不思議です。幼虫からサナギになるのが変身なら、サナギから成虫の蝶になるのは大変身かな?(J・M)

 

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 先ごろ、ご信者さんから頂いた布袋葵に花が咲いているのに、今朝気が付きました。 ホテイアオイにも大小の種類があるようで、普通、金魚屋等で売ってるのは小さい種類だけどウチのは大きいサイズの方みたいです。もっとも、これが用水路や溜め池の水面を覆って一斉に咲くと、一面が青くなって、それはそれで壮観ですが。ウチのは、小さなビオトープに入れて、メダカを入れ、後はほったらかしですから、何か可哀想です。(J・M) 

 

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  やっと咲きました。昨年に続き、2年連続の開花です。小さなビオトープで頑張ってます。但し、2輪がほぼ同時の開花になったから、多分、7月9日には散ります。ハスは基本的に4日間しか咲かないから。因みに、皇居蓮は、中型で紅色の花を付ける古代バス系のハスです。(J・M)
[上の写真は7月6日撮影・下の写真は7月7日撮影]

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白蓮が咲きました。
2014年6月22日(日)
 

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  福岡・本法寺の玄関脇のビオトープで、昨年から栽培してきた輪王蓮〔リンノウレン。小型の白蓮〕が、今年、やっと咲きました。  やっぱり綺麗です。  白蓮がサッダルマ・プンダリーカ・スートラ〔法華経〕の「プンダリーカ〔白蓮華〕」ですね。なお、ビオトープにはボーフラ対策に黒メダカを入れています。(J・M)
  下の写真はビオトープの全景です。鉢は径45センチ、蓮の高さは180センチくらいかな?〕

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 アオイ科タチアオイ属のタチアオイが咲きました。ウチのは白色系で、昨年小さな苗を植え付けて今年やっと咲きました。花の色には白や赤等があります。ラテン語の学名は治療等に由来する由で、最初、アオイは薬草として栽培されたとか。そういえば、確か、ハーブの仲間にもマロウ〔ウスベニアオイ〕などがありますね。アオイ科には、芙蓉やムクゲ、ハイビスカス、ワタ、ケナフ、オクラなども含まれています。結構有用な植物かな?(J・M)

 

 

 ―「あとつぎづくり」と「信教の自由」―

 

○「信教の自由」の具体的理解を

 

 前々回は「法燈相続の基本的な意味」を中心にお話ししつつ、「信教の自由」を代表とする自由権は、それが「個人の自由な意思決定と活動とを保障する人権」というだけではなく、その前に「国家が個人の領域に対して権力的に介入することを排除する」という意味で「国家からの自由」だということをしっかり理解しておいていただきたい旨、申しあげました。


 これは実はとても大切なことで、この「国家からの自由」ということをよく知らなかったり、思い違いをしているために、お教化や法燈相続をすすめようとする現実の具体的な場面で双方に様々な誤解を生じることとなり、それがひいては教化や法燈相続における相当な障害(意識的・無意識的な)となっている可能性もあるのです。


 ですから、わが子を含む他の人に御題目をすすめることは、決して「信教の自由」に反することではなく、むしろそれこそが憲法の保障する「信教の自由」の内容の重要な部分であり、そうした国民の宗教活動に対して国やその機関が権力的に介入してくるようなことこそが、直接「信教の自由」に反する違憲行為となるわけです。


 また先月は、このことと関連して義務教育を中心とする公教育の課程に「宗教教育」を導入することは、それが公立の小・中・高校等である場合には直接憲法違反となるものであり、いくら情操教育や道徳教育のためといえども許されないことなのだ、とも記しました。


 私立の学校ならともかく、公立では認められることではないのです。あらゆる宗教・宗派に関する全く客観的・中立的な宗教教育など考えられませんし、仮にそんな宗教教育が可能だとしても、そんな宗教教育は本来の宗教教育とは言えないものだと存じます。宗教は元来がただ教義的な面だけではなく(それだけでも教えるのは困難ですが)、むしろ修行とか信仰的な情熱や信念・確信といったところに本質的なものがあります。ですから、本当の宗教教育であれば、こうした本質的な部分に触れずにはいられないはずです。でも、それらの全てを客観的・中立的に教えることができるはずはありません。


 また、キリスト教も、仏教も、イスラム教も、ヒンドゥー教も宗教として教え、さらに佛立宗のことも教える、そんなことはなおのこと不可能です。国にそんなことを要求できるのなら、他宗も同じように「自宗の教義・信仰を学校で教えてくれ」と要求しますね。「国が権力的に介入することを排除する」ということの延長線上にはこうした問題も含まれているのです。

「情操・徳育の基礎として公教育でも宗教教育を」という意見は、一見一理あるように見えますが、現実の具体的な場面を少しでも想定してみれば、これは随分困ったことになるということはすぐわかります。だからこそ宗教教育は国民一人ひとりの信仰や努力に、また宗門の努力に、その基本と中心を置くほかはないのです。法燈相続も、こうした観点から改めて見つめ直し、教務はもとより親や周囲のご信者、お役中等の、そのための努力の大切さを再認識すべきだと存じます。

 

○「人権の私人間効力(しじんかんこうりょく)」と「信教の自由」


 さて今回は日本国憲法の「信教の自由」について、もう少し具体的に説明しておきたいと存じますが、その前に前回予告させていただいたいわゆる「人権の私人間効力(しじんかんこうりょく)」ということについて少し触れておきたいと存じます。


 実はこの問題は、前回記した「憲法で信教の自由が保障されているのだから、ご信心のことは親でも子に対して強くは言えない」と思う誤解の背景ともなっています。もっともこの誤解の大方は、前回記した説明で解いていただけたかと存じます。

 

 念のため重ねていえば「憲法の基本的人権の規定は、公権力との関係で国民の権利・自由を保護するもの」であり、特に自由権(その代表は思想の自由や信教の自由)は、いわば「国家からの自由」なのであって、「国民相互間(私人間[しじんかん])には直接適用されるものではない」ということです。この原則は基本的にこの通りで、まずそのように理解しておくことが大切なのですが、実はもう一つ同時に理解しておく必要のあることがあるのです。


 これは「じゃあ、いくら憲法に規定があっても、私人間には全く関係ないということか。それは何か変じゃないか」という疑問に対する回答ともなるものです。これをもう少し正確な表現でいえば次のようになります。


「日本国憲法で保障されている基本的人権の価値は、実定法秩序の最高の価値であり、あらゆる法の最高の法(最高法規)である憲法に定められているということは、公法・私法のすべてを包括した全法秩序の基本原則であって、すべての法領域に妥当すべきものであるはずだから、憲法の人権規定は、私人による人権侵害に対しても何らかの形で適用されねばならないのではないか」ということです。


 実はこれが「人権規定は私人間にどのように適用されるか」(人権の私人間効力)という問題なのです。これに「間接適用」(間接効力)と「直接適用」(直接効力)の二つの考え方があるのです。


 この二つの説のうち、日本の通説・判例は基本的に「間接適用」(間接効力)説です。これは「規定の趣旨・目的ないし法文から直接的な私法的効力をもつ人権規定を除き、その他の人権(自由権ないし平等権)については、法律の概括的条項、とくに、公序良俗に反する法律行為は無効であると定める民法90条のような私法の一般条項を憲法の趣旨をとり込んで解釈・適用することによって間接的に私人間の行為を規律しようとする見解」(「憲法」第三版・岩波・芦部信喜著、高橋和之補訂・107頁)です。


 要は、「信教の自由の規定は、直接私人間に適用はされないが、例えば民法の条文等を通して間接的に適用され、活かされるのだ」ということです。

 宗教団体が公序良俗や社会通念等に反する行為を行って様々な問題を起こした際、直接憲法云々ではなく、まず民法、そして刑法や宗教法人法、さらには道路交通法や条例等によって規制しようとするのも、場合によっては、こうした間接的な適用が配慮されていることがあるわけです。

 

○信教の自由の内容と限界

 

(一)信教の自由の内容

 憲法第20条第1項前段は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と定めています。この「信教の自由」には(1)「信仰の自由」(2)「宗教的行為の自由」(3)「宗教的結社の自由」が含まれています。


(1)「信仰の自由」とは、宗教を信仰し、または信仰しないこと、信仰する宗教を選択し、または変更することについて、個人が任意に決定する自由です。これは、個人の内心における自由ですから、絶対に公権力等が侵害することは許されません。その結果、①内面的な信仰の外部への表現である「信仰告白の自由」が当然に認められます。ですから、国は、個人に対して信仰の告白を強制したり(いわゆる宗門改め)、信仰に反する行為を強制したりすること(踏絵や信じていない神社への礼拝の強制など)は許されませんし、宗教と無関係な行政上・司法上の要請によっても所属の宗教団体名など、個人に信仰の証明を求めることはできません。②信仰または不信仰のいかんによって特別の利益または不利益を受けない自由。③両親が子どもに自己の好む宗教を教育し、自己の好む宗教学校に進学させる自由、および宗教的教育を受けまたは受けない自由等が派生します。


(2)「宗教的行為の自由」とは、信仰に関して、個人が単独で、または他の者と共同して、祭壇を設け、礼拝や祈祷を行うなど、宗教上の祝典、儀式、行事その他布教等を任意に行う自由です。宗教的行為をしない自由、宗教的行為への参加を強制されない自由を含みます。このうち「布教の自由」は、直接的には「表現の自由」の問題ともなります。


(3)「宗教的結社の自由」とは、特定の宗教を宣伝し、または共同で宗教的行為を行うことを目的とする団体を結成する自由です。この自由は(2)の「宗教的行為の自由」に含まれるとも申せます。


 ただ、くどいようですが、重ねて申しあげておきたいのは(1)(2)(3)の自由はいずれも「国からの自由」であり、「国の権力的な介入を排除する」ものだということです。


(二)信教の自由の限界


 信教の自由の内容は概略以上のようなものですが、宗教上の行為の自由は、信仰の自由は別として、国際人権規約(自由権規約)第18条の定めるように、「公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要な」制約に服します。何をしてもいいわけでは決してありません。ただ、その制約は、必要不可欠な目的を達するための最小限度の手段でなければならないとされています。


 宗教法人法が、「個人、集団又は団体」の宗教上の行為の自由を制限するものと解釈してはならないとしながら(第1条第2項)、「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をした」り、「宗教団体の目的を著しく逸脱した行為をした」宗教法人は、裁判所によって解散を命ぜられることがある旨定められている(第81条第1項)のもこの趣旨です。「オウム真理教」が解散命令(最高裁決定・平成8年1月30日)を受けたのも止むを得なかったわけです。


「信教の自由」が厚く保障されていると同時に、その「宗教的行為の自由」については「公共の福祉」等による制約が一方に厳然として存在していることも、お役中はよく理解しておかねばならないのです。

「政教分離原則」については、また機会があれば触れたいと存じます。

 

〔参照〕

日本国憲法第20条

(信教の自由、国の宗教活動の禁止)

①信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

②何人も宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

③国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 

 

 

 

 

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  オリーブの花がこれほど咲いたのは初めてです。オリーブは種類が違って、開花期が同じ頃の木を2本以上植えないと、結実しないって言うからそうしたけ・・・本当に実がなるかな?  
  このオレガノは観賞用で、いわゆるハーブとしては食用にならないないとか・・・。でも、綺麗です。(J・M)

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