○「参詣」の要素②……「給仕」
前回は「参詣」の要素①として、「親近(しんごん)」について申しあげ、同時にその注意点として、親近によってややもすると陥りかねない「悪狎(わるな)れ」「馴(な)れ馴れしさ」を戒めることの大切さ、恭敬(くぎょう)の心を失わないためにも「冥(めい)の照覧(しょうらん)」の教えを頂戴すべきことを申しました。
この「冥の照覧」について少し付言しておきたいと存じます。
元来「冥の照覧」の教戒は当宗の信行全般にわたる基本的な心得事の一つで、それは例えば「宗風」の第二号「受持(じゅじ)」の条文に「……本尊の冥の照覧を信じ、口唱を正意(しょうい)として妙法経力をたのみ、給仕第一とつとめ、受持の一行に徹する」と明記されていることからもよくわかります。ちなみに宗風の「受持」は、「信心の七宝」の中の「信」に基づきつつこれを当宗に即した内容として条文化されたものですから、当宗の信心つまり妙法受持の大切な要素だということです。なお「身(しん)・口(く)・意(い)三業(さんごう)による受持」に配当すれば、「口唱正意」は口業(くごう)に、「冥の照覧」は意業(いごう)に、「給仕第一」は身業(しんごう)による受持にあたります。
開導日扇聖人も御指南に仰せです。
①「自(おのずか)ら人目を謹むと云へども、全く冥の照覧を恐れず。此一句を常に口ずさむべし」
(御法門書・扇全八巻254頁)
②「智者愚者によらず、冥の照覧を恐るゝものなれば信者也。御弟子旦那也」
(当世講要・扇全十四巻260頁)
なお、中国でも元来は『礼記(らいき)』の中の各編の一つであった『大学(だいがく)』と『中庸(ちゅうよう)』にそれぞれ「君子(くんし)は必ず其の独(ひと)りを慎むなり」(大学)、「君子は其の独りを慎むなり」(中庸)とあって、立派な徳のある人は、他人の目のないときこそ自らの行為やあり方を慎むものだとされます。「小人(しょうじん)は閑居(かんきょ)して不善を為(な)す」(大学)に対する語で、こうした訓戒は世法(せほう)においても広く存在してきたものです。「冥の照覧」は佛立信心の上からのさらに徹底した教えであるわけです。
お役中は、まず自身がこの「冥の照覧」を忘れぬように努めさせていただくことが大切なのです。法華経には「諸天昼夜(ちゅうや)に常に法の為の故に而(しか)も之(これ)を衛護(えいご)す」(安楽行品)と示されていることはよく知られていますが、常に見そなわしておられるということは、お互いにとって都合のいいことだけをご覧になっているばかりでなく、都合の悪い行為や思いもすべてお見通しだということです。ご守護も「法の為の故に」なのですから、それも忘れてはならないと存じます。
「お給仕」も、そこに「生身(しょうじん)のみ仏」「生身のお祖師さま」がおいでだと思って、つまり「在(いま)すが如く」(如才(じょさい)なく)させていただくということがまずは大切なわけで、「冥の照覧」の教えは「給仕」においても大事な心得事だと申せるわけです。
○「給仕」……「法の給仕」と「人(にん)の給仕」
先月の「親近(しんごん)」において、「参詣は、道場に親近し、御宝前・み仏に親近し、御住職・お教務・ご信者方(つまり善師・菩薩方)に親近し、お仕え(お給仕)することでもあるわけです」と申しました。つまり参詣の中に自ずから親近もお給仕も伴っているのです。
み仏のご在世の時は、み仏の許(もと)に参詣し、お給仕・ご供養をさせていただくわけですから、その給仕は基本的に「人」(にん)(み仏)に対するものがそのまま「法」に対するものとなるわけで、給仕をことさら人(にん)・「法」(ほう)に分けて考える必要はなかったと存じます。しかしみ仏のご入滅後となれば、み仏の説かれた法と、それを説く人との別が生じてくるため、給仕にも人法(にんぼう)の一応の区分ができてまいります。もっとも日蓮聖人は次のごとく仰せです。
「又妙法の五字を弘め給はん智者をば、いかに賤(いやし)くとも上行(じょうぎょう)菩薩の化身か、又釈迦如来の御使(おんつかい)かと思(おもう)べし」
(法華初心成仏抄・昭定1422頁)
「(今末法の世に)妙法五字の題目を弘通してくださるお方は、真の意味の智者なのであり、たとえその身分や外見が拙(つたな)くとも、その方は本仏の御弟子である本化(ほんげ)上行菩薩がお姿をお変えになった方か、もしくはみ仏の御使(如来使(にょらいし))かと感得して、お敬いさせていただかねばならない」とのお意(こころ)です。
釈尊入滅後二千年より後の末法の世には、もちろん釈尊ご自身はおいでではないけれど、上行所伝の御題目を弘通する者すべてが本化の菩薩・如来使である、ということは、佛立教講こそそうなのだ、ということです。
お役中はまず自身がその自覚を持つと同時に、他の教講に対しても菩薩・如来使に対する敬いとお給仕の心を持たせていただくことが大切なのです。末法現代においての「人の給仕」の基本的な心得はここにあると存じます。法華経提婆達多(だいばだった)品第十二には、釈尊が前世に王として法華経を求め、阿私仙(あしせん)という仙人に師事(しじ)する姿がとても具体的に示されています。次の通りです。
「王、仙の言(ことば)を聞いて歓喜踊躍(かんぎゆやく)し、即ち仙人に随(したが)って所須(しょしゅ)を供給(くきゅう)し、果(このみ)を採(と)り、水を汲(く)み、薪(たきぎ)を拾(ひろ)い、食(じき)を設(もう)け、乃至身(ないしみ)を以て狀坐(じょうざ)と作(な)せしに、身心倦(しんじんものう)きことなかりき。時に奉事(ぶじ)すること千歳(ざい)を経て、法の為の故に精勤(しょうごん)し給侍(きゅうじ)して、乏(とぼ)しき所なからしめき」
(開結344頁)
お祖師さまも、そのご晩年の「身延山御書」に右の御文やその後の偈文(げもん)を引かれています。
「爾(そ)(そ)の時に阿私仙人と申す仙人来(きた)って申しける様は、実(まこと)に法を求め給ふ志御坐(こころざしおわさ)ば、我が云はん様に仕へ給へと云ひければ、大(おおい)に悦(よろこ)んで、山に入っては果(このみ)を拾ひ、薪(たきぎ)をこり、菜(な)をつみ、水をくみ、給仕し給ひける事千歳也。常に御(おん)口ずさみには、情存妙法故身心無懈倦(じょうぞんみょうほうこしんじんむけけん・情(こころ)に妙法を存(ぞん)ぜるが故に身心懈倦(しんじんけけん)なかりき)とぞ唱へ給ける。文(もん)の心は、常に心に妙法を習はんと存ずる間(あいだ)、身にも心にも仕(つかう)れども、ものうき事なしと云へり。此(かく)の如くして習ひ給ひける法は即(すなわち)妙法蓮華経の五字也。爾(そ)の時の王とは今の釈迦牟尼仏是也。仏の仕へ給ひて法を得給ひし事を、我朝(わがちょう)に五七五七七の句に結び置きけり。(乃至)『法華経を 我が得し事は薪(たきぎ)こり 菜つみ水くみ つかへてぞえし』(乃至)実(まこと)に仏になる道は師に仕ふるには過ぎず」
(昭定・1917頁)
法華経の御文には「精勤給侍」とありますが「侍」は「はべる」と訓(よ)み、近侍、侍者等と熟字するように、主人や師匠等の身近にはべり、つかえる意ですから、仕と同意です。なおここにも「給仕(侍)」と「親近(しんごん)」との元来の一体性がうかがえます。
お祖師さまご自身が、法華経の御文を頂き、その教えのままに自ら御宝前にお給仕されたことが拝せられるわけで、私共もまずこのみ教えをそのまま頂戴させていただくことが大切なのです。先に引用した宗風第二号「受持」の条文に「給仕第一とつとめ」とあるのも、この教えをいただいたものに他なりません。
私共佛立教講が、教務がお師匠や先輩お教務にお仕えし、ご信者がお導師・お教務方や他のご信者方にお給仕させていただく(人の給仕)と同時に、御宝前に唱題の音声(おんじょう・御法味(ごほうみ)をお供えし、毎日お掃除をさせていただき、お初水やお供え物、香華等(法の給仕)のお給仕を第一として大切にさせていただくのも同じ心、同じ姿なのです。
○「朗門(ろうもん)の三則」
―給仕第一、信心第二、学問第三―
お祖師さまのお弟子の中でも最上足(じょうそく・高弟)の六師を「六老僧」と申し、その一人である日朗(にちろう)苦薩の門流を「日朗門流」「朗門」と申します。日朗(筑後[ちくご]房)は、お祖師さまの最初の弟子となった日昭の甥で、日昭が弟子となった翌年(建長六年)わずか数えの十二歳でお祖師さまの弟子となり、以来お祖師さまに近侍し続けた方です。立教開宗の翌年以来ですから文字通りお祖師さまのご弘通と共に歩まれたわけで、竜の口・佐渡のご法難の時も、捕えられ鎌倉で土籠(つちろう)に入れられています。伊豆のご流罪でも最後まで舟べりに取りつき、ために腕を折られていますし、佐渡へ赦免(しゃめん)(しゃめん)状を届けた(赦免の旨を通知した)のも日朗であったとの説もあります。ことほどさように近侍されたのです。佛立宗は他ならぬこの門流にあるわけで、この朗門流に伝わる大切な教えが「朗門の三則」つまり「給仕第一、信心第二、学問第三」の教えなのです。
先に申しておきますが、この第一から第三という順番は、必ずしも価値(大切さの度合)の順位を示すものではありません。まず「給仕」させていただく。この給仕を通じてこそ正しい「信心」を感得させていただける。そしてこの信心を土台として学問をし、御法門を学ばせていただいてこそ正しい「学問」となるという順序次第を示す教えなのです。そういう意味でまず「給仕」が基本であり、大切・第一だというのです。
前々号で記したように、当宗の信心は「信行」というように優れて身体的な面があり、行(ぎょう)を通じてはじめて感得でき「腑(ふ)におちる」面が基本的にあるのです。だからこそ、理屈から入るのではなく、身体性の強い「給仕」から入ってこそ正しい信心を感得し、正しい学問を得ることができる、という筋道を大切にするのです。「朗門の三則」はこのことを端的に示すものとも申せます。
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