―「一緒に入門」「できたてほやほや」の心で―


○「位弥下」の心と「一緒に入門」の心

 


 先月は「『教弥実位弥下』の教え」の(1)ということで、その基本的な意味を学ぶため、日蓮聖人の『四信五品抄』の御文の一節をいただきました。もう一度簡単にまとめておけば、「度(ど)しがたい凡夫(ぼんぶ)を、何とかして救済し、成仏せしめんとのみ仏の慈悲の具体化したありよう」が「教弥(いよいよ)実なれば位弥下る」ということであり、次のような譬えを記しました。

 「例えば、薬についていえば、軽い病気や怪我ならちょっとした売薬や消毒で十分対応できるし、体力や免疫力の高い人なら少々の疾病などはほおっておいても自分の力で治すことができる。ところが重病・重症ともなればそれなりの医療・投薬・手術などが必要になる。ましてや、難病や重篤な症状ともなれば、これは最高の対応が求められる。末法の衆生はいわば重病中の重病で、しかも自身の体力も気力も免疫力も最低の状態であるから、どうしても最高の薬・医療を施す必要がある、というわけです。」

 


末法のおたがいは、おしなべて三毒強盛(さんどくごうじょう)・罪根甚重(ざいこんじんじゅう)で、このままだと堕獄(だごく)するしかない定業(じょうごう)堕獄の凡夫ですから、これ以上下(した)はない救い難く、度し難い者(下根下機[げこんげき])ばかりなのです。ところがみ仏は、それを哀れに思い、何とかして救ってやりたいと大慈悲心をおこされ、そんな凡夫でも救うことができる力をもった最高の教えである御題目を与えてくださったわけです。


教(薬)が真実・最高であるからこそ定業堕獄の凡夫(重病人)をも救うことができる、末法の凡夫だからこそ最高の御題目を、というのが「教弥実位弥下」の教えから導かれる具体的帰結であり、言いかえれば、このことを明らかにすることが「教弥実位弥下」の教えの一番の目的なのです。

 


さて、先月号では「易しさ」も教弥実位弥下の大切な要件であり、「わずか五字・七字の御題目を信じ唱えるだけ」という当宗の修行の易しさも、教弥実位弥下の教えなればこそだといいました。それは体力・能力の低い者に難しく高度な技術の習得を強いることができないのと同じです。幼児を導くには、幼児でもできる方法が求められるわけで、そういう意味での易しさです。赤子(末法の凡夫)には、完全栄養食でありながらただ飲むだけでいい母乳(妙法)を、というのはそういうことなのです。


○「できたてほやほや」の心で導く

「易しさ」を大切にして他の人を導く、ということにつき、最近読んだ本で教えられたことがあります。『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)という「構造主義」の入門書です。

 


私は「構造主義」という哲学などについてここで説明しようとは思いませんから、それとは全く無関係に、気楽に読み進んでください。私がいわば目を開かれたのは、例えばその前書きです。次のようにあります。

「何しろ『知らない』ことを調べながら書く自転車操業ですから、(中略)『ついさきほど、“あ、なるほど、そういうことね”と膝(ひざ)を打った』という『出来たてほやほや』の状態にあります。(中略)これは『地球の歩き方』を読むときには、現地に三代前から住んでいる人の情報よりも、さきほどそこを旅行してきたばかりの人の情報のほうが、旅行者にとっては『使い勝手がよい』というのと同じです。」〈同書「まえがき」13頁>

 


この書に対する書評も併せて紹介しておきます。実は、私がこの本を知ったのはこの書評によってなのです。

「どの分野でも『入門書』は面白くない。それは書き手が一段高いところから読者に知識を与えているからだ。そこで著者はこう定義をする。『入門書』とは自分も知らなかったことを書く本。読者と一緒に入門しようというわけだ。そうなればどこがわかりにくいかわかるから、わかりやすく書けるし、読者と体験を共有できる。」(毎日新聞・平成14年8月4日「今週の本棚」渡辺 保・評)

 


この『寝ながら学べる構造主義』は文春新書の№251.平成14年6月20日刊で、著者の内田 樹(たつる)氏は現・神戸女学院大学文学部総合文化学科の教授。専門はフランス現代思想ですが、映画論や武道論等も研究している方ですから、もちろん素人ではありません。しかし、この本は本当に素人にも読み易く、しかも面白くて、何とも分かり易いのです。譬喩も沢山使用します。専門家として一段高いところから教えようとするのではなく、自分も同じ入門者として、ちょっと一歩先にやっと分かったこと、納得したことをそのまま記してくれる、それが「できたてほやほや」「共に入門」という心なのでしょう。

 「教弥実位弥下」は幼児にも分かり、実際にできる“易しさ”を要件とする、と申しましたが、その具体的な心、具体的なありようを教えてくれていると思うのです。例に『地球の歩き方』を挙げていますが、あれはプロではない、全くの素人が海外に旅して、その現地・現場での自分の苦労や失敗も含めて紹介し、だからこうすると上手(うま)く行く、こうしないと大変だといったことを記してくれていますね。ちょっとしたことが実際にはつまずきのもとになる、これがコツだ、ということがよく分かるわけです。


○お役中も「一緒に入門の心」を大切に

 ご信心のことを教える際もこの心がほんとうに大切です。お役中も「私も一緒に入門するのよ」「私もこんなことがあって、こうしたらやっと上手くできたのよ」といった心や姿勢で他のご信者や新入信者さんを導く、「ほんの一歩先しか知らないけれど、それにまだまだ知らないことも多いけれど、私と一緒に頑張っていこうね」といったあり方が大切だと思うのです。

 
 笑い話のようですが、ある先輩お教務さんが次のような実話を語ってくださいました。

「毎日せめてお線香一本は自宅でいただきなさい」と教化親が教えたら、教化子がしばらくして「毎日教えられた通り、一本は線香を食べていますが、とてもそれ以上は食べられません」と答えて驚いた。あるいは「毎日必ずお看経(かんきん)をしなさい」と言ったところ、相手は「毎日換金(かんきん)せよとは何と大変な宗教だと思った」と、これも後になって告げた、等です。

 

これらは少し極端な例でしょうが、でも、私たちがもう「当たり前のこと」と思って何気なく使っている言葉の一つひとつが、相手には理解できていなかったり、誤解を招いていたりすることが結構あるものなのです。

 本当の意味で「私も新人信者のつもりで」ということは、実際には余程の努力を要することだと存じます。「お看経をいただく」という最も基本的な言葉でさえそうなのです。

 


さらに言えば、自分でも本当にしっかりその意味や意義がわかっているか、実際に出来ているか、考えてみれば心もとない限りです。用語だけではありません。総じておたがいの信行生活全体、ご奉公の姿を「位弥下の心」でもう一度見直してみることも、お役中にとってとても大切なことではないでしょうか。