─「ジェンダー・フリー」に寄せて─
○「差別」と「区別」「差違」
前回は「無常」について『徒然草(つれづれぐさ)』の一節なども引用しながら、「自身も含めてすべては無常であるが、だからこそ一日一日を大切に」ということを申しあげました。ただ、前回は触れませんでしたが、「諸行無常」といえばすぐに生命の無常、生老病死の迅速(じんそく)であることに意識が向かいますが、「無常」によって感得すべきものは、決して悲観的な価値観や感懐だけではありません。「無常だからこそ今が大切」という、現在の価値を高からしめる価値転換はもちろんのこと、もう一つ「すべては遷(うつ)り変り、変化する」からこそ、例えば「現在が苦しくとも、それが善い方向に変わっていくことも可能」であるというプラス方向での受け止め方もできるのです。
つまり、「冬はいつかは春になる」という把(とら)え方もできる訳です。「すべては変化する」とはそういうことでもあります。何時かは知らないが、刻一刻臨終に近づいているのは厳然たる事実ですが、だからこそ今を大切に、というのと同時に、今と未来をよりよい方向に変えていく、それを自身の努力はもとよりのこと、妙法の経力を頂いてさせていただこうというところに、このご信心の妙味があるのだと存じます。
さて今回は「平等と差別」というテーマです。これも随分大きな問題ですから、そのほんの一部を、特に役中さんにも必要だと思う範囲で触れておきたいと存じます。
最初にちょっとお断りしておきたいのは「差別」という言葉の意味です。現代の用語で「差別(さべつ)」というと「法の下(もと)の平等」に反するような、人種、性別、家柄等による非合理的ないわれのない差別、つまり人種差別とか女性差別等の社会的、文化的、心理的な偏見に基づく蔑視や不平等なあり方を指しますが、仏教でいう「差別(しゃべち)」は、決してそういう意味ではなく、現代用語で言うなら「差違」「相違」「区別」等の意味で用いています。この点どうか誤解のないようにお願いします。私もできるだけそうした誤解を招かないよう、注意はいたしますが、どうか混同・誤解をなさいませんよう、この点よろしくご注意ください。
○「不二(ふに)」と「而二(にに)」
前回にも引用させていただいた開導聖人の御指南に「能所(のうじょ)不二(ふに)の上に而二(にに)なりの事」(扇全17巻338頁)という出典がありました。これは「道場」に関する御指南で、法華経如来神力品第二十一の中の「若於僧坊(にゃくおそうぼう) 若白衣舎(にゃくびゃくえしゃ)〈乃至〉是中皆応起塔供養(ぜちゅうかいおうきとうくよう)〈乃至〉当知是処即是道場(とうちぜしょそくぜどうじょう)」[若(もし)は僧坊においても、若は白衣の舎(しゃ)にても、〈乃至〉是中(このなか)に皆塔(みなとう)を起(た)て供養すべし。〈乃至〉当(まさ)に知(しる)べし、是処(このところ)は即(すなわち)これ道場也](『妙講一座』所収)の「即是道場」の理解の仕方についての説明でもあります。
どういうことかと申しますと、この御文は、み仏が、寺(僧坊)であろうと、在家の信者の家(白衣舎)であろうと、山や谷間や曠野(こうや)であろうと、それがどこであっても、御題目(御本尊)をおまつりして御題目をお唱えすれば、そこは皆「道場」なのだと仰せになっているという御文です。この「即是道場」とあるのを根拠に、「自宅にも御宝前があるのだから、これもお寺と同じく道場に違いがないはずだ。だから、特にお寺や御講席に参らなくても自宅でしっかりお看経(かんきん)をあげていれば十分で、何もわざわざ遠くまで参詣しなくてもいいでしょう」、というご信者の質問に対して、「いや確かに道場という意味では同じ一つのもの(不二)だけれど、同じ道場でもその中にも能所(のうじょ)という違い、区別がある(而二)のだよ」、というのが「不二而二[ふににに]」(不二にして二)ということなのです。
「能所(のうじょ)」というのは、このシリーズの通番の⑤(平成14年5月号)で少し説明したように、「能」は元来が漢文の「能(よ)く……す」という能動の意であり、「所」は「……せ所(ら)る」という受身・受動の意に基づくもので、例えば「能化(のうけ)」は化導をする側、「所化(しょけ)」は化導を受ける側であり、仏と衆生、師匠と弟子等もそれぞれ能所の関係になるわけです。前回で「本(もと)」と「末(すえ)」と記したのも、こういう意味に基づく「本末(ほんまつ)」です。念のため申しますと、み仏においても久遠の本仏は「能」、他の諸仏・迹仏(しゃくぶつ)はすべて「所」ですし、み仏に対すれば衆生は、すべて「所化」です。
末法のお互い衆生はすべて三毒強盛・定業(じょうごう)堕獄の凡夫なのですから「師弟(してい)ともに凡夫」であることは同じ(不二)ですが、その同じ凡夫であっても師弟という違い・区別はやはりある(而二)ということになります。仏教でいう差別(しゃべち)というのは原則としてこういうことです。
もっとも小乗仏教はもとより大乗仏教でも法華経以前は五逆(ごぎゃく)罪を犯した極悪人はもとより、声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)の二乗(にじょう)、女人(にょにん)等は成仏できないとされていました。これはやはり不平等で差別的な教えだといわれても致し方ないと存じます。しかし法華経はそうではありません。極悪人も、二乗も、もちろん女性も、誰であろうと妙法を信じ唱えて菩薩行に励めば、すべて成仏できるのだと申します。その意味で「平等」です。ただし、先にも記したように、末法のお互いはすべて未下種(みげしゅ)の凡夫ですから、妙法を受持信唱しない限りは定業(じょうごう)通り堕獄する、という点でも平等です。こういう基本的な平等の上での「師弟」であり、「教講」であり、「役中」と「一般信者」という能所の別・差違・区別があるわけです。さらに申せば、同じ役中や信者でも、十人十色で皆違います。これも「而二」です。
これを世間でいえば老若男女おしなべて人間であるという点においては全く同じ(不二)だけれど、その中でも老幼、男性と女性、親と子といった違いもあれば、さらに個性もあるということですね。
もっとも、この違いが「男女の性別で上下がある」という考え方になると、これはいわゆる「女性差別」に他なりません。これは誤った考え方ですが、程度の差はあっても、どこの社会にも、そうした差別が現代でも存在しています。これを正しい方向に変えていこうとするのが「女性学」であり、いわゆる「ジェンダー・フリー」という概念です。
現代のお役中はこういった問題もある程度承知しておく必要があり、それは今後ますます重要になってくると存じます。私自身、この問題に関していえば、改良すべきところが多々あるわけで、決して偉そうなことは申せません。文字通り「一緒に入門」ということで、極く基本的な理解だけでもさせていただきたいと存じます。
○「女性学」と「ジェンダー・フリー」
いわゆる「女性学」や「ジェンダー・フリー」に関する書籍は、少し大きな書店へ行けば専門のコーナーが設けられており、関係書はそれこそ山ほど刊行されています。ちなみに私が参考にさせていただいたのは『女性学教育・学習ハンドブック=ジェンダー・フリーな社会をめざして』(新版・国立女性教育会館 女性学・ジェンダー研究会編著 有斐閣[ゆうひかく] 2001年刊)です。
同書によれば、「女性学は1960年代末の第二フェミニズム運動の中から生まれたが、女性差別の撤廃(てっぱい)は、『国連女性の十年』をつうじて世界の女性たちの共通目標となり、『女性差別撤廃条約』や『北京行動綱領』へと結実していった」ものです。そして「女性学が誕生以来、ここ四半世紀の間に生み出した主要概念の一つが『ジェンダー』(社会的・文化的な性別・性差別)である」とあります。したがって「女性学」でいうジェンダー概念は「男女の上下、優劣、支配服従の関係を維持するための装置」なのです。もう少し説明すると、「ジェンダー」(Gender)とは、「一般に、オス、メスといった生物学的な性のあり方を意味するセックス(sex)に対して、文化的・社会的・心理的な性のあり方をさす用語として使われている。(中略)『男らしさ』『女らしさ』といった固定的な『らしさ』を意味する。セックスは自然が生み出したものだが、ジェンダーは、人間の社会や文化によって構成された性であり、文化や社会において、また歴史の展開に対応して変化する」とあり、さらに「このジェンダーの構図は、家庭・地域社会・学校から職場まであらゆる生活領域において構造化されることで、男性優位の支配メカニズムを支える大きな要因ともなっている」ということです。「ジェンダー・バイアス」とは「ジェンダーに基づく固定的な決めつけ・偏見」等を意味し、こうした「ジェンダーの束縛(そくばく)から自由になった、固定的な性別にとらわれない状況」が「ジェンダー・フリー」なのです。
「ジェンダー・フリー」に関する講座は、既に多くの大学や短大等に設けられており、自治体・企業・地域等でも研修会などが広範に開催されています。
どうでしょう。この問題に関するお役中の理解は、これからのご奉公の上でもとても大切になってくると思われませんか。
次回ではもう少し具体的に申しあげたいと存じます。
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