─「ジェンダー・フリー」に寄せて─
○「男女共同参画」とは
前回は「平等と差別」という問題について仏教でいう「不二(ふに)と而二(にに)」という視点からの見方を紹介しつつ、この観点からいわゆる「ジェンダー・フリー」という概念の基本的な説明を試みました。
もっとも、前回も申したように、この問題は、私自身随分至らない点が多いわけですから、「ともに入門」ということで、一緒に勉強し、考えてまいりたいと存じます。
「不二」と「而二」についてもう一度申せば、「不二」は「同一性」であり、「而二」は「相違」「個別性」「不同性」を意味します。それが「而二不二」と熟字すれば「個性はありながらも本質的には同一である」(同一性の重視)という意になり、反対に「不二而二」となると「本質的には同じでありながら現実的・具体的には個性的・個別的である」(個別性の重視)という意味になります。これを男女でいえば「而二不二」は「男と女は性別は異なるけれど人間という意味では同じだ」となり、「不二而二」だと「人間という点で男も女も違いがないが、性という点から見れば男女の性別がある」ということになります。それは同性であっても、何であっても同一性と個別性はあるわけですから、あらゆるレベルや範疇(はんちゅう)についていえることです。特に生物や自然(天然)のものについていえば全く同じ個体は一つとして存在しません。木でも虫でも、たとえ同じ種であってもすべて個体差があります。それが「而二」ということです。
ところが、人間は、歴史的・文化的・心理的に、例えば男はこうあるもので、女はこうあるべきだという決めつけや典型・モデルがあって、本来なら同一・平等であるべき部分までそのように考えず誤った差別をしている場合もあれば、反対に、相違に基づいて区別すべきところを同一視してしまうこともあるわけです。
ここで「ジェンダー・フリー」や「男女共同参画」に関連して、最近問題になっている卑近な例をいくつか挙げてみましょう。
①大相撲春場所(大阪場所)の優勝者に対し大阪府知事が土俵上で「知事賞」を授与してきた慣例があるが、太田知事になってから「女性である」ことが、大相撲のしきたり(神事としての伝統で、女人が土俵に入ることを禁制する)に触れるとして、土俵上での授与を相撲協会側が拒否してきたことが物議をかもしています。
特に今年(平成16年)は、3月14日の初日を控えた12日、市民グループの過去3回にわたる要請を受けた府の監査委員会が「知事が女性であることを理由に土俵上での授与を拒んでいるにも拘わらず、この賞のために公金50万円を支出するのは、男女共同参画社会のあり方としては適切でない」旨、府側に勧告したことが報道されました。
②某自治体のパンフレットのイラストで、女の人の乗っている自転車に前カゴをつけたところ、それが「買い物は“女の仕事”だと決め付けているような印象を与える」としてボツになった例もあります。
③先頃の関西テレビ『とくダネ!』では、日本人男性の約3割が、洋式トイレでの小用を座ってしているというアンケート結果が紹介されました。因みに、ほとんどの外国人男性は「立って」しており、日本の調査結果に驚いています。「立ってするとしぶきでトイレを汚すから、座って!」という妻の要請によるというのが一番の理由だそうですが、「男は立って、女は座ってするのが当然だ」と、何の疑いもなく思い込んできた筆者にはショッキングな結果でした。2人の息子にもそう教えてきたのですが、これも一種の決め付けであり、「ジェンダー・バイアス」なのでしょうか。確かに洋式トイレは、構造的には座用を主に作られているようです。しかし、これこそ性別による体の器官の相違にも関係します。できるだけ汚さぬよう注意をし、汚した場合は自分でキレイにするということで、折り合いは付けられないかと存じます。
①の神事等における「女人禁制」は、主として女人に対する不浄観等に根ざす場合が多く、これは山岳信仰や神社・仏閣・社域・寺域等における「結界」等にも関係している場合があります。ただし、大峯山などは女人禁制であるのに対し、熊野は生理中の女性でも入山できますから、いろいろです。祭りでもそうですね。古来の伝統もあり、そう簡単には参りませんが、どちらかといえば開放されていく傾向にあるかと存じます。なお、当宗には、この種の「禁制」は全くありません。
②の前カゴ付きの自転車は、そんなに神経質になる必要があるのかと存じます。自治体のパンフだから神経質になっているのでしょう。因みに筆者の自転車は、前にも後部にもカゴが付いていて、それが重宝です。ただ関西弁の「ママチャリ」[買物自転車]という呼称などは、使い方によってはやはり問題になりそうです。
○ご奉公の中での役目の分担・協力にも「男女共同参画」の観点を
ご奉公の中でまず問題になるのは言葉遣(づか)いでしょう。人前で、何の抵抗もなく自然に「妻」と言えず、ついつい「家内」などと言っている私などは既に問題ありです。でも女性も自分の夫のことを「主人」とか「檀那」とか呼んでいる方は結構多いようです。でも、それでお互いに問題がなければ、まずはよしとしていいのではないかと存じます。あまり神経質になると却(かえ)ってギクシャクしてしまいますからね。お祖師さまが「や(箭)のはしる事は弓のちから、くも(雲)のゆくことはりう(竜)のちから、をとこ(男)のしわざは女のちからなり」(富木尼御前・昭定1147頁)と仰せのように、女性としては「夫のあり方は、つまるところ妻である私次第だ」くらいに思っていたらいいのだと存じます。実際のところ多分にその通りだとも思われますから。
ただ役務やご奉公においては、今後はやはり「男女共同参画」はさらに進めるべきかと存じます。現在でもすでに組(部)長や教区長をはじめ、各種役中さんの半分前後は女性がなさっておいでです。もっともこれが事務局の幹部や責任役員等になると急に数が減少し、さらに宗門レベルになれば責任役員は男性ばかりであり、宗会議員でも女性は現在(当時)1名のみ(58名中)です。こういう点はやはり少々気になります。お教務について申せば、女性の数は極く少なく、国内の寺院で女性の住職は現在ありませんし、夫のある女性教務もありません。念のため申しておきますが、これは結果的に現状がそうなのであって、制度上は何の差別もありません。でも実際には、当宗では若い女性が剃髪得度する例はまずありません。やはり種々の困難があるのです。剃髪や結婚はもとより、教務さんの学校等の受け入れ態勢も、女性にとっては男性以上の困難が伴うようです。これも将来問題になる可能性は無きにしもあらずです。
次に各種のご奉公の現場について考えてみます。
①最初に御講席に関連した問題です。
まず自宅で御講を奉修させていただく際、席主が夫の名であれ、妻の名であれ、準備等、本来分担協力してさせていただくのが理想ですが、実際には一方に任せっ切りのこともあります。こういったところから少しずつでも協力していけたらと存じます。また参詣者の席などについても役目柄というのは別として、とにかく男性は前、女性はその後という風に決め付けるのはどうでしょう。一般世間の慣習も大きく影響していますから、急にどうこうはできにくいものでしょうが、それが当然という感覚は(特に男性の)、今後は改めていく必要があります。「女だてらに」とか「女子供が」といった感覚や言葉も要注意です。
②次に、具体的な各種のご奉公は、例えば設営や撤収などの力を要するご奉公なら、やはり男子青年会や壮年会が中心になるでしょうし、ご供養の調製なら力を要するところは男性が、細かな作業は女性が中心となるという分担・協同が大切になるでしょう。それらは自然にそうなっているはずです。男女の性別によって、肉体的な性差は当然あるのですから、それに基づく相違があるのは当然です。でも、性別とは関係のない作業については、共同参画すべきであり、双方の見方や意見が出され、それを共に考えた方がよい企画や結果が期待できることが多々あろうと存じます。
同じ人間であり、同じ佛立信者であっても、男女をはじめ種々の共通点や相違点があるのですから、要はそれをちゃんと認識しつつよりよい関係やあり方を築きあげていく努力が、私たちにも求められているのです。
「男女共同参画の社会の中での佛立宗のお役中のあり方は?」という視点も、これからのお役中には求められていると存じます。
─「ジェンダー・フリー」に寄せて─
○「男女共同参画」とは
前回は「平等と差別」という問題について仏教でいう「不二(ふに)と而二(にに)」という視点からの見方を紹介しつつ、この観点からいわゆる「ジェンダー・フリー」という概念の基本的な説明を試みました。
もっとも、前回も申したように、この問題は、私自身随分至らない点が多いわけですから、「ともに入門」ということで、一緒に勉強し、考えてまいりたいと存じます。
「不二」と「而二」についてもう一度申せば、「不二」は「同一性」であり、「而二」は「相違」「個別性」「不同性」を意味します。それが「而二不二」と熟字すれば「個性はありながらも本質的には同一である」(同一性の重視)という意になり、反対に「不二而二」となると「本質的には同じでありながら現実的・具体的には個性的・個別的である」(個別性の重視)という意味になります。これを男女でいえば「而二不二」は「男と女は性別は異なるけれど人間という意味では同じだ」となり、「不二而二」だと「人間という点で男も女も違いがないが、性という点から見れば男女の性別がある」ということになります。それは同性であっても、何であっても同一性と個別性はあるわけですから、あらゆるレベルや範疇(はんちゅう)についていえることです。特に生物や自然(天然)のものについていえば全く同じ個体は一つとして存在しません。木でも虫でも、たとえ同じ種であってもすべて個体差があります。それが「而二」ということです。
ところが、人間は、歴史的・文化的・心理的に、例えば男はこうあるもので、女はこうあるべきだという決めつけや典型・モデルがあって、本来なら同一・平等であるべき部分までそのように考えず誤った差別をしている場合もあれば、反対に、相違に基づいて区別すべきところを同一視してしまうこともあるわけです。
ここで「ジェンダー・フリー」や「男女共同参画」に関連して、最近問題になっている卑近な例をいくつか挙げてみましょう。
①大相撲春場所(大阪場所)の優勝者に対し大阪府知事が土俵上で「知事賞」を授与してきた慣例があるが、太田知事になってから「女性である」ことが、大相撲のしきたり(神事としての伝統で、女人が土俵に入ることを禁制する)に触れるとして、土俵上での授与を相撲協会側が拒否してきたことが物議をかもしています。
特に今年(平成16年)は、3月14日の初日を控えた12日、市民グループの過去3回にわたる要請を受けた府の監査委員会が「知事が女性であることを理由に土俵上での授与を拒んでいるにも拘わらず、この賞のために公金50万円を支出するのは、男女共同参画社会のあり方としては適切でない」旨、府側に勧告したことが報道されました。
②某自治体のパンフレットのイラストで、女の人の乗っている自転車に前カゴをつけたところ、それが「買い物は“女の仕事”だと決め付けているような印象を与える」としてボツになった例もあります。
③先頃の関西テレビ『とくダネ!』では、日本人男性の約3割が、洋式トイレでの小用を座ってしているというアンケート結果が紹介されました。因みに、ほとんどの外国人男性は「立って」しており、日本の調査結果に驚いています。「立ってするとしぶきでトイレを汚すから、座って!」という妻の要請によるというのが一番の理由だそうですが、「男は立って、女は座ってするのが当然だ」と、何の疑いもなく思い込んできた筆者にはショッキングな結果でした。2人の息子にもそう教えてきたのですが、これも一種の決め付けであり、「ジェンダー・バイアス」なのでしょうか。確かに洋式トイレは、構造的には座用を主に作られているようです。しかし、これこそ性別による体の器官の相違にも関係します。できるだけ汚さぬよう注意をし、汚した場合は自分でキレイにするということで、折り合いは付けられないかと存じます。
①の神事等における「女人禁制」は、主として女人に対する不浄観等に根ざす場合が多く、これは山岳信仰や神社・仏閣・社域・寺域等における「結界」等にも関係している場合があります。ただし、大峯山などは女人禁制であるのに対し、熊野は生理中の女性でも入山できますから、いろいろです。祭りでもそうですね。古来の伝統もあり、そう簡単には参りませんが、どちらかといえば開放されていく傾向にあるかと存じます。なお、当宗には、この種の「禁制」は全くありません。
②の前カゴ付きの自転車は、そんなに神経質になる必要があるのかと存じます。自治体のパンフだから神経質になっているのでしょう。因みに筆者の自転車は、前にも後部にもカゴが付いていて、それが重宝です。ただ関西弁の「ママチャリ」[買物自転車]という呼称などは、使い方によってはやはり問題になりそうです。
○ご奉公の中での役目の分担・協力にも「男女共同参画」の観点を
ご奉公の中でまず問題になるのは言葉遣(づか)いでしょう。人前で、何の抵抗もなく自然に「妻」と言えず、ついつい「家内」などと言っている私などは既に問題ありです。でも女性も自分の夫のことを「主人」とか「檀那」とか呼んでいる方は結構多いようです。でも、それでお互いに問題がなければ、まずはよしとしていいのではないかと存じます。あまり神経質になると却(かえ)ってギクシャクしてしまいますからね。お祖師さまが「や(箭)のはしる事は弓のちから、くも(雲)のゆくことはりう(竜)のちから、をとこ(男)のしわざは女のちからなり」(富木尼御前・昭定1147頁)と仰せのように、女性としては「夫のあり方は、つまるところ妻である私次第だ」くらいに思っていたらいいのだと存じます。実際のところ多分にその通りだとも思われますから。
ただ役務やご奉公においては、今後はやはり「男女共同参画」はさらに進めるべきかと存じます。現在でもすでに組(部)長や教区長をはじめ、各種役中さんの半分前後は女性がなさっておいでです。もっともこれが事務局の幹部や責任役員等になると急に数が減少し、さらに宗門レベルになれば責任役員は男性ばかりであり、宗会議員でも女性は現在(当時)1名のみ(58名中)です。こういう点はやはり少々気になります。お教務について申せば、女性の数は極く少なく、国内の寺院で女性の住職は現在ありませんし、夫のある女性教務もありません。念のため申しておきますが、これは結果的に現状がそうなのであって、制度上は何の差別もありません。でも実際には、当宗では若い女性が剃髪得度する例はまずありません。やはり種々の困難があるのです。剃髪や結婚はもとより、教務さんの学校等の受け入れ態勢も、女性にとっては男性以上の困難が伴うようです。これも将来問題になる可能性は無きにしもあらずです。
次に各種のご奉公の現場について考えてみます。
①最初に御講席に関連した問題です。
まず自宅で御講を奉修させていただく際、席主が夫の名であれ、妻の名であれ、準備等、本来分担協力してさせていただくのが理想ですが、実際には一方に任せっ切りのこともあります。こういったところから少しずつでも協力していけたらと存じます。また参詣者の席などについても役目柄というのは別として、とにかく男性は前、女性はその後という風に決め付けるのはどうでしょう。一般世間の慣習も大きく影響していますから、急にどうこうはできにくいものでしょうが、それが当然という感覚は(特に男性の)、今後は改めていく必要があります。「女だてらに」とか「女子供が」といった感覚や言葉も要注意です。
②次に、具体的な各種のご奉公は、例えば設営や撤収などの力を要するご奉公なら、やはり男子青年会や壮年会が中心になるでしょうし、ご供養の調製なら力を要するところは男性が、細かな作業は女性が中心となるという分担・協同が大切になるでしょう。それらは自然にそうなっているはずです。男女の性別によって、肉体的な性差は当然あるのですから、それに基づく相違があるのは当然です。でも、性別とは関係のない作業については、共同参画すべきであり、双方の見方や意見が出され、それを共に考えた方がよい企画や結果が期待できることが多々あろうと存じます。
同じ人間であり、同じ佛立信者であっても、男女をはじめ種々の共通点や相違点があるのですから、要はそれをちゃんと認識しつつよりよい関係やあり方を築きあげていく努力が、私たちにも求められているのです。
「男女共同参画の社会の中での佛立宗のお役中のあり方は?」という視点も、これからのお役中には求められていると存じます。
多分、寒桜の交配品種「陽光」(ようこう)だと思いますが…。鉢植えで花を付け、今日(春分の日。春のお彼岸)最初の花が開花しました。何でも、鹿児島では今日「桜の開花宣言」が出たとか…。ウチのお寺の桜(ソメイヨシノ)は、膨らんできたとはいえ、まだ蕾です。開花にはまだ数日を要しそうです。(J・M)
何年か前に頂いて地植えにしてたら、年々元気に成長して、今年は沢山の蕾を付けてます。アーモンドは、バラ科で桜や桃、杏子の仲間です。日本で「花」といえば、基本的には桜の花のことですが、中国なら、杏子や桃、さらには牡丹等の花を指す由。アーモンドは杏子に近い仲間なのかもね。実はペッタンコの桃みたいで、果肉は硬いし、薄いし、とても食べられません。やはり核果の中の仁を利用するのだと存じます。(J・M)
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